大房山不動明王(たいぶさんふどうみょうおう)
大房岬(たいぶさみさき)は有名(ゆうめい)な名所(めいしょ)ですから、古く(ふるく)から多く(おおく)の本(ほん)に書かれて(かかれて)います。
大正八年(たいしょうはちねん)(一九一九)に、日本伝説叢書刊行会(にほんでんせつそうしょかんこうかい)から発行(はっこう)された、『日本傳説(にほんでんせつ)・安房(あわ)の巻(まき)』へ載っている(のっている)「大房山不動明王(たいぶさんふどうみょうおう)」の話(はなし)を一部分(いちぶぶん)書き写し(かきうつし)ましたので、いろいろな年代(ねんだい)の書物(しょもつ)と読み比べて(よみくらべて)見て(みて)下さい(ください)。
『富浦村大字多田良(とみうらむらおおあざたたら)の海中(かいちゅう)に、大房(だいぶ)という山(やま)が尖出(せんしゅつ)している。海面(かいめん)に屏風(びょうぶ)を立てたる(たてたる)島(しま)の如く(ごとく)見え(みえ)、三浦三崎(みうらみさき)並に(ならびに)本州(ほんしゅう)(安房(あわ))洲崎(すのさき)の山(やま)と相対(あいたい)して、此の(この)鼻(はな)、今(いま)、大房岬(たいぶみさき)と呼ばれ(よばれ)文化五年戊辰(ぶんかごねんつちのえたつ)(一八〇八)五月(ごがつ)、旧幕府砲台(きゅうばくふほうだい)を築いた(きずいた)遺礎(いそ)を存して(そんして)いるが、此の(この)山(やま)に大房山不動明王(だいぶさんふどうみょうおう)を祀って(まつって)いる。別当龍善院(べっとうりゅうぜんいん)、当山(とうざん)の開山(かいざん)は神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)(役行者(えんのぎょうじゃ))と言われ(いわれ)、人皇四十二代(じんのうよんじゅうにだい)・文武天皇御宇(もんむてんのうぎょう)、大宝元年辛丑(たいほうがんねんかのとうし)(七〇一)開基(かいき)、今(いま)、弁財天(べんざいてん)の洞(ほら)(洞(ほら)は、堂(どう)の後(うしろ)五十間(ごじゅうげん)程(ほど)行った(いった)所(ところ)にあるという)即ち(すなわち)是(これ)であると言われ(いわれ)、人皇四十五代(じんのうよんじゅうごだい)・文徳天皇仁寿元年辛未(ぶんとくてんのうじんじゅがんねんかのとひつじ)(八五一)の草創(そうそう)、本尊(ほんぞん)は慈覚大師(じかくだいし)の御作(おんさく)といわれている。大房山(だいぶさん)と呼ばれた(よばれた)のは恐らく(おそらく)、始め(はじめ)大宝(たいほう)の年号(ねんごう)によるか、あるいは又(また)、今(いま)大房山(だいぶさん)と書けば(かけば)、文武天皇(もんむてんのう)の御名(ぎょめい)からくるか、今(いま)全く(まったく)詳か(つまびらか)ではない。不動尊(ふどうそん)の祭り(まつり)は七月七日(しちがつしちにち)なり、ふりうと号(ごう)した。』
文章(ぶんしょう)の終り(おわり)にふりうとありますが、漢字(かんじ)にしますと普利雨(ふりう)です。雨乞い(あまごい)の式(しき)(祭り(まつり))の事(こと)です。祭り(まつり)には鞨鼓舞(かっこまい)(三匹獅子舞(さんびきじしまい))が奉納(ほうのう)されました。
江戸時代(えどじだい)の文政年間(ぶんせいねんかん)(一八一八〜一八九二)に、長狭郡波太村(ながさごおりはぶとむら)(今(いま)の鴨川市(かもがわし))の安倍玄節(あべげんせつ)が記した(しるした)、『安房国古蹟併勝景図会(あわのくにこせきあわせしょうけいずえ)』に、多田良(ただら)の龍善院(りゅうぜんいん)の説明(せつめい)が載って(のって)います。原文(げんぶん)に少し(すこし)注釈(ちゅうしゃく)を加え(くわえ)転記(てんき)しましたので、読んで(よんで)みて下さい(ください)。
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○文(ぶん)の始め(はじめ)の、龍淵山龍善院(たつぶちさんりゅうぜんいん)は瀧淵山龍善院(たきぶちさんりゅうぜんいん)となるのが正しく(ただしく)、又(また)、役小角(えんのおずぬ)が豆州大島(づしゅうおおしま)に配流(はいりゅう)されたのは、文武帝朱鳥三年(もんむていしゅちょうさんねん)(六八八)となっていますが、文武帝時代(もんむていじだい)には朱鳥(しゅちょう)の年号(ねんごう)は無く(なく)、大宝元年(たいほうがんねん)(七〇一)となるべきです。何れ(いずれ)も著者(ちょしゃ)の書き違え(かきちがえ)と思われ(おもわれ)ます。
○現在(げんざい)、多田良(ただら)の代田家(しろたけ)(神官(しんかん))では、瀧善院(たきぜんいん)と名乗って(なのって)いますので書き添えて(かきそえて)おきます。改称(かいしょう)した年代(ねんだい)は不明(ふめい)です。
遠い(とおい)大宝元年(たいほうがんねん)(七〇一)の昔(むかし)、役行者(えんのぎょうじゃ)がお祀り(まつり)したという大房(たいぶさ)の不動様(ふどうさま)が、野房(のぼう)に移った(うつった)のは明治三十三年(めいじさんじゅうさんねん)(一九〇〇)です。
その訳(わけ)は、大房岬(たいぶさみさき)が日本海軍(にっぽんかいぐん)の演習地(えんしゅうち)(射的場(しゃてきば))になったからです。多田良(ただら)の人(ひと)たちは、不動様(ふどうさま)の罰(ばち)を恐れ(おそれ)ながら堂舎(どうしゃ)を移した(うつした)そうですが・・・。
しかし、大房(たいぶさ)の不動様(ふどうさま)は、人智(じんち)の及ばぬ(およばぬ)霊力(れいりょく)をお持ち(おもち)ですから、その事(こと)を前以て(まえもって)お知り(おしり)になり、熱心(ねっしん)な信者(しんじゃ)であった多田良(ただら)の庄司辰次郎(しょうじたつじろう)さんの夢枕(ゆめまくら)に立ち(たち)、
『大房(たいぶさ)から外(そと)へ下がり(さがり)たい。』
と、仰しゃって(おっしゃって)いたのです。
不動様(ふどうさま)のお告げ(おつげ)を聞いた(きいた)辰次郎(たつじろう)さんとは、どんな人(ひと)かと言い(いい)ますと、親(おや)の代(だい)から魚(さかな)を刺し捕る(さしとる)銛(もり)を作る(つくる)鍛冶屋(かじや)でした。腕前(うでまえ)が良かった(よかった)ので製品(せいひん)の評判(ひょうばん)が高く(たかく)、千倉(ちくら)の方(ほう)までたくさん売れた(うれた)のですが、しかし、口(くち)が荒かった(あらかった)ため、「岡(おか)(多田良(ただら)の岡地区(おかちく))の荊棘(ばら)(とげがある)」と渾名(あだな)がついていました。
家業(かぎょう)が火(ひ)を使う(つかう)鍛冶屋(かじや)だったため、火焔(かえん)を背負って(せおって)いる大房(たいぶさ)の不動様(ふどうさま)を信仰(しんこう)し、堂舎(どうしゃ)へのお参り(おまいり)は毎日(まいにち)欠かさなかった(かかさなかった)のです。
この不動様(ふどうさま)のお告げ(おつげ)の話(はなし)は、辰次郎(たつじろう)さんの孫(まご)に当たる(あたる)庄司清子(しょうじきよこ)さんが、母(はは)のふきさんから密やか(ひそやか)に伝えられて(つたえられて)いた話(はなし)です。
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