日本財団 図書館


盲学校理療科教育の立場から
筑波大学心身障害学系理療科教員養成施設講師
濱田 淳
 
1. はじめに
 わが国においては、「理療(鍼灸あん摩マッサージ指圧)」と視覚障害者との関わりはとても強く、特定の職域がこのようになっているのは世界でも例をみない。現時点では、アジア諸国が自国の視覚障害者の自立方法として取り入れようとしている。
 理療には、国民の健康を保持増進するという医療的側面の他、視覚障害者の自活の道としての福祉的側面がある。「盲学校高等部専攻科理療科」はこの2面を考慮しなければならず、教育の際、時に矛盾をはらむことがある。
 盲学校理療科を卒業し、資格試験を合格して理療師になっていく者は毎年全国で約400〜500人である。これに対して、専門学校を卒業し免許を取得する者は現時点で約2000人である。現在、専門学校が各地で開校されているので、さらに増加すると考えられる。従来、専門学校のない地域の理療師は盲学校出身者であることが多く、患者も「理療といえば目の悪い人」という認識があったが、もはや通じなくなっている。
 
2. 「見えないものを見る」ということ
 このような状況の中では、視覚障害をもつ者は晴眼者以上の努力と特質をもたなければ競争に負けてしまうということになる。その努力を支える者は教員である。
 「視覚の学問」である解剖学を視覚に障害をもつ者が教える/学ぶということ自体に無理がある、という議論もあるが、私自身はそう考えたくない。「できないことをできるようにする」ということが教育の目標と考えている。どのみち皮膚の下は見えないのだから、施術の際には目が見えようと見えまいと同じである。その意味でスタートラインは同じであり、触診の精密さ、刺入した鍼先の到達点がどこの組織かというイメージの差が治療の善し悪しに関わってくる。
 理療は、もともと「目には見えないが他のものに影響を及ぼす何か」を対象にして治療を行ってきた。それは「気」であり、「機能」であった。
 
3. 「鍼の先に目がある」ということ
 体内に鍼を刺入するという行為には、少からず危険性が伴っている。具体的には臓器への侵襲である。その危険性を避けるには、基本的な解剖学の知見が必要である。これらの解剖学について、盲学校理療科では解剖見学・実習を含めて、かなりの時間数を割いている。しかし、実際にもっとも重要となるのは、自分がさわっているものがわかるということである。自分で判断でき、その上でその正誤を確認する必要がある。この正誤を判断することが教員の役目である。指導する教員が確実な知識と技術をもつことが、そこから生まれる理療師の質を高めることにつながる。
 そこで、とくに教員には正確な知識と豊富な経験をもつ機会が多くあるほどよいと考える。見えないからこそ、本物を経験し、こだわって、詳細を知っておくべきと考える。
 
4. さわってもこわれない標本
 解剖実習や解剖見学で問題になるのは、さわることによって剖出されたものが変形していくということである。詳しく知ろうとすればするほど困る。この難点を解決する方法の1つが模型である。ところが盲学校では、模型を各人に1つという状況ではなく、不正確なものを使っている。質感はわからないし、形だけの認識になる。
 
視能訓練士養成の視点から
献体による解剖学教育の必要性
日本視能訓練士協会常務理事
内田 冴子
 
内容の趣旨
1. 視能訓練士の職域:1971年の視能訓練士法の成立及び1993年施行規則の一部改正により、専門職としての身分の確立とその職域は視覚機能回復訓練と視覚機能検査であり、住み分け区分はリハビリテーション職種に位置付けられている。
 
2. 視能訓練士の現状:指定基準による学校養成所での履修と国家試験合格で資格を得る。現在の養成校は大学3校(大学院2校)、1年制2校、3年制9校の計14校で有資格者は4293名である。職能団体として社団法人日本視能訓練士協会が法人としての機能に加え学術活動を行っている。
 
3. 献体による解剖学教育の必要性
*視能訓練士の活動の場は臨床現場であり、チーム医療の中で医療の基盤となる基礎医学の習得は不可欠である。則ち職務の中心である視覚情報処理過程の機能解剖を学ぶことは、視覚機能検査の基礎と視覚機能障害の疾病構造を理解し視能矯正とその訓練効果を促進する上で不可欠である。
*急速に進展する情報社会のなかで、視覚の必要性とその質は人のQOLに大きく関与し、そのニーズは幼児から高齢者までを包括する。機能的変化を解剖学的見地から学習することでその特性に対応可能となる。
*養成校の多くは臨床学習のための付属病院を持たず、解剖学の実習の機会に恵まれない現状から、献体による解剖学教育の恩恵は勿論、日本視能訓練士協会が取り組んでいる生涯教育においてもその恩恵は計り知れない。
 
 以上視能訓練士の業務から解剖学教育の必要性を述べたが、その実施にあたってはより広範囲な地域で且つ専門医の指導と解説のもとに実施されることが望まれる。
 
医療現場を見る社会の視点から
20世妃の献体 厳しく総括を
医療ジャーナリスト
藤田真一
 
(1)解剖学者の内野滋雄先生から電話で連絡をいただいた。今、日本の献体運動が、さらに大きく伸びるか、それとも衰弱へ向うかの岐路に立っているために、医師・歯科医師のほか、コメディカルの各分野から代表を集めて、だいじなシンポジウムを開きたい。もしあなたの体調が良ければ、出て来て発言してほしい、とのお話であった。なるほど、20世紀後半の歩みを総括し、21世紀のさらなる発展を展望するにはもってこいのタイミングだ。私は参加したいと即答した。
(2)「献体、篤志解剖は、日本が世界に誇る文化のひとつではないか、考えてきました。それだけに、さきほどの、外崎昭・篤志解剖全国連合会会長のご挨拶は、私にとって衝撃的でした」。以上は、同連合会の第29回総会における、平野寛先生(日本解剖学会理事長)の祝辞の一節である。全連会長の発言のどこがそんなにショッキングだったのか。総会の記録を読んですぐにわかった。
(3)各地の献体登録者の団体ではこれまでに、「住所不明、不献体」の会員数が少しずつ増え続けて、帳簿上の数の約20%に達している、との報告があったことである。
 登録の撤回は原則として自由なのに、当人が死亡したとなると、家族内で抑えられていた反対論が急に強くなり、結局、世間並みに葬ってしまうケースが多いのだという。
 献体は日本が世界に誇り得る文化のひとつだ、との見方に異論はない。けれどこの半面の現実(故人の意志を家族たちが否定して、それがまた思いやり深い行為だと肯定される現実)を、見落としてはなるまい。
(4)内野先生にシンポジウム参加の返事をしたあとすぐ、手元にある辞書類を並べて『献体』の項目を探した。驚いたことに、国民的規模で普及している『広辞苑』の説明文が間違っていたほか、『南山堂・医学大辞典』(3万語採録)は、献体の2文字をまったく無視していた。いったい、なぜなのか。よく調べて、正すべきは早急に正すべし、だと思う。この問いかけが、医学とはそもそも何なのか、という根本に通じていることは言うまでもない。
 
標本・資料の共同利用は可能か
順天堂大学医学部解剖学第一講座教授
坂井 建雄
 
 解剖学の教育において、人体解剖実習は最高の教育手段である。しかし何分、人体解剖を行うには、制度上・倫理上の強い制約がある。それ以外にも、献体により解剖体を収集し、その保存処置を行うための人的な労力、遺体を保管しさらに実習を行うための専用の施設と設備、さらに献体登録者との日常的な連絡や、死者に対する礼節に当然必要とされる経費、こういった負担を考えると、人体解剖実習は、教育効果も大きいが、きわめて贅沢な教育手段であると言うことが分かる。
 人体解剖実習は、医学生と歯科学生の教育においては必ず行われるものであるが、それ以外のコメディカルのスタッフの教育においては、あまり公然とは行われていない。医学部や歯学部の好意によって、人体解剖実習や解剖標本の見学を許されているところもあるが、そういった機会すらない教育施設も少なくない。
 さらに一般の市民レベルにおいても、人体解剖標本を見学したいというニーズも少なくない。1995年に日本解剖学会百周年記念事業の一環として国立科学博物館で行われた特別展「人体の世界」には、プラスティネーションの技術によって加工した人体解剖標本が多数展示され、45万人もの来場者を集めた。各地の医科大学でも、学園祭の折りに、人体解剖標本を市民に供覧しているところは、いくつもある。
 コメディカルの学生や一般市民に対して、人体解剖標本をどこまで公開するかは、展示施設の様体や展示標本の内容などにより、一概に決められるものではなく、各展示施設の責任者の判断において個別に行われるべきものである。しかしそういった標本を見たいと学生や一般市民が希望した場合に、そもそもどこにどのような展示施設があり、どのような標本があるかという情報すらない、というのが大きな障害であったと思われる。
 解剖標本の管理や展示のあり方についての議論の場を持つために、1997年春の日本解剖学会全国学術集会のサテライトシンポジウムとして、標本展示に関する懇話会の第1回の集会を開き(世話人:坂井建雄・小林身哉)、それ以後毎年、集会を開いている。1998年には、文部省科学研究費を頂戴して、解剖標本展示施設の全国調査を行い、その報告書を全国の解剖学教室にお配りした(大学における人体標本展示施設の実体と解剖学教育に果たす役割に関する調査研究)。この報告書をもとにして、一般向けの人体解剖標本のガイドブックとして、1999年末に『人、ヒトにであう』を風人社から刊行した(坂井建雄・小林身哉編)。
 こういった、解剖標本についての調査啓蒙活動は、人体解剖標本についての情報を可能な限り公開するというのが、目的である。公開できるところは見学を許し、できないところはお断りする。見学を許すかどうかは、それぞれの展示施設において、独自の判断、独自の価値観に基づいて判断していただければよい。それが私の考える当面の原則である。各展示施設でどう判断すべきか、各施設の責任者の方々が悩みをうち明けて相談したり、啓発を受けたりする場が、標本展示に関する懇話会である。
 標本・資料の共同利用が可能かと尋ねられれば、何とも答えようがない。「可能かも知れないから、尋ねてみれば?」というのが、最も良心的な答えであろう。「叩けよ、さらば開かれん、求めよ、さらば与えられん」である。標本室の扉を叩く人の顔を見て、各標本室の責任者の方も、対応を決めるだろう。人体解剖や献体も、そういった人と人とのつながりが、基礎にあるからこそ、価値があるのではないかと思う。
 
献体思想の将来
シンポジウムのまとめとして
財団法人日本篤志献体協会理事長
内野 滋雄
 
 戦後、解剖体が不足し医学教育の危機といわれた時代があった。それを救ってくれた人達は無条件無報酬で自らの遺体を提供してくれた一般の市民であった。その後献体は尊いボランティア行為として根付き、今では解剖体の過剰といわれる時代に突入した。
 その間、医療現場も大きく様変わりし、現在では医師以外のいわゆるコメディカルの人達が専門職として加わったチーム医療に変革した。そのコメディカルの教育に人体解剖学実習が必要なのか。また、教育現場からその要望があるのか。これらが本シンポジウムの主題である。
 コメディカル各分野における解剖学教育の実態と要望は解剖学雑誌の特集などで既に明らかにされている。その実態は実習と称して標本室の見学程度のものから、学生実習の見学、更に実際に解剖実習を行うものまで千差万別である。この場合、医・歯系以外の学生が解剖を行うことに法的問題はないのか。献体した故人はそれらを了解しているのか、等々いくつもの疑問や難問が存在する。しかしコメディカル側からの解剖実習に対する要望は多い。
 これらが本シンポジウムでどのように語られ、どのように結論づけられるのか。その結論または要望次第によっては法改正も必要になるだろう。そのためには文部・厚生等行政の理解も必要となる。そして最も大切なことは献体登録者の理解と協力を得ることである。
 昨今頻発している医療事故を考える時、医の倫理教育、医の倫理観の涵養は避けて通れない。献体による人体解剖学実習はそれらに計り知れない程の大きな影響力を持つ。このことから考えてみても、献体登録者数が増え充分な解剖体の確保が可能となった今日、コメディカルにまで人体解剖学実習の機会を拡げることは日本の医療水準を更に引き上げるためにも好機と言わなければならない。
 献体が、医師、歯科医師の養成のためから脱却し日本の医療水準の向上にまで踏み込むことは、決して意義の少ないことではない。21世紀はそのような世紀になるのではないか。献体思想の変革が新しい医学・医療の礎となることを期待している。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION