医学および医療技術教育における人体解剖学の基盤
新潟大学医学部解剖学第一講座教授
篤志解剖全国連合会副会長
熊木 克治
1995(平成8)年3月31日に近代解剖学教育100年記念切手が発行され日本解剖学会100周年と献体運動40年の大きな節目でもあった。
日本における解剖学は1771(明和8)年に骨か原で腑分けを見て、杉田玄白と前野良沢がターヘルアナトシアを翻訳して「解体新書」を1774(安永3)年に世に出してから大きく広がったといえる。最近では1995(平成7)年に行われた特別展「人体の世界」に46万人もの人々が関心と興味を示したことも記憶に新しい。
一方献体については1870(明治2)年に美幾女によって日本で最初の篤志献体が行われたことに端を発する。昭和20、30年代は「解剖体の不足」から1955(昭和30)年に東大の藤田恒太郎教授の指導のもと、倉屋利一氏の発案から篤志献体が献体運動として取り上げられた。その後献体を通して「医学教育に参加する」という考えが普及し、1983(昭和58)年に“献体法”が施行され、一層の理解が深まった。最近は献体の考えは「ひとの生と死を考える」拠り所ともなり、新局面を迎えている。
このように解剖学と献体の関係は「正しい献体活動と充実した解剖学実習」として車の両輪の如く、密接かつ重要な関係ということができる。
横隔神経を例に人体解剖学の基盤、解剖学のあり方を考えてみる。
1. 横隔神経の局所解剖学的特徴から鎖骨下静脈の形態形成(発生学)を考察する
横隔神経の起始根は主にC4、5であり時にC3を含む。その経過は前斜角筋の前面を斜めに横切って下降する。鎖骨下静脈のうしろを通る。
いわゆる副横隔神経と呼ばれるものや、鎖骨下筋神経は横隔神経との共通幹の形成や鎖骨下静脈の(まえ/うしろ)や外頚静脈の(外側/内側)との位置関係に多様性を呈する特徴がある。時には頚神経ワナからの枝が横隔神経に合流することもある。また胸筋神経、肩甲上神経などにも共通の特徴があり横隔神経群として考察する必要がある。
この神経群と静脈の特徴を分析すると、鎖骨下静脈にはその形態形成学的に複数の通り道があり、その中から選択的に残って鎖骨下静脈が完成すると考える、実習室の中から静脈の発生学を進めることができる。
2. 臨床解剖学的な考察と問題提起
現在の臨床に役立つ必要な解剖を覚えるのが臨床解剖学ではなく、将来の新しい臨床解剖学を発展させるには、解剖学的に充分な理解と考察という基盤こそが重要である。
例えば、1)頚部郭清術での横隔神経の保存、2)脊髄損傷による呼吸麻痺、3)肺結核の手術的治療―横隔神経捻除術などついて再考してみたい。頚部の構造の解剖学的事実について詳細に正確に観察(診察)し、充分な考察(鑑別診断)を加えると、それぞれの分野で臨床で必要な問題点が浮き彫りにされ、科学することの楽しさと重要性を認識できる。
―人体機能学の視点から―
長野県看護大学看護形態機能学教授
佐伯 由香
以前の看護教育では別々の科目として解剖学と生理学は教育されていた。現在では生化学・栄養学も加えられ「人体の構造と機能」という教育科目として変更された。この背景には医学とは違った、看護学が必要とする解剖生理学のあり方が変わってきたことが一因としてあるのではないかと思われる。疾病の診断・治療を目的とする医学とは異なり、看護では身体のどこをどう使って種々の日常生活行動が行われているのかを理解することが重要で、それが適切な看護援助につながる。そのためには、形態と機能を密接に関連させ、人間を全身的にとらえ考える能力が必要とされる。
自身が所属する大学は、看護学科のみの単科大学で1995年に開学した。看護形態機能論I〜IVという科目名で、もともとはIが解剖学(30時間)、IIが生理学(30時間)、IIIが実習・実験(45時間)の予定でカリキュラムが組まれた。しかし、解剖生理学を分けて教育するより一緒に教えたほうが理解しやすいのではと、循環器系、呼吸器系、消化器系・・・という器官系統的な分け方で、それぞれにおいて解剖学と生理学を一緒に教えている。
看護教育に限らず医療従事者の教育において解剖生理学はヒトの身体を理解するうえで最も基本的な内容であり、おそらく入学間もない時期に教育が行われるのがほとんどである。本学でも例にもれず1年生の前期から授業が開始される。入学早々、多くの専門用語が出てきて覚えることが多く、学生にとっては決して「楽しい授業」ではないのが現状ではないだろうか。しかし、3年、4年と進み臨床実習を経験すると「もっと解剖生理学を勉強しておけばよかった」「何でうちの大学は解剖学実習がないの?」という声が必ず複数の学生から聞かれるのも事実である。
残念なことに、本学は医学部と地理的に離れているため解剖学実習をはじめとした教育・研究面での協力が十分得られていないまま今日に至っている。さらに講義時間数は他大学あるいは短大や専門学校と比較して少なく、この状況の中で何をどこまで教えるのか、また学生の理解度を増すためにどのような教育がよいのかということが毎年の課題である。ペーパークラフトを用いた骨格標本の作成、生理学実験で使用した動物の解剖を行ったりして、学生の反応を見ているのが現状である。
―人体構造学の視点から―
看護系大学教育における人体構造学
滋賀医科大学基礎看護学教授
今本 喜久子
過去十年間に、看護系大学が次々と設立され、平成十二年度現在で国公私立を併せて84校になるが、まだ増加の傾向にある。看護学教育を行う学部は、医学部、看護学部、教育学部、保健学部、福祉学部、保健医療学部など、今では15学部に広がっている。このことは、平成三年の大学設置基準の大綱化の影響もあって、従来多くの拘束を受け画一的であった看護教育にも大学による独自性の発揮が強く求められていることを示すものと考える。
滋賀医科大学は、平成六年に開設されて、今年で七年目を迎えた。筆者は、学科開設以前に人体解剖生理学を担当することが内定したため、在籍していた解剖学教室をはじめとして解剖センターや大学内の多方面の理解と協力を得ることができ、カリキュラムを考え準備する期間に恵まれた。
専門基礎教科としての解剖学と生理学は、人体機構論I(講義60時間)と生体観察技法I(実習45時間)で教育している。他大学に比べて講義時間は少ないが、講義に重点を置く授業よりも、学生が自分の目で観察し考察する実習を重要視してカリキュラムを組んだことが特色と言えばいえるであろう。
毎回の実習は、骨実習(3回)、生体表面観察(3回)、解剖体観察(5回)、顕微鏡標本観察(10回)、バイタルサインとその生理的変動(3回)、肺活量測定及びフィジカルアセスメント(5回)を適宜組み合わせて行い、用意した課題について学生に考察させレポートとして提出させている。時間を最大限に使って行う実習であるが、指導助手の不足、実習用具不足などもあって、熱意の割には効果が十分に上がっているとは言い難く、指導力のある助手の養成、実習方法や内容の選択などが今後の課題として残されている。
看護の学部学生がメスを使って系統解剖実習を行うことは、時間的制約もあり、実現化は難しい。しかし、看護学出身者が人体の構造機能を教育するには、学部教育で得た知識では不十分で、なんらかの方法で人体構造学を深く身につける必要性がある。
幸いにも滋賀医大では、献体して頂いたご遺体は、医学生の系統解剖実習に使わせて頂くだけでなく、研修医や研究者たちの局所解剖にも使わせて頂いている。医学部に併設された看護学科の利点は、看護学科の人材の養成にもこうした機会を利用できることである。
近い将来、大学院修士課程の専攻領域を改め、人体構造学特論コースに解剖実習も取り入れ、基礎医学をしっかり身につけた看護学研究者を育成できるようにしたい。いつの日か履修生が、看護のための人体解剖生理学を発展させてくれることを心から願っている。
日本リハビリテーション専門学校校長
二瓶 隆一
近年医学の進歩により、重度の障害を残しても救命された人に対して、また平均寿命が延びた高齢者に対して、難病や慢性疾患に対する長期の治療の実施のなかでリハビリテーションの必要性が増大している。そのなかで理学療法士(PT)と作業療法士(OT)の果たす役割は大きい。そこで、その仕事の内容と教育養成に解剖学がいかに重要な役割を担っているかを述べたい。
1. 医療専門職としてのPT、OTの仕事内容
現代医学でのリハビリテーションの中心的役割を担う医療専門職である。
手足の麻痺、歩けない、関節の痛み、腰痛、体の移動困難、人工関節手術後の訓練、寝たきりの予防など手足、体の筋肉や関節を動かし、身体の機能回復や日常生活ができるように訓練して生活の質を高める役割をしている。
2. なぜPT、OTに解剖が必要か
体の運動に関係のある上肢、下肢、体幹の機能訓練を行うためには骨、関節、筋肉などの解剖学に熟知していなければならない。とくに近年、治療内容が高度かつ複雑になり、解剖学の正確な知識習得の必要性が強く望まれている。
3. 人体構造学はどのように教育され、役立っているか
現在多くの専門学校、大学では3〜4年コースで教育しているが、人体構造と機能には多くの時間を割き約530時間の講義と標本実習を行っている。この解剖学的知識を基礎として理学療法士、作業療法士の講義や実習を行い、医学としてのリハビリテーション技術が保健、医療、福祉の現場で活かされる。
4. 問題点は何か
実際の人体構造を見る機会はほとんどなく、書籍や標本で教育されている。医学部の解剖実習の合間に見学が許される場合でも2時間位である。治療や訓練に必要な解剖学上の骨と筋肉との関係、神経や血管の走行、関節と靭帯の解剖など実際の人体構造を見せていただける機会はほとんどない。
5. 解剖見学実習を許されるならばどのような効果があるか
手足、腹筋、背筋などの骨、筋肉、関節を主とする運動器に関しての解剖学の知識が得られ臨床の場での治療、訓練に大きな効果を発揮すると考えられる。
さらに献体に対する畏敬の念、生命の尊厳を感じ取ることができる。短時間の見学でも見学の前には献体の尊い心、手続き、ご遺体が同時代を生きていた方々であること、系統解剖の後は自宅に戻られるのが遅ければ数年以上後になることを話している。医師は解剖実習をさせて頂くことにより、解剖的知識のほかに人間に対する敬虔な感情と重要な精神形成の場となるが、医療人として、PT、OTが短期間の見学実習でもこの効果が生まれることを期待する。
東京慈恵会医科大学解剖学第一講座教授
日本解剖学会解剖体委員会委員長
加藤 征
少子化時代の波が高等教育の場にひたひたと迫りつつある昨今である。今春の私立大入試で、実質倍率(合格者に対する受験者の割合)が1倍台だった4年制大学が46%と、昨年に比べて1割増えていることが大手予備校「駿台予備学校」の調べで分かった。また、経済、法、文学部など文系学部で倍率が下がる傾向になっている。と5月30日の毎日新聞で報道された。同校は「文系学部に比べて、卒業後の仕事がはっきりしている学部に人気が集まっている。少子化、不況で受験生の目的意識がはっきりしてきたようだ」と分析している。
これが短大になるともっと著しく、全国約500の短大の1割にあたる52校で学生定員の5割を切る学科がでて補助金がカットされたことが報道された。
これに対して医療系専門学校では大変な変化に見まわれている。
もっとも学生数が多い看護学校においては大学教育への移行が多く、平成5年20校あったものが平成12年には84校と4倍になっているが、専門学校の数はそれほど大きく減少はしていない。理学療法、作業療法の学校の増加も大きいが、もっとも大きく変わったのが柔道整復師養成校と鍼灸師養成学校である。すなわち、平成11年1校が苦難の末認可されたのをきっかけに、それまで14校であった柔道整復専門学校は12年には10校が新設、3校が定員増を認可され学校数は28校となり、1230の定員が一挙に2400名に増加した。鍼灸専門学校もほぼ同様の傾向である。専門学校入学者の中に4年制大学の卒業者も増加している。
コメディカルといっても18の専門職種がありそれぞれ要求される教育内容が異なっている。こと解剖学においてもその要求される内容は大きく異なっている。そこで、いくつかの専門士の国家試験出題傾向が専門士に要求される内容であろう、と過去数年間の国家試験問題を分析した。
看護婦の国家試験では人体の構造と機能ではあるが、構造を問うものが圧倒的に多い。もっとも多く出題されているのが循環器系で17.5%、ついで消化器系の15.9%であった。以下神経系、呼吸器系、内分泌系、泌尿生殖器系、運動器、代謝、感覚器、血液の順である。
理学療法士の国試では筋系(筋と神経、筋と骨)26.8%、末梢神経系(筋支配を含む)17.5%、骨と関節16.5%、中枢神経系11.3%、脈管系8.3%、消化器系6.2%、泌尿生殖器系5.2%、以下感覚器、呼吸器系の順である。
柔道整復師の国試では骨格系15.3%、筋系14.0%、循環器系14.0%、泌尿生殖器系8.7%、末梢神経系8.7%、中枢神経系7.3%、以下内分泌、感覚器、消化器系、細胞、呼吸器系、発生となっているが、関連科目に運動学があり、その中で筋は50%を占めている。
このように看護婦では循環器系を含む内臓学が要求され、理学療法士には神経系を含む運動器系の知識が要求され、柔道整復師では筋と骨を主体とし幅広い知識が要求されている。
いずれも基本的には人体の構造についての基礎的知識ではあるが、それぞれに専門的知識を要求されているように思われる。
弁護士・医師
加藤 済仁
医師(歯科医師)や看護婦らをはじめとしたコ・メディカルの教育のための解剖は、身体の正常な構造を明らかにするための系統解剖(死体解剖保存法10条。医学及び歯学の教育のための献体に関する法律(献体法)2条では「正常解剖」)である。
この系統解剖の実施に関する法律は、死体解剖保存法である。同法は、死体の解剖が適正に行なわれることによって、医学(歯学を含む)の教育に資することを立法趣旨の一つとしている(同法1条)。
そして、医学に関する大学の解剖学の教授、助教授は解剖することができるが(同法2条1項2号)、系統解剖は医学に関する大学において(同法10条)、特に設けた解剖室において行なわなければならない(同法9条)。
これらの規定は、解剖学の教授、助教授が、その責任(指導・監督下)において医学教育のために大学の解剖室で系統解剖を行なうことができることを認めているにすぎない。そこでは、系統解剖の教育対象者を医学生に限る文言はない。
身体の正常な構造の知識を修得することは、単に医師ばかりではなく、コ・メディカルにも必要なことは明らかである。そして、その修得方法としては、系統解剖がよりよい方法であることも論を待たないであろう。
したがって、同法は、立法趣旨からみて、コ・メディカルの医学教育のための系統解剖を認めていると解釈できる。
ところで、献体法は、自己の身体を死後医学教育のために系統解剖の解剖体として提供する意思(献体の意思)を尊重しなければならない、と規定している(同法2、3条)。
しかし、献体の意思が「医学教育」という文言から、「医学生」の医学教育に、という限定的なものであることも考えられる。この場合、献体をコ・メディカルの医学教育のために系統解剖することは問題である。
この点、献体の意思の内容を十分確認しておく必要があろう。
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