漁業については、沿岸域管理における重要な要素となることが考えられるため、より詳細に整理するものとする。漁業の主要生産物の推移は表2.2に示すとおりである。前述のようにのりとアサリが主要な漁獲物となっているが、漁獲量は一定せず、変動が激しいものとなっている。
表2.2 主要水産物の生産状況
種別 |
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平成11年度 |
平成12年度 |
平成13年度 |
平成14年度 |
平成15年度 |
乾燥ノリ
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共販枚数(千枚) |
106,306 |
98,487 |
95,271 |
94,255 |
77,460 |
金額(千円) |
1,070,711 |
1,210,161 |
929,685 |
960,067 |
832,563 |
アサリ
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水揚げ量(t) |
4,698 |
4,423 |
3,659 |
3,150 |
3,711 |
金額(千円) |
1,560,735 |
1,465,114 |
1,216,174 |
1,105,372 |
1,264,477 |
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また、漁業経営体数は、表2.3に示すとおり、昭和53年には1,303経営体あったものが、昭和63年には1,074に減少し、平成5年に910、10年には777と減少に歯止めがかかっていない。漁業従事者数も昭和63年に2,072人いたが、平成5年には1,772人、平成10年には1,476人に減少した。
表2.3 木更津市の漁業経営体数の推移
年次 |
昭和53年 |
58年 |
63年 |
平成5年 |
10年 |
漁業経営体数 |
1303 |
1173 |
1074 |
910 |
777 |
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観光入り込み客数は、表2.4に示すとおり、平成12年から急増しているが、これはアクアライン海ほたるの来場者数を加算したことによる。そのほかは、ほぼ毎年安定している。潮干狩、すだて及び海釣りなど海洋性のレクリエーションがかなりの割合を占めているのが特徴である。特に、潮干狩りは毎年20万人を超える来訪者があり、木更津市の主要な観光資源となっている。
表2.4 観光入りこみ客数の推移
年 |
総数 |
潮干狩 |
すだて |
海釣り |
川釣り |
社寺参詣 |
各種催物 |
文化財等 |
その他 |
9 |
1,077,000 |
236,000 |
11,000 |
46,000 |
19,000 |
190,000 |
454,000 |
37,000 |
84,000 |
10 |
1,100,000 |
291,000 |
12,000 |
55,000 |
18,000 |
187,000 |
379,000 |
59,000 |
99,000 |
11 |
1,409,000 |
310,000 |
12,000 |
55,000 |
16,000 |
224,000 |
468,000 |
50,000 |
274,000 |
12 |
7,122,000 |
259,000 |
10,000 |
53,000 |
16,000 |
276,000 |
491,000 |
46,000 |
5,971,000 |
13 |
7,010,000 |
279,000 |
8,000 |
53,000 |
16,000 |
299,000 |
452,000 |
31,000 |
5,872,000 |
14 |
6,775,000 |
301,000 |
10,000 |
50,000 |
15,000 |
238,000 |
569,000 |
24,000 |
5,568,000 |
15 |
6,234,000 |
270,000 |
9,000 |
42,000 |
12,000 |
231,000 |
248,000 |
39,000 |
5,383,000 |
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12年よりその他欄に海ほたるの観光客数を加算
14年より各種催物欄にかずさアークの来場者数を加算
出典:木更津市統計書
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1700年程前、ヤマトタケルノミコトが、蝦夷の征服の旅の途中、相模国から上総に向かって、現在の三浦半島から房総半島へと、走水(はしりみず)の海を船で渡ろうとした。しかし、海の神様が波を立てて船が進めなくなったとき、ヤマトタケルノミコトの妃(きさき)であったオトタチバナヒメが、「私がミコトにかわって海に入りましょう。ミコトは命ぜられた任務をはたしてください」といって、菅(すげ)の畳8枚、皮の畳8枚、絹の畳8枚を波の上にしいて、その上に乗り、姿を消した。やがて荒い波はしずまり、船が進めるようになった。
それから7日の後にオトタチバナヒメの櫛(くし)が海辺に流れ着いたので、その櫛を取って墓を作り、そこにおさめたといわれている。その後、ヒメの着物の袖(そで)が流れ着いた周辺の海辺は、袖ケ浦(そでがうら)と呼ばれるようになった。
オトタチバナヒメが海上に布を流して身を投じた付近は「布流津(ふるつ)」といわれ、「ふるつ」がつまって「ふっつ」(富津)になったとされる。
ヤマトタケルノミコトは、オトタチバナヒメをしのんで、立ち去ろうとしなかった場所が「君不去(きみさらず)」となり、その後、音がつまって「きさらず」となって、木更津の地名になったといわれる(注:地名の由来は、アイヌ語起源説など他にもある)。
明治38年(1905年)地元木更津市生まれの詩人松本斗吟著の“君不去”の作品の中にある民話である。
昔、三味線好きな和尚がおり、ある秋の夜和尚がふと目を覚ますと庭で狸の一群が腹づつみを打って踊り狂っていました。和尚は、初めは驚きましたが、次第に浮かれて狸たちとおはやしを競いあう日が続きました。しかし、4日目の夜、狸は現れませんでした。翌朝心配した和尚が本堂のあたりを調べると、音頭をとっていたリーダーの大狸があわれにも腹の皮がさけた姿で死んでいました。和尚は、大狸をあわれみ、狸塚を作りました。現在、境内に残っています。
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その資料を大正12年(1923年)に、君津郡と木更津市の小学校の先生が文芸講演会に招いた野口雨情氏に渡して、木更津にちなんだ童謡を作ってほしいと依頼し、完成されたのが「証誠寺の狸ばやし」である。日本三大狸伝説(証誠寺の狸ばやし、分福茶釜、八百八狸物語)の一つといわれている。毎年10月下旬には狸まつりが開かれ、小学生児童による踊りやチャリティーバザーなどが催され、多くの人で賑わう。
「木更津船」は、木更津と江戸を結ぶ貨物船。慶長十九(一六一四)年の大坂冬の陣で戦功があったとして、幕府が木更津の水夫たちに航行の特権を与えたのがきっかけで往来を始めた。以来約三百年。米や薪炭、日用品を運ぶ男たちの船は、鉄道開通後の昭和初期まで江戸の暮らしを支え、内房に占める木更津の地位も確固たるものとなった。
五大力船とも呼ばれる木更津船は、三百石船(一石は米約百五十キロ分)で長さ約二十メートル、幅約五・六メートル。木更津−江戸間十三里(約五十一キロ)をわずか四時間ほどで結ぶ高速を売り物に、江戸市中の川筋に「木更津河岸」が設けられるほどの特別な存在として、その名をはせた。川の橋を抜けるため帆柱は、折りたたむことができたという。
図2.4 木更津船
船が大きく岸につけないので乗船者は海を歩いて上陸していることがわかる。
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(千葉県立博物館デジタルミュージアムサイトより
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切られ与三郎は歌舞伎で、次のような筋立てである。
「しがねえ恋の情けが仇 (あだ)命の網の切れたのを、どうとり留めてか木更津からー」という「切られ与三」の名セリフは、広く知られています。木更津を舞台に「切られ与三郎」と「お富」、そして「こうもり安」がからむ歌舞伎の名狂言{与話情浮名横櫛}(よわなさけうきのよこぐし)は、嘉永6年 1853年、八代目 市川団十郎が初演し、大当たりをとりました。作者は鶴屋南北の弟子・瀬川如皐(じょこう)です。おっとりした若旦那、与三郎は、木更津海岸の潮干狩で美しいお富を見染め、たちまち二人は恋におちます。しかしお富は、妾の身。逢引が見つかって与三郎は、身体に34カ所のか刀傷を受けてほうりだされます。お富は海に身を投げますが、救いあげられ、その人(実は、兄)の世話で何不自由なく暮らします。数年後、 身を持ち崩した与三郎が仲間のこうもり安とゆすりに行った先が、なんと、お富の家。互いに死んだと思っていた二人は、再会に驚いてーというのが筋書きです。
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鳥居崎公園の「見染め松(別名 袖掛の松)」はこの与三郎とお富が出会い、逢瀬を楽しんだところとされている。
また、鳥居崎公園は、三島由紀夫の小説「青の時代」にもその様子が描かれている。
図2.5 見染めの松
2.4 周辺域の開発の経緯(アクアライン、埋め立て、土地利用等)
盤洲干潟周辺域は、東京湾に残された数少ない貴重な干潟であるが、周辺域では、常に開発の波に洗われてきた。小櫃川の左岸、南側は現在自衛隊の基地として利用されており、沿岸の一部は埋め立てられているが、その前面は人の出入りが抑制されていることもあり、現在ではむしろ良好な干潟が残されている。
また、小櫃川河口干潟では、昭和30年代ごろに、旧通産省が海水から工業用水を取り出す目的で行った淡水化実験施設があり、後浜に円形の形をした池や関連する施設(コンクリート壁)の一部が、現在も残されている。また、河口干潟の北側である北浜町では、50年ほどまえに造成された“畔戸の3万坪”と呼ばれる埋立地がある。この埋立地は1989年3月に地元の金田漁業協同組合に、県からの漁業補償金7億円を元に、6億円で払い下げを受けた。その契約では10年間は他者への払い下げはできないことになっていた。10年後にホテル三日月に21億円で売却され、2002年スパリゾートホテルが開業した。この開業には、1999年頃から、地元の市民団体による反対運動があったが、法的に問題がないこと、排水基準は遵守されること、街の発展に寄与するとの意見もあることなどから、事業は実施されることになった。
また、アクアラインについては、昭和41年4月に建設省が調査を開始し、昭和51年8月に日本道路公団が東京湾横断道路調査室を設置し調査を引き継いだ。平成元年5月に日本道路公団と「東京湾横断道路の建設に関する特別措置法」に基づき建設協定を締結した東京湾横断道路株式会社が起工式を行った。平成7年7月に橋梁部の舗装が完了し、平成9年4月にはトンネル(下り線)の貫通式を行い、平成9年12月に開通した。
その他、現在三日月の隣接地に「民話・童謡の里」建設計画が立ち上がっているが、施設からの排水等に伴う干潟への影響を懸念し反対の声が上がっている。
図2.6 周辺の地図及びホテル三日月とアクアライン(周辺に人工施設がない分目立つ)
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