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飯縄権現(いづなごんげん)の島(しま)
 大房岬(たいぶさみさき)の増間島(ますまじま)は、江戸時代(えどじだい)に降った(ふった)大雨(おおあめ)の時(とき)、増間村(ますまむら)(今(いま)の三芳村増間(みよしむらますま))から流れて(ながれて)きたという民話(みんわ)がありますね。
 房州中(ぼうしゅうじゅう)に広まって(ひろまって)いる有名(ゆうめい)な増間(ますま)の馬鹿話(ばかばなし)の一つ(ひとつ)ですから、誰(だれ)も本当(ほんとう)にしないとは思い(おもい)ますが、念(ねん)のため言い(いい)ますと、島(しま)は江戸時代(えどじだい)どころではなく、約一千万年前(やくいっせんまんねんまえ)(地質時代(ちしつじだい)の第三紀(だいさんき))に、海底火山(かいてかざん)の活動(かつどう)によって大房岬(たいぶさみさき)といっしょに成立(せいりつ)したものなのです。島(しま)の地層(ちそう)は「鏡ヶ浦層(かがみがうらそう)」です。
 島(しま)は信仰(しんこう)の関係(かんけい)でも、増間(ますま)の人(ひと)たちが水神様(すいじんさま)を祀る(まつる)千年以上(せんねんいじょう)も前(まえ)から、修験道修行(しゅげんどうしゅぎょう)の場(ば)になっていました。大宝元年(たいほうがんねん)(七〇一)役小角(えんのおづぬ)が不動明王(ふどうみょうおう)を祀った(まつった)ことから、大房岬(たいぶさみさき)が修験道(しゅげんどう)の霊地(れいち)に発展(はってん)し、島(しま)の頂上(ちょうじょう)に『飯縄権現(いづなごんげん)』が祀られた(まつられた)のです。
 飯縄権現(いづなごんげん)とは、竹(たけ)の管(くだ)に入れた(いれた)「管狐(くだぎつね)」(想像上(そうぞうじょう)の小さな(ちいさな)狐(きつね))を使って(つかって)、不思議(ふしぎ)な術(じゅつ)を行う(おこなう)山(やま)の神様(かみさま)で、本社(ほんしゃ)は信州長野市(しんしゅうながのし)の飯縄山(いづなやま)にあります。深く(ふかく)信仰(しんこう)すれば、飯縄権現(いづなごんげん)からその術(じゅつ)を感得(かんとく)できるとあって、修験者(しゅげんじゃ)が崇めた(あがめた)のです。
 それにしても増間(ますま)の人(ひと)たちは凄い(すごい)ですね。飯縄権現(いづなごんげん)の島(しま)の呼び名(よびな)を、民話(みんわ)で増間島(ますまじま)と変えた(かえた)のですから・・・。
 
 
木の倉山(このくらやま)の神(かみ)
 この昔話(むかしばなし)は、「山(やま)の神(かみ)」という題名(だいめい)で、大正八年(たいしょうはちねん)(一九一九)に、日本伝説叢書刊行会(にほんでんせつそうしょかんこうかい)が出版(しゅっぱん)した、『日本傳説(にほんでんせつ)・安房(あわ)の巻(まき)』に載って(のって)いる話(はなし)です。
『深名(ふかな)から多田良(ただら)へ連なる(つらなる)木(こ)の倉山(くらやま)(現在(げんざい)の此倉山(このくらやま))に、山(やま)の神様(かみさま)と呼ばれる(よばれる)、つつましやかな石宮(いしみや)がある。その石宮(いしみや)は、昔(むかし)から天狗(てんぐ)の霊(れい)を祀って(まつって)あるとか、山(やま)の神様(かみさま)の使い姫(つかいひめ)・白狐(びゃっこ)の霊(れい)を祀って(まつって)あるとか言われて(いわれて)おる。
 そのような訳(わけ)から木(こ)の倉山(くらやま)には今(大正時代(たいしょうじだい))も、山(やま)の神様(かみさま)のお使い(つかい)をする恐ろしい(おそろしい)白狐(びゃっこ)が棲んで(すんで)いるのだ。村人達(むらびとたち)は、その白狐(びゃっこ)が西行寺(さいぎょうじ)(館山市船形(たてやましふなかた))山(やま)の麓(ふもと)の谷間(たにま)にある、江戸田(えどた)の井(い)の水(みず)を、夜な夜な(よなよな)飲み(のみ)に来る(くる)のを見る(みる)事(こと)がある。』
 木(こ)の倉山(くらやま)の神様(かみさま)の昔話(むかしばなし)は、これで終り(おわり)ですから、本当(ほんとう)に短い(みじかい)話(はなし)だと思い(おもい)ますね。
 当時(とうじ)の村人達(むらびとたち)は、白狐(びゃっこ)を神(かみ)の使い(つかい)だと信じ(しんじ)、その姿(すがた)を一寸(ちょっと)、見た(みた)だけで恐れ(おそれ)を感じ(かんじ)ましたので、この話(はなし)が出来上がった(できあがった)のかも知れ(しれ)ません。なお、この昔話(むかしばなし)に出て(でて)くる木(こ)の倉山(くらやま)の石宮(いしみや)は今(いま)も残って(のこって)おり、土地所有者(とちしょゆうしゃ)である多田良(ただら)の金佐衛門(きんざえもん)(屋号(やごう))さんが管理(かんり)し、正月(しょうがつ)には幣(へい)を供えて(そなえて)います。
 
 
兄弟(きょうだい)の天神像(てんじんぞう)
 平成十四年(へいせいじゅうよねん)(二〇〇二)は、学問(がくもん)の神(かみ)・菅原道真公(すがわらみちざねこう)(天神様(てんじんさま))が没して(ぼっして)一千百年(いっせんひゃくねん)でしたので、道真公(みちざねこう)をお祀り(まつり)した全国(ぜんこく)の天満社(てんまんしゃ)で祭典(さいてん)が盛大(せいだい)に行われ(おこなわれ)ましたね。
 道真公(みちざねこう)は、昔(むかし)、雨乞い(あまごい)の神(かみ)でもありましたので広く(ひろく)信仰(しんこう)され、富浦町内(とみうらちょうない)にも天満社(てんまんしゃ)が数社(すうしゃ)あり、それらの社(やしろ)には霊験(れいげん)あらたかな天神像(てんじんぞう)がお祀り(まつり)してあります。
 宮司(ぐうじ)・代田健一(しろたけんいち)さんの話(はなし)によりますと、多田良(ただら)の天満社(てんまんしゃ)には、天保八年(てんぽうはちねん)(一八三七)に丹後国(たんごのくに)(京都(きょうと))与佐郡金屋村(よさごおりかなやむら)、三縁寺十七世瑞譽弟子(さんえんじじゅうしちせいずいよでし)・心情(しんじょう)の刻んだ(きざんだ)天神像(てんじんぞう)がお祀り(まつり)してあるそうですが、驚く(おどろく)のは、明治(めいじ)に神仏分離令(しんぶつぶんりれい)が出た(でた)時(とき)まで宮本天満宮(みやもとてんまんぐう)にお祀り(まつり)されていた天神像(てんじんぞう)も、やはり天保八年(てんぽうはちねん)(一八三七)に三縁寺(さんえんじ)の瑞譽(ずいよ)の弟子(でし)・真情(しんじょう)が刻んだ(きざんだ)ものなのです。心情(しんじょう)と真情(しんじょう)、多分(たぶん)兄弟弟子(きょうだいでし)でしょうね。
 宮本(みやもと)の像(ぞう)は木彫り(きぼり)に胡粉(ごふん)を塗って(ぬって)彩色(さいしき)し、胎内(たいない)へ室町時代(むろまちじだい)の掛仏(かけぼとけ)・十一面観世音(じゅういちめんかんぜおん)が納めて(おさめて)あります。宮司(ぐうじ)の生稲織部(いくいなおりべ)が奉祀(ほうし)しました。
 多田良天満社(ただらてんまんしゃ)の天神像開眼(てんじんぞうかいげん)を行った(おこなった)のは、別当(べっとう)の修験者代田諦隆(しゅげんじゃしろたていりゅう)ですが、両名(りょうめい)は当時(とうじ)、京都(きょうと)に幾度(いくど)も遊学(ゆうがく)しましたので、行動(こうどう)を共(とも)にすることもあったと思われ(おもわれ)ます。天神像(てんじんぞう)をお祀り(まつり)した年(とし)や彫工(ちょうこう)が同じ(おなじ)なのは偶然(ぐうぜん)ではないかも知れ(しれ)ません。
 
 
真勝寺略縁起(しんしょうじりゃくえんぎ)
 古い(ふるい)お寺(てら)や神社(じんじゃ)には、その創建(そうけん)の由来(ゆらい)を伝える(つたえる)縁起(えんぎ)があります。
 縁起(えんぎ)は、その寺社(じしゃ)の格上げ(かくあげ)を目的(もくてき)として、室町時代(むろまちじだい)に盛ん(さかん)に作られた(つくられた)そうですが、往時(おうじ)の様子(ようす)を知る(しる)上(うえ)でたいへん参考(さんこう)になります。
 青木(あおき)の真勝寺(しんしょうじ)にも、『安房国平郡岡本真勝寺略縁起(あわのくにへいごおりおかもとしんしょうじりゃくえんぎ)』と記された(しるされた)巻き物(まきもの)が伝えられて(つたえられて)いますので、要約(ようやく)し書いて(かいて)みました。
 
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 この真勝寺略縁起(しんしょうじりゃくえんぎ)は天明元年丑(てんめいがんねんうし)(一七八一)五月(ごがつ)の安房国札観音惣開帳(あわのくにふだかんのんそうかいちょう)の時(とき)、真勝寺(しんしょうじ)の住職(じゅうしょく)・宥壽(ゆうじゅ)が書いた(かいた)ものですが、大永二年(だいえいにねん)(一五二二)の縁起(えんぎ)が基(もと)となっている事(こと)と、寛文九年(かんぶんくねん)(一六六九)に御本丸泉光院(ごほんまるせんこういん)より戸帳(とちょう)を、寛文十年(かんぶんじゅうねん)に浅井忠房外四名(あさいただふさほかよんめい)より、インス宝蓮(ほうれん)(純金(じゅんきん)のハスの花(はな))を寄進(きしん)された事(こと)が補記(ほき)されています。
 なお縁起(えんぎ)の中(なか)から、「大昔(おおむかし)は、真勝寺(しんしょうじ)のある岩峯山(いわぶさん)は、今(いま)の青木(あおき)ではなく原地区(はらちく)に属して(ぞくして)いた。」「真勝寺本尊(しんしょうじほんぞん)の如意輪観音(にょいりんかんのん)は火難除け(かなんよけ)の観音(かんのん)でもあった。」「里見義頼(さとみよしより)は、通説(つうせつ)では里見宗家(さとみそうけ)の八代(はちだい)であるが、里見九代説(さとみきゅうだいせつ)があったのか七代(ななだい)と言って(いって)いる。」「今(いま)の岡本城(おかもとじょう)を江戸時代(えどじだい)の頃(ころ)は岡本村(おかもとむら)の聖ヶ城(ひじりがじょう)と呼んで(よんで)いた。」などの事(こと)も分かり(わかり)ます。
 


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