第27回 団体部会研修会報告
参加団体 43団体 参加人員 100名
ここ数年来献体運動が曲がり角に立っているといわれており、このことは大学と団体とが共同して取り組まねばならないにもかかわらず、なかなか進展しない現状にあり、今後の方向づけが大きな課題になっている。
献体運動は献体法成立と共にその後の献体に対する社会的環境が大きく変化し、またそれに伴う個人においても人生観、生命感の変化によって支えられ、飛躍的に発展をとげ、そのため献体登録のために仮登録、あるいは予備登録という問題に直面するに至った。
また、医学教育においては人体構造学としての学生のための解剖実習に止まらず、生命科学時代といわれる医学の進歩に伴う献体を利用しての研究という分野が生まれ、さらにコメディカル解剖学という視点に立ってのその学術的意義とその評価という問題にも直面している。
このことは今後の献体運動の在り方について何らかの示唆を与え、新たな視点が生まれる可能性が見出されると本日の研修会の議題にとり上げた趣旨を説明した。
研修会に先立ち、先般日本解剖学会内に設置された倫理委員会の役割について同委員である坂井先生(順天堂大学教授)から次の2点について発言された。
1. 倫理上の問題を各大学内に設けられている倫理委員会と共に学会内にも倫理委員会を設置して問題点があればさらに討議を加える。
2. 解剖学では遺体から細胞を取り出して研究に利用している。もちろん、当事者、関係者の同意、理解を得ての上であるが、この同意は書面をもって取り交わすようにしてゆく方向で進んでいる。
次いで議題に入り、
1. 献体運動の新たなる視点について。
2. ビデオ上映。
題名「解剖学と献体、その新しい展開。コメディカル実習教育を考える」ビデオは各大学、団体に送付。
ビデオ上映後(財)日本篤志献体協会理事長内野先生から、このビデオは平成12年11月17日、昭和大学上條講堂で開催された「解剖学と献体、その新しい展開」についての公開シンポジウムでの記録であると説明した後、学生のための解剖体と献体運動の歴史とその経過について前回(第26回研修会)に引き続き補足説明し、このビデオの副題であるコメディカル実習教育については医学、歯学を学ぶ者と献体当事者の意志の尊重という献体法上の制約があるが、現在の医療現場を見ると医業の細分化により各分野の医療従事者がチームとして医療に参加しており、医療従事者−広義の医療人すべてに解剖実習の機会を提供することは時代の趨勢とはなってきているのではないかと結んだ。
発言の要旨
1. (財)不老会
医療人に対する解剖実習については全面的に賛成である。法律上の問題、国との関わり、所管する文部科学省、厚生労働省の関係、医療行政の在り方、財政の問題=税制の問題も含める。
2. 千葉白菊会
「献体とは」リーフレットにコメディカル解剖学についても説明された方が良いのではないか。
3. 金沢大学しらゆり会
献体は全身提供であるので再生医療のため、全面的で賛成であるが、承諾書、同意書が必要である。
4. 信州大学こまくさ会
コメディカルの範囲について。
5. 九州大学白菊会
近況報告。
(財)日本篤志献体協会理事長
東京医科大学名誉教授
内野 滋雄
まず我が国の解剖の歴史とその流れについて知っておいていただきたいと思います。
江戸時代、1754年に山脇東洋が京都で解剖をしたのが我が国の最初とされております。杉田玄白、前野良沢が小塚原で腑分けをみて中国の解剖図が実際と異なることに驚きオランダ語を訳して解体新書を表したのが1774年でした。そのころの新進の医師は西洋医学を学び近代医学の幕を開けたのですが、解剖体は全て刑死体で首のないものでした。その後、明治の頃まで解剖体は刑死体、獄死体などで、一家のうち解剖された人間が出ることは大変な恥であったわけです。その暗い風潮は昭和20年以降の戦後まで続いたといえます。
その間で重要なことは、人体解剖学実習用のご遺体をMaterial(材料)としての扱いがあったということです。この意識が医者と患者を上下の関係とし、診てやるという特権意識をもたせたと私は考えております。日本の献体第1号は、明治2年の美幾女とされております。彼女の心が今の献体の心の出発点となっていると思います。
戦後は人権の問題が起こり、戦前のような解剖体や行路死亡人を解剖することが許されず、医学教育の危機が訪れました。その危機を救った人達が無条件、無報酬で自らの体を捧げて下さった献体者でした。昭和30年代に全国各地で献体の団体が誕生し、多くの方々のご理解をいただき発展してきました。この人生最後のボランティアとしての献体は、それを受ける側、すなわち大学側はこの善意と恩恵を決して忘れてはなりません。
献体者を解剖させていただくことには二つの大きな意味があります。一つは自分の体をどんなに細切しても良いから、しっかり勉強して欲しいという献体者の願いが学生に通じ、真剣に勉強するという点です。二つ目は医の倫理観の涵養です。今ほど医の倫理が問われている時はありません。教員側も学生と、今解剖させていただいているご遺体がどういう経緯で目の前にあるのかをよく説明し、医の倫理を深く考えさせる場とすべきだと考えております。
献体が過剰気味だというのは、医学と歯学の学生のためには充分すぎるということで、日本の医療水準を向上させるためには決して充分とはいえないと思います。今の医療の現場は医師だけで行っているわけではなく、看護士、薬剤師、理学療法士等々、多くのコメディカルといわれている専門職によるチーム医療となっております。そのコメディカルの人達の教育に解剖学実習はありません。せいぜい学生時代に短時間の実習見学がある程度です。コメディカルの教員も学生も解剖学実習を望んでおり、特に理学療法の分野の人達は強い希望を持っております。その人達の医療現場の仕事内容をみますと、人体解剖学実習は絶対に必要だと思います。そのための全国の教育現場では見学の範囲をやっと越えたと思われる見学実習が行われていることも事実です。
では、それが法的に許されるのかという問題です。医師であり弁護士である加藤済仁先生によると、「死体解剖保存法」により法的には問題はない。ただし医・歯学部の解剖学教室で教授か助教授の指導で行うことが義務づけられている。他方「献体法」では、医師・歯科医師の養成のためとされているので、コメディカルに対しては献体登録者の書面での同意が必要だろうとのことです。
また、移植医療の基礎的研究などで、亡くなった直後に細胞を少量採取することが必要となる場合があります。これも生前にそのような意味を明確にし、書面で同意が必要だと考えます。死後、ご遺族の了解だけですることは道義に問題があると考えています。しかし研究は日進月歩、今では考えられないようなことが必要となることもあり得ます。従って、医学の進歩のために必要なことは全て了承するといった総論的な意志表示をしておくことも大切でしょうが、これはあくまでも登録者の自由意志です。
以上、コメディカルの教育に解剖学実習を組み込む必要性も、それを献体登録者にご了承願う問題、ならびに新しい医療開発などのための基礎的研究に、献体されたご遺体から細胞採取などが許されるか、等の問題を提起し、最後に解剖学実習のためのご遺体が充分に確保できるようになったことを感謝申し上げ、さらに新しい動向に対してのご理解とご協力をお願いし、私の話を終わらせていただきます。
日時:平成15年3月30日(日)午後13時30分〜15時30分
場所:久留米大学筑水会館
出席者:43団体104名
座長:内野滋雄常任理事 会長挨拶:熊木克治
主題:「21世紀の医学教育と献体の関わり」
医学教育における献体の役割
東京医科歯科大学大学院教授
佐藤 達夫
献体に関して昭和57年の文部大臣感謝状、昭和58年の献体法の制定に至る経緯とその前後での状況の変化についての話題と、最近21世紀の医学教育としてモデルコアカリキュラムが作成されましたが、医学教育改革と献体との関連についての2つのテーマをお話しいたします。
1543年にベサリウスの『人体構造論』という本が出版されました。ベサリウスは自ら人体を解剖し、自分の眼で観察し、自分の頭で考えて、自分の言葉で説明したのです。これが近代医学への橋渡しとなったと評価され、ベサリウスが人体という小字宙をひっくり返し、同じ年にコペルニクスが大宇宙をひっくり返したと言われております。しかし、ベサリウスにも、一つ大きな悩みがありました。それは解剖体入手に非常に困ったことで、その後ヨーロッパ各地で遺体入手について芳しくない事件がしばしば起こりました。イギリスでは1832年に法律ができ、遺体を合法的に入手することが可能になりました。日本でも監獄法がありましたが、1949年に死体解剖保存法が制定され、遺体の引き受けについての法律ができました。一方、アメリカでは1968年に50州すべての基本法として遺体贈与令ができ、各州はそれぞれの事情に合わせて、献体に関する法律を作っていったのです。日本では、1983年にやっと献体法ができましたが、そのために篤志解剖全国連合会は大変な努力を要したのであります。
1982年(昭和57年)の東京医科歯科大学の遺体受け入れ数とそのうちに占める篤志献体の数を見ても、両方とも非常に少なく、教育にも研究にも支障をきたしていました。献体は昭和30年頃に始まりましたが、その思想を広めるため、ポスターを作り、「人から人へ。それが献体です」と啓蒙活動を続けてきたのです。しかし、キリスト教精神などのない日本においては、ボランティアという行為そのものが、あまり浸透しておらず、献体はもの好きの行為であるというふうに言われ、かつ故人の遺志を継いで献体を実行した遺族に対して、非常に冷たい態度が取られたのがむしろ普通でありました。そこで、献体登録をした方々がスムーズに献体できるように、そしてその名誉が守られるように、ご遺族にも配慮をと陳情活動を続けたのであります。そのような努力が実を結び、昭和57年に文部大臣から献体者への感謝状が贈呈される制度が創設されました。その年の9月には、小川文部大臣より、秋田大学の会員のご遺族が、感謝状を初めて受けたのであります。その翌年の昭和58年に、献体法が制定されたのです。
献体法の中には、献体の遺志は尊重されなければならないとあり、国家が献体を社会的に認知したということであります。その影響は非常に大きく、献体数は右肩上がりに増加しました。この数的な増加というのはもちろんですが、献体が医学教育に与えた影響は非常に大きなものがあり、学生の倫理教育、学生の観察眼を高める教育、学生が問題を探ってそれを解決しようとする自己学習能力、こういうことに非常に貢献しています。献体法制定後は献体思想が守られ、かつ医学教育に非常に貢献をしてきました。1995年(平成7年)、日本解剖学会が100周年を迎えたときには、記念式典で皇太子殿下がそのことに言及され、献体の意義は公的にも認知されたのです。
山脇東洋が遺体解剖を行い『蔵志』という解剖書を発行したのが1759年、杉田玄白が『解体新書』を公にしたのが1774年であります。ところが、西洋では1543年にベサリウスが『人体構造論』を公にし、1628年にはハーベイが血液の循環を明らかにし、1761年にはモルガーニが『病気の座』という病理学の本を出しました。この1761年は日本で初めて幼稚な解剖書が出た頃に相当するわけで、単純に考えれば200年の遅れがあったのです。そうした遅れを取り戻すために日本の医学は、1871年に当時上り坂のドイツ医学を採用しました。しかしそれは講義中心であり、臨床実習はややもすると軽視され、研究に重点が置かれていました。またすべての学科目が必修であって、個性と多様性に乏しいというのが、日本の医学教育の一つの特徴でありました。
近年、そういうマイナス面が顕在化し、いわゆる受け身、無気力、指示待ちという言葉に表されるように学生が自分で問題を探して自分で解決する姿勢が乏しくなってきました。その間、生命科学と科学技術は著しい進歩を遂げて、量的膨大化、細分化、新分野出現と大きな変化が起こり、従来の教育水準を確保することが難しくなり、教育内容を見直さなければならないという状況になったのです。また、患者中心の医療というものが忘れられているという指摘もあります。こういったことから、個々の大学が教育理念をそれぞれ持って、選択的・先端的な高学年用のカリキュラムを用意するということはもちろんですが、標準的なレベルを満たしているガイドラインが必要とされました。それがモデルコアカリキュラムであります。それは、医師になる者として必要な共通の内容、標準化され精選化されたカリキュラムです。学習内容を整理し、到達目標を明確化し、大切なのは講座の枠を越えた統合的編成であり、解剖学、生理学、病理学というふうな縦割りを横の連携をつけたカリキユラムにすることです。それから、日本の医科大学の臨床実習の貧弱な点の改善と、倫理と安全管理、コミュニケーション教育の重視であります。
その中で、献体の役割が重要になります。解剖学実習は単に事実を確認する場だけではなく、そこからいろんな問題を探って、その疑問をどう解決するかという訓練を繰り返すことによって、科学者の目と心を養っていくのです。また、実習を通じて解剖を行うに際して献体のことも学ぶのです。そういうことを通じて生命倫理、安全性への配慮を習慣づけていくことが大切です。良医の育成というのは臨床教育だけの問題ではなく、われわれの解剖学実習から、その教育を始めなければいけないのです。
今、医学教育の転換期にあたり、コアカリキュラム・臨床実習開始前の全国的共用試験システム・模擬患者による診療技術や態度を評価するオスキーなどが導入され、解剖学教育もその影響を受けています。一方で、もちろん医学教育全体の中での基礎として解剖学が他の教科に与える影響は相当なものがあります。もちろん、医学の進歩と社会の変化に対応してカリキュラム改革に協力を惜しんではなりません。しかし、どのような場合でも、解剖学実習は医学教育の基盤であることに変わりはありません。解剖学実習を通じて皆さんの持っていらっしゃる、優れた、尊い献体という理念も、受け継がれていくのです。
コ・メディカル教育における解剖学実習
名古屋大学教授
小林 邦彦
私は名古屋大学医学部の保健学科に在籍し、理学療法士、作業療法士をめざす学生に解剖学を教えております。名古屋大学では、医学部と献体団体不老会のご理解をいただいて、少しずつ人体解剖実習教育を行っておりますので、そこで感じたことなどをご紹介します。
解剖学実習の一般的な意義は本物を見るということで、これが科学の出発であり医学の出発であります。コ・メディカルにおいても本物のご遺体を触ることができるようになれば、ようやくその時が、ルネッサンスが近代医学の出発であったと同様にコ・メディカル教育にとってのルネッサンスだと考えています。本学では実習後、学生が火葬に参列させていただき、そこでご遺族から献体された方のお話をうかがうことができ、学生はとても印象深く心に刻んでいます。献体団体の方々やご遺族と接する機会もまた貴重な教育の場となっています。
コ・メディカル(スタッフ)とは医療に携わる職種のうち、医師、歯科医師以外を総称しています。国家資格(や都道府県知事の免許)で約20種あり、関連する職種も増えてきています。
コ・メディカルと一口に言っても役割がそれぞれあり、人数にすると全体では医師・歯科医師の何倍もあります。養成制度も様々で、最近では、取得できる資格としては同じでも養成年限が長くなり、つまり教育が高度化してきています。理学療法士について例をあげますと、3年の専門課程を修了すれば国家試験を受けることができますが、専門学校でも3年制以外に4年制のところができています。また短期大学と4年制の大学は今16校あります。ここ数年で学生数が倍増し、年間6000人が卒業しています。さらに大学院ができており、博士課程のあるところが7校、修士課程はそれに加えて5校あります。
なぜ、コ・メディカルの解剖学教育に人体解剖実習が必要か、というお話をします。現在、医学全体が高度化しており、医療チームのそれぞれの専門家が協力して医療を行う、そのために、それぞれのコ・メディカルスタッフに専門的な、また基礎的な知識がますます必要になっているということです。2000年の11月に開催された篤志解剖全国連合会・献体協会・解剖学会の共催シンポジウムで、医療人にとっての解剖実習の意義・必要性に関して、初めて献体団体の方々と共通の認識ができたと思っています。チーム医療を担うそれぞれの専門家が、質の高い教育を受けることが要求されるということ、そこで、解剖実習も、今までは医師・歯科医師になる学生だけが行っていましたが、他の医療人にとっても必要であると考えられるようになったという点です。
コ・メディカル学生が解剖実習を行うにあたって、死体解剖保存法を調べました。その内容をまとめますと以下のようになります。1)医学の研究、教育を目的とすること。2)解剖学の教員、厚生大臣の認定した有資格者が解剖を行う。3)故人の遺志を尊重する。4)場所は医学部の特定の解剖学実習室に限る。5)遺体の尊厳を守る。これらのことが条件であって、医学部生が単独で解剖して良い、ということではないのです。逆に言えばこれらの条件を満たせば、コ・メディカルの学生も解剖実習に参加できるのではないか、と考えました。その後、弁護士でかつ医師である方からも問題はないと教えていただきました。先述のシンポジウムでもお話がありました。
リハビリのスタッフは、体の外を触って中の構造を推定する必要があります。感触、弾力性、ものの強さの違いなど、感覚を使って理解する体験は本やコンピュータでは得られないことです。実際にご遺体に触れることで納得するのです。また一人一人顔が違うと同じように内部構造も違うということが体得できます。
さて、国立大学の医学部に併設されている理学療法士、作業療法士養成校(医学部保健学科と医療短期大学部)は全国で12校ありますが、1校を除きあと11校では何らかの形で解剖実習を行っています。そのうちの半数近くは、医学部生とは違う専用のご遺体を提供していただいて、保健学科の学生が最初から解剖しています。また、医学部生が解剖しているご遺体を別の日に保健学科の学生が解剖を進める、あるいは医学部生の実習が終わった後、まだ解剖されずに残っている部位を解剖させてもらうというところもあります。靭帯や関節など、リハビリの学生にとって重要なところが医学部生には時間が足りなくて開けていない部位があるのです。その他にも医学部生の実習期間中に観察を継続して行うところや、剖出されたご遺体が標本として数体用意されていて、それを観察するところや、指導者が解剖しているところを観察させる、など、いろいろな実習形態があります。
コ・メディカル学生と医学生の実習との違いを考えてみますと、圧倒的に時間的な制約があります。例えば名大保健学科の学生の実習時間は医学部生の半分以下です。ただし、解剖実習室の外での解剖の授業時間は、医学生より多いと思います。また看護学科の学生は実習時間が少ないので、解剖されたご遺体の見学の機会があればよい方です。もしあれば、一回の見学を充実させる必要があります。コ・メディカルの学生、特に見学学習を主体とする学生に対しては、しっかりと剖出された標本が整備されていることが必要と思います。
本学では1年生約40人が6体のご遺体を9回から10回かけて解剖します。この時間内では全身をくまなく解剖するのは無理なのですが、また違うグループが解剖を継続します。実習期間中には私立大学のリハビリの学生に毎週、後追いの観察をしてもらっています。実習の途中や終了後、リハビリや看護系の専門学校生、盲学校の生徒、臨床の現場にいる理学療法士・作業療法士、管理栄養士などの勉強会グループにも見学してもらっています。このように、いただいた解剖実習の機会をひとつの大学の学生が独占するのではなく、様々な人々に、数百人の方々に共有してもらっています。
実習では、解剖学の予備知識が決定的に重要です。なぜ自分はこのご遺体を解剖し観察するのか、という目的がしっかりわかっていないと駄目です。この点では、高学年のほうが解剖実習による学習効果は高く、名古屋大学では、1年生の後半に実習を行ったあとも、2年生でも3年生でも、医学部の人体解剖トレーニングセミナーでのご遺体を見学する機会があり、何度も経験して積み重ねることができます。
現状ではコ・メディカルの解剖学実習は医学部の厚意に依拠していますが、コ・メディカルの学校でも人体解剖の必要性に関するコンセンサスを十分に得ることによって、経費の分担などももっと可能になります。解剖実習指導者についても、解剖学を専門にする専任教員が全国的にも増えてきています。理学療法士や作業療法士の養成機関の中で、私たちの大学のように解剖実習に関して恵まれた環境にあるところは、そこが他の専門学校の解剖実習の窓口になるなど、率先してその恩恵を広げるべきだと考えています。
今後も、コ・メディカルの解剖実習条件の改善のために努力していきたいと思います。皆様のご理解とご援助をよろしくお願い申し上げます。
コメディカル教育における解剖学実習と献体
富山医科薬科大学教授
大谷 修
21世紀の医療は、100年生きる地球人の医療、患者の立場に立った医療、生命の尊厳と技術が調和した医療へ変わることが求められています。こういう考えは今に始まったことではありません。そもそも医学というのは医術です。有名なウイリアム・オースラーは、“Medicine is an art based on science”と、科学に基づいた術、つまり医術であると言っています。それから、12世紀の昔、哲学者のマイモデムスは、「患者は苦しむ人間だということを決して忘れまい。患者が病気の入れ物に過ぎないとは思うまい」と言っています。また、フランシス・ピーボティは、「患者を治療する秘訣は患者を思いやることである」と。また、バーナード・ラウンは、「医師は同じ人間として、恐怖や苦悩に苛まされる患者の運命を思いやることができたときに、1人の人間のかけがえのない個性に触れる。そして、病人は病気以上の存在になる」と言っています。患者を中心に考えて、患者本人の悩み、家族の悩み、その環境の問題とか、そういういろいろなことに思いやることができる医者になったときに、本当に患者と共同で病気を治す、病気と闘うことができるようになるのです。多様化した医療を支えていくためには、医者だけではうまくいかず、さまざまな医療人が連携協力して行うチーム医療が重要であるということです。
解剖学というのは、人体の構造と機能との関係、および時間的遺伝的ないし環境要因に対する構造の変化を解析する学問です。難しく言えば、個体、器官から細胞小器官、分子レベルまで、いろいろな構造を研究する学問であり、病気の診断・治療の基礎になるものです。当然、解剖学つまり人体の構造および構造も機能の関連に関する知識がなければ、医学は成り立たなく、絶対に重要な基礎になるものです。何百年もたった古い学問だから、何も新しい発見はないと言う方がいます。しかし、初めて医学を学ぶ学生にとっては、この人体解剖実習はすべて新発見の連続であります。科学を発展させる原動力は、発見の喜びを感じることで、そういう機会を解剖実習は与えてくれるのです。もちろん、自分で問題を発見して、それを自分で解決する、あるいはものを正確に観察し、記録する、そういう能力を養う、非常にいい機会でもあります。またもう1つ重要なのは、解剖実習に際して学生というのは、生と死とか、生命の尊厳についていろいろ考える機会になります。日野原さんがおっしゃっています、「いかなる医学の進歩をもってしても、死を免れることはできない。そのような人間の身体と心をケア、つまり手当てする医師となるための学習の期間に、病む人間を理解し、同時に命の尊厳を理解する感性と知性を持つ訓練が必要である」。こういう訓練の機会に、解剖実習はなると思っています。私の大学の学生解剖実習感想文の一部ですが、「実習の前後で行う黙祷の際、自分の思いをご遺体に語りかけていたのはなぜか。悲しみといったものとは違う感情の面で、生と死が連続していったからだと考える。私たちの中にこの感情がある限り、献体された方の生は生き続けるように思われる。解剖実習が実用的な面で、私たちの力になったことは言うまでもない。このことと並んで、自分の生死観についてもう一度考えられた点でも、今後多くの死と向き合っていく立場の者として、有意義であったと思われる」というふうに、献体された方の生は、この学生の中に生き続けて、次の時代の医学、医療の発展につながっていくであろうということです。
コメディカルというのは、医師と共同してチーム医療を担う医療人で、いろいろな種類があります。看護の看というのは、手と目という字から成っています。ですから、看護というのは手と目で守ることであります。適切な看護援助、根拠に基づいたケアを行うためには、体のどこをどう使って、種々の日常生活行動が行われているかを理解するということが大切であり、形態と機能を密接に関連させて、人間を理解するのが看護職にとっては非常に重要であります。また、理学療法士、作業療法士は、リハビリテーションの中心的役割を担う職種であり、体の機能回復や、日常生活ができるように訓練して、生活の質(QOL)を高める仕事です。体の運動に関係のある手や足や体幹の機能訓練を行うためには、骨とか関節とか、筋肉、神経、血管などの構造と働きに関する知識が非常に重要です。それから、理療、はり、きゅう、あんま、マッサージ、指圧などの職業では、自分が触っているものが分かることが重要であり、そのためには、本物を経験しておく必要があるのです。最近話題になっている救急救命士は、現場での傷病者の状態、症状、生命の緊急度および重傷度を把握し、必要な場合は、心肺機能停止状態に陥った傷病者に対して、高度な応急処置を行うことがあり、そのためには解剖生理学の知識がなくてはならないものです。このようなことから、コメディカルの教育に解剖学の教育が必要かつ重要で、解剖学実習をどう行うかということが重要な問題となっています。
人体の構造は複雑でありまして、その複雑な構造を人間のあらゆる感覚を駆使して観察し、学習するという解剖学実習が、構造を理解するのに非常に有効です。ただ、解剖実習に利用できる時間は、職種によって異なり、剖出作業を伴う実習は非常に時間がかかります。医学科で40〜50回ぐらい半日ずつ使って解剖実習しても、徹底的に理解させるというのは困難です。コメディカル教育では、解剖してある人体を学習するのが、大方の場合は実際的であります。解剖できるのは死体解剖資格を持つ人、あるいは医学に関する大学の解剖学、病理学、法医学の教授、または助教授となっています。資格のある指導者の下であれば、医学歯学の学生でなくても、コメディカル関係の学生でも解剖実習をすることが許されると考えられます。実習場所は、医学に関する大学の解剖室で行わなければならない。こういういろいろなことを考えますと、医学歯学の解剖学実習室をこれからもより充実させて、医学歯学の教育だけではなくて、コメディカル教育にも活用できるように、地域の解剖教育センターにするのがいいだろうと思います。
一番大切なことかもしれませんが、献体者の立場からも、コメディカルの教育に自分の遺体が使われることは、チーム医療の一翼を担う医療人の養成に役立つということであれば、それは医学医療の発展に貢献することですから、素晴らしいことであると考えられます。しかし、このような考えは、自分の遺体を解剖してもらっても良いという献体する者あるいはその関係者と、解剖を指導する者との間の、信頼関係に基づいていると思います。そして、献体登録をするときに、コメディカルの教育に自分の遺体を使ってもいいということの了解を文書化しておく必要があるだろうと考えています。
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