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富浦の昔ばなし 第二集

 事業名 <郷土学>富浦に伝わる民話集の編纂と地域再発見
 団体名 NPO富浦エコミューゼ研究会 注目度注目度5


太武佐不動縁起(たいぶさふどうえんぎ)
 多田良(ただら)の代田家(しろたけ)に、太武佐不動(たいぶさふどう)(現在(げんざい)の瀧淵神社(たきぶちじんじゃ))の縁起(えんぎ)が保存(ほぞん)されています。
 文禄二年(ぶんろくにねん)(一五九三)に別当(べっとう)の龍善院栄乗(りゅうぜんいんえいじょう)が記した(しるした)ものですが、奈良(なら)から江戸時代(えどじだい)まで、修験道(しゅげんどう)に彩られた(いろどられた)大房岬(たいふさみさき)の歴史(れきし)や伝説(でんせつ)の起こり(おこり)を探る(さぐる)上(うえ)で、役立つ(やくだつ)資料(しりょう)です。
 縁起(えんぎ)は漢文(かんぶん)で、書かれ(かかれ)、役小角(えんのおずぬ)、慈覚大師(じかくだいし)、源親元(みなもとのちかもと)、堂字(どうう)の焼失(しょうしつ)、里見義実(さとみよしざね)の五つ(いつつ)の話(はなし)が組み込まれて(くみこまれて)いるのですが、全文(ぜんぶん)を理解(りかい)しつつ読み終える(よみおえる)のは大変(たいへん)ですので、口語体(こうごたい)で物語り風(ものがたふう)に書き直して(かきなおして)見ました(みました)。
 
役小角(えんのおずぬ)
〈大房岬(たいぶきみさき)の開祖(かいそ)〉
 大和国(やまとのくに)(奈良県(ならけん))葛木(かつらぎ)に生まれた(うまれた)役小角(えんのおずぬ)は、幼少(ようしょう)の頃(ころ)から神童(しんどう)と呼ばれ(よばれ)、長ずる(ちょうずる)に及んで(およんで)仏法(ぶっぽう)を修める(おさめる)と、葛木山(かつらぎやま)に入り(はいり)三十一年間(さんじゅういちねんかん)、岩穴(いわあな)に住んで(すんで)仙人(せんにん)を目指し(めざし)、難業苦行(なんぎょうくぎょう)の上(うえ)、多く(おおく)の呪術(じゅじゅつ)を習得(しゅうとく)しました。
 仏道(ぶつどう)と武芸(ぶげい)の奥義(おうぎ)を極めた(きわめた)小角(おずぬ)は、強い(つよい)足(あし)と軽い(かるい)身(み)で鳥(とり)や猿(さる)のように飛び走り(とびはしり)、悪者(わるもの)を懲らしめた(こらしめた)ため、朝廷(ちょうてい)は、小角(おずぬ)が国(くに)を乗っ取る(のっとる)者(もの)だと恐れ(おそれ)、捕えて(とらえて)伊豆(いず)の大島(おおしま)へ流し(ながし)ました。文武帝(もんむてい)の大宝元年(たいほうがんねん)(七〇一)春(はる)の事(こと)でした。
 しかし、小角(おずぬ)を離れ(はなれ)小島(こじま)に閉じ込めて(とじこめて)おく事(こと)は不可能(ふかのう)だったのです。小角(おずぬ)は毎日(まいにち)夜(よる)になりますと、大房岬(たいぶさみさき)へ飛んで来て(とんできて)は石室(いしむろ)(現在(げんざい)の行者窟(ぎょうじゃのいわや))を穿つ(うがつ)と、不動明王(ふどうみょうおう)の石像(せきぞう)を安置(あんち)し、旅(たび)の船(ふね)や漁船(ぎょせん)を難破(なんぱ)から救ったり(すくったり)、海賊(かいぞく)を懲らしめ(こらしめ)たりしましたので、土地(とち)の人達(ひとたち)は小角(おずぬ)の徳(とく)をたたえ、不動明王(ふどうみょうおう)を篤く(あつく)信仰(しんこう)しました。その出来事(できごと)が大宝年間(たいほうねんかん)(七〇一〜七〇三)でしたので、いつか行者窟(ぎょうじゃのいわや)は大宝寺(たいほうじ)と呼ばれる(よばれる)ようになったのです。
慈覚大師(じかくだいし)
〈龍善院(りゅうぜんいん)の建立(こんりゅう)〉
 役小角(えんのおずぬ)の時代(じだい)から百五十年(ひゃくごじゅうねん)経た(へた)仁寿元年(じんじゅがんねん)(八五一)、比叡山(ひえいざん)・延暦寺(えんりゃくじ)の慈覚大師(じかくだいし)が東国(とうごく)に仏教(ぶっきょう)を広める(ひろめる)旅(たび)の途中(とちゅう)、安房国(あわのくに)にも足(あし)を入れ(いれ)ましたが、土地(とち)の人(ひと)びとが大宝不動(たいほうふどう)を篤く(あつく)信仰(しんこう)している事(こと)を知り(しり)、訪れて(おとずれて)みようと石井郷不入斗(いわいごういりやまず)(今(いま)の富山町高崎(とみやままちたかさき)から山路(やまじ)を登り(のぼり)、木の根峠(きのねとうげ)にさしかかりますと、西南(せいなん)の海中(かいちゅう)に秀い出た(ひいでた)山(やま)が見え(みえ)、その山(やま)には紫(むらさき)の霞(かすみ)がたなびいていました。
 それは虹(にじ)のようでもあり、また虹(にじ)でもなく、心(こころ)をうたれた大師(だいし)は、軽がる(かるがる)とした足(あし)どりで一里(いちり)(四(よん)キロメートル)余り(あまり)を歩み(あゆみ)、日(ひ)の暮れた(くれた)大宝(たいほう)の岬(みさき)に入り(はいり)ました。
 大師(たいし)は早速(さっそく)、岬(みさき)の南面(なんめん)の窟(いわや)にこもり熱心(ねっしん)に妙法華(みょうほうげ)の読経(どきょう)を始め(はじめ)ました。やがて刻(とき)が過ぎて(すぎて)真夜中(まよなか)になり、大師(だいし)の読経(どきょう)が終り(おわり)ますと、山(やま)が鳴り(なり)、谷(たに)が応えて(こたえて)、青い(あおい)衣(ころも)を着た(きた)童女(どうじょ)が現れ(あらわれ)、大師(だいし)に平伏(へいふく)して言った(いった)のです。
「私(わたし)は、この辺り(あたり)を荒らし回った(あらしまわった)海賊(かいぞく)ですが、役小角様(えんのおずぬさま)に捕えられ(とらえられ)、縛られた(しばられた)まま百五十年(ひゃくごじゅうねん)、窟(いわや)に閉じ込められて(とじこめられて)いました。大師様(だいしさま)がおいでになるのを知り(しり)、助けて(たすけて)いただき度く(たく)、紫(むらさき)の霞(かすみ)を吐いて(はいて)、ここにお導き(みちびき)しました。大師様(だいしさま)の読経(どきょう)で縛(ばく)が解け(とけ)ましたので、天界(てんかい)に昇り(のぼり)仏法(ぶっぽう)を護り(まもり)ます。」
 童女(どうじょ)はそう言い終り(いいおわり)ますと、数丈(すうじょう)(十(じゅう)メートル余り(あまり))の金(きん)の竜(りゅう)になって、天(てん)へ昇って(のぼって)行き(いき)ました。その金(きん)の竜(りゅう)が脱身(だっしん)した広く(ひろく)深い(ふかい)跡(あと)が、今(いま)の弁財天(べんざいてん)の洞窟(どうくつ)なのです。
 慈覚大師(じかくだいし)は、新しく(あたらしく)一尺(いっしゃく)(約三十センチ(やくさんじゅっセンチ)余り(あまり)の不動明王(ふどうみょうおう)の像(ぞう)を刻み(きざみ)ますと、新しい(あたらしい)堂舎(どうしゃ)を建てて(たてて)祀り(まつり)、瀧淵山龍善院(たきぶちさんりゅうぜんいん)と名付け(なづけ)ました。
源親元(みなもとのちかもと)
〈龍善院(りゅうぜんいん)の興隆(こうりゅう)〉
 永長元年(えいちょうがんねん)(一〇九六)正月二十三日(しょうがつにじゅうさんにち)、安房国司(あわのこくし)に任ぜられて(にんぜられて)着任(ちゃくにん)した源親元(みなもとのちかもと)は、忠義(ちゅうぎ)な家臣(かしん)の貞連(さだつら)が病死(びょうし)したため、たいそう悲しみ(かなしみ)ました。親元(ちかもと)は龍善院(りゅうぜんいん)の不動明王(ふどうみょうおう)が霊験(れいげん)あらたかであると聞き(きき)、堂内(どうない)に貞連(さだつら)の死骸(しがい)を横たえる(よこたえる)と、願書(がんしょ)を捧げ(ささげ)真心(まごころ)を込めて(こめて)、一昼夜(いっちゅうや)の祈祷(きとう)を続け(つづけ)ました。
 すると、不動明王(ふどうみょうおう)の霊験(れいげん)で、夜(よ)の明け(あけ)そめる頃(ころ)、冷たく(つめたく)眠って(ねむって)いた貞連(さだつら)の体(からだ)が温まり(あたたまり)、止まった(とまった)呼吸(こきゅう)が始まり(はじまり)、閉じた(とじた)目(め)が開き(ひらき)、言葉(ことば)を交わせる(かわせる)ようになったのです。主従(しゅじゅう)は踊り上がって(おどりあがって)喜び(よろこび)ますと、龍善院不動明王(りゅうぜんいんふどうみょうおう)に対する(たいする)信仰(しんこう)を深め(ふかめ)、山(やま)の頂き(いただき)を平ら(たいら)にして七堂(しちどう)を建立(こんりゅう)しました。
 本堂(ほんどう)、薬師堂(やくしどう)、文殊堂(もんじゅどう)、愛染堂(あいぜんどう)、仁王門(におうもん)、塔(とう)、鐘楼等(しょうろうとう)、善美(ぜんび)を尽し(つくし)、荘厳(そうごん)を極め(きわめ)ましたが、残念(ざんねん)ながら、正慶二年(しょうきょうにねん)(一三三二)兵火(へいか)のため、全て(すべて)の堂舎(どうしゃ)を焼失(しょうしつ)してしまいました。親元(ちかもと)が建てた(たてた)七堂(しちどう)の跡(あと)は、今(いま)、久流和(くるわ)の台(だい)と呼ばれて(よばれて)います。
堂舎(どうしゃ)の焼失(しょうしつ)
〈本尊霊力(ほんぞんれいりき)で脱出(だっしゅつ)〉
 安房国司(あわのこくし)・源親元(みなもとのちかもと)によって建立(こんりゅう)された龍善院(りゅうぜんいん)の七堂(しちどう)は、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)の正慶二年(しょうきょうにねん)(一三三二)の夏(なつ)、兵火(へいか)にかかり、残らず(のこらず)焼失(しょうしつ)してしまいました。
 その焼跡(やけあと)の中(なか)で、狂乱(きょうらん)したように土石(どせき)などを掘り返して(ほりかえして)いる別当(べっとう)の僧(そう)がいました。何(なに)を探して(さがして)いるのかと言えば(いえば)、本尊(ほんぞん)・不動明王(ふどうみょうおう)の像(ぞう)だったのです。しかし、どこを掘り返しても(ほりかえしても)、そのお姿(すがた)を発見(はっけん)できないのです。
 落胆(らくたん)した僧(そう)は、とぼとぼと歩き(あるき)、境内(けいだい)の南(みなみ)の海辺(うみべ)の岩角(いわかど)に立つ(たつ)と、そこにある感曼淵(かんまんぶち)と呼ぶ(よぶ)深い(ふかい)淵(ふち)をのぞき込み(こみ)ました。僧(そう)は何(なに)を考えた(かんがえた)のでしょう。もしかすると、僧(そう)は火中(かちゅう)より本尊(ほんぞん)を持ち出せ(もちだせ)なかった責任(せきにん)から、身(み)を投げ(なげ)ようと思った(おもった)のかも知れ(しれ)ません。
 ところが、その深(ふかい)い淵(ふち)の底(そこ)に、ありがたくも、金色(こんじき)の梵字(ぼんじ)を二つ(ふたつ)刻み付けた(きざみつけた)、本尊(ほんぞん)・不動明王(ふどうみょうおう)の像(ぞう)が揺れ動いて(ゆれうごいて)見えた(みえた)のです。不動明王(ふどうみょうおう)は、霊力(れいりょく)で自ら(みずから)火中(かちゅう)より脱し(だっし)、感曼淵(かんまんぶち)の中(なか)で御身(おんみ)を護って(まもって)おられたのです。
 僧(そう)は感喜(かんき)の声(こえ)を上げる(あげる)と、網(あみ)を下ろして(おろして)像(ぞう)を引き上げ(ひきあげ)ました。間(ま)もなく山(やま)の麓(ふもと)に堂(どう)が建てられ(たてられ)、そこに本尊(ほんぞん)をお祀り(まつり)しますと、人(ひと)びとの信仰(しんこう)は倍(ばい)に増して(まして)高まり(たかまり)ました。
里見義実(さとみよしざね)
〈武(ぶ)を佐けた(たすけた)不動(ふどう)〉
 嘉吉元年(かきつがんねん)(一四四一)四月十六日(しがつじゅうろくにち)、結城(ゆうき)(茨城県(いばらぎけん))の戦い(たたかい)に敗れた(やぶれた)里見義実(さとみよしざね)は、三浦半島(みうらはんとう)から安房(あわ)に落ちて(おちて)来ました(きました)が、先ず(まず)この大宝岬(たいほうみさき)に船(ふね)を付け(つけ)、滝水(たきみず)に打たれて(うたれて)身(み)を清め(きよめ)、龍善院(りゅうぜんいん)の不動明王(ふどうみょうおう)を拝して(はいして)、武運(ぶうん)の向上(こうじょう)を祈り(いのり)ました。
 そして船(ふね)を廻して(まわして)白浜(しらはま)に上陸(じょうりく)、安房(あわ)を平定(へいてい)した義実(よしざね)は、願望(がんぼう)の成就(じょうじゅ)を感謝(かんしゃ)し、不動明王(ふどうみょうおう)に新しい(あたらしい)堂舎(どうしゃ)を建てる(たてる)と、十五石(じゅうごこく)の領地(りょうち)を寄進(きしん)しました。義実(よしざね)が、不動明王(ふどうみょうおう)を「大いに(おおいに)武(ぶ)を佐けた(たすけた)不動(ふどう)」と呼んで(よんで)崇めた(あがめた)事(こと)から、龍善院(りゅうぜんいん)の不動明王(ふどうみょうおう)は、太武佐不動(たいぶさふどう)となり、大宝岬(たいほうみさき)の地名(ちめい)も太武佐(たいぶさ)になりました。


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