第V章 マ・シ海峡の航行安全・海洋汚染対策
マ・シ海峡は海上貿易活動、漁業活動など多種多様な経済活動に必要な場を提供しています。その中でも、海上貿易活動に必要な海上交通路としてのマ・シ海峡の機能の重要性は、海峡沿岸国のみならず海峡利用国も、その機能から多大なる便益を享受しており、両者にとって否定しがたいものです。沿岸国と利用国は、そのようなマ・シ海峡の機能が引き続き適切に維持されていくことを希望しています。しかし、海峡の機能維持のためには継続的な努力が必要となるわけですが、本来、誰がどのように行っていくべきか、という問題が生じます。これまで海峡沿岸国は、主要な利用国であった日本とともに、船舶の安全な航行を阻害する要因を排除し、船舶が安全に航行できる環境を整備するなど、マ・シ海峡の海上交通路としての機能を維持・発展させてきました。加えて、海上輸送活動に付随して発生する、海難事故、油や有害危険物質などの流出事故、海賊、海上テロなどの海上犯罪に対しても、必要となる準備・対応体制を整えてきました。
この章では、まず、航行安全の観点から、これまで海峡沿岸国が海峡機能維持のためにどのような対策(海難事故、油流出事故といった事象に対し迅速かつ適切に対応するため、沿岸国が整えている準備・対応体制を含む)を講じてきたのか、海峡利用国がどのような協力を行ってきたのか、についておおまかに見ていくことにします。次に、将来的な方向性しとして、今後どのような対策が必要となり、利用国がどのように協力を行う可能性があるのか、について考察することにします。なお、利用国による協力に関しては、後の章で詳しく検討することにし、この章では、利用国による協力が望まれていると考えられる分野に関し、その理由、協力の内容ついて簡単に言及することにします。
A マ・シ海峡通航船舶の堪航性及び適格船員配乗の確保
1. 寄港国による監督(Port State Control)
(1)沿岸国の取組み
船舶の堪航性や適格船員配乗の確保は、通常は当該船舶の登録国たる旗国の責務です。しかし、いわゆる便宜置籍船の問題や、旗国の努力にも限界があることから、寄港国による監督(PSC: Port State Control)と呼ばれる手法により、船舶の寄港地において、当該地の監督官による監督業務が行われています。マ・シ海峡沿岸国でも、このPSCの制度を活用しマ・シ海峡通航船舶、特に、国際基準に適合していない船舶(サブ・スタンダード船)に対する監督業務を行うことにより、同海峡の安全を確保しています。
⇒船舶の寄港地において、当該地の監督官による監督業務
■寄港国がPSCを実施する権限を有していることは、SOLAS条約附属書第I章第6規則、STCW条約第10条に規定されている。
■「シンガポールにおいては、対象船舶の選定にあたって、初入港か否か、前回のPSCから6ヶ月を経過しているか否か、これまでの検査暦、他のPSC当局からの情報などが参考にされ、・・・る。MPAの検査官は、現在5人であり、PSCを行える対象は全体から見ればほんの一部にならざるを得ず、2003年の1年間でPSCとして検査した件数は1,193件と入港船舶全体の1%にも満たない。」(志村格「シンガポールにおけるサブスタンダード船の排除」『海と安全―特集 サブスタンダード船を排除できるか!』(2004春) 38頁)とあるように、シンガポールでもこのようなPSC実施状況であれば、インドネシア及びマレーシアの海峡沿いの港においては、実施状況が更に低いと考えられる。
⇒国際基準に適合していない船舶
■船舶の堪航性や適格船員配乗に係る国際基準は、国際海事機関(IMO: International Maritime Organization)が採択をした「1974年の海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS条約)」及び「1978年の船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約(STCW条約)」などである。
■現在、IMOでは、サブスタンダード船対策の強化を念頭に置いた条約監査制度の創設を検討中(2005年秋の総会での決議、2006年から実施)である。この制度の目的は、旗国、寄港国などの条約の履行状況を監査することにある。また、同制度の手続面を検証する目的で英国、マーシャル諸島、キプロスの3カ国が提案する試行プロジェクトに、マ・シ海峡沿岸国であるシンガポールをはじめ、米国、ロシア、アルゼンチン、フランス、イランが参加を表明している。なお、日本は試行プロジェクトへの参加を見送っている。
(2)利用国による協力
PSCは寄港国により実施されますが、各国が単独で実施していたのでは効率的ではありません。また、船舶は各国の港に寄港するわけですが、各港によりPSCの実施に差があれば、自然とPSCの貧弱な港や地域にサブスタンダード船が集まってきます。このような理由により、地域的な協力の枠組みによりサブスタンダード船に対する囲い込みを強化していこうとしています。なお、東京MOU自体は、直接的には、マ・シ海峡沿岸国と利用国との間の協力の枠組みではありませんが、マ・シ海峡の安全確保に大きな貢献をしていることは確かです。
⇒地域的な協力の枠組み
■地域的協力の枠組みは現在8つあり、アジア太平洋地域においては、1993年の「アジア太平洋地域におけるPSC実施協力に関する覚書(東京MOU)」がある。マ・シ海峡沿岸国やその周辺の国々も東京MOUのメンバーである。東京MOUでは、地域のPSC実施能力を維持向上させるため、各種セミナーや研修プログラムを実施している。また、地域内のPSCの結果をデーター・ベース化し、各国の担当官がオンラインで監督記録を検索することができる(東京MOUホームページ http://www.tokyo-mou.org)。
■東京MOU自体は、直接的には、マ・シ海峡沿岸国と利用国との間の協力の枠組みではないが、マ・シ海峡の安全確保に大きな貢献をしていることは確かである。
(3)今後の方向性
【東京MOUの強化】
マ・シ海峡を通航する船舶の国籍は様々であり、それら全ての船舶が国際基準に適合する船舶であることをマ・シ海峡沿岸国だけの努力により確保することは困難です。そのような意味で、マ・シ海峡を含むアジア太平洋の海域からサブスタンダード船を撲滅しようとする東京MOUのような地域的な協力の枠組みは非常に有効であると考えられます。今後、現存の東京MOUに基づく地域的な協力の枠組みの強化や、条約監査制度の創設などIMOにおける世界的な取組みが更に強化されることが必要です。
B 物理的航行環境の改善
1. 水路測量
(1)沿岸国の取組み
沿岸国はマ・シ海峡の水路測量を定期的に実施することにより、船舶の安全な航行に影響を与える浅瀬、岩礁、沈船などの航路障害物などを把握し、当該結果を海図、補正海図、航行警報などとして一般周知しています。
⇒沿岸国はマ・シ海峡の水路測量を定期的に実施する
■沿岸国は、船舶の安全な航行に影響を与えるものを水路測量などによって把握する国際法上の義務はない。
■領海内(国際海峡を含む)の水路測量は沿岸国の領域主権に基づき沿岸国水路機関により実施される。外国船舶による領海内の調査活動及び測量活動は沿岸国の平和、秩序又は安全を害するものとされる(considered to be prejudicial to the peace, good order or security of the coastal states)(海洋法条約第19条第2項)。なお、沿岸国は海洋の科学的調査及び水路測量(marine scientific research and hydrographic surveys)について領海における無害通航に係る法令を制定することができる(海洋法条約第21条)。外国船舶による国際海峡たるマ・シ海峡の調査及び測量活動(research and survey activities)は沿岸国の事前の許可(prior authorization)が必要となる(海洋法条約第40条)。
⇒一般周知しています。
■沿岸国は、自国の領海内(国際海峡を含む)における航行上の危険で自国が知っているものを適当に公表する義務がある(領海:海洋法条約第24条第2項、国際海峡:海洋法条約第44条)。また、群島国は、自国の群島水域の群島航路帯について、同様の義務を有する(海洋法条約第54条)。なお、マ・シ海峡は、一般的には沿岸国の内水、領海、群島水域から構成されている。
(2)利用国による協力
これまで、日本による水路測量事業に係る協力は、計2回行われています。第1回目は、1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて日本が海峡沿岸国と共同で実施した一連の水路調査事業であり、精密調査を行う必要のある海域を特定するための予備調査と、これに引き続き第1次〜4次に渡り実施された本調査からなります。この事業の背景となったのは、1967年(昭和42年)、日本がシンガポールとともにマ・シ海峡における航路指定及び関連する措置に係る提案を政府間海事協議機関(IMCO: Inter-governmental Maritime Consultative Organization)第4回航行安全小委員会に行った際、その前提条件として、水路調査などの実施が提示されたことによります。第2回目は、1996年(平成8年)から1998年(平成10年)にかけて日本がODA事業として海峡沿岸国と共同で実施したものです。この背景となったのは、1995年(平成7年)、海峡沿岸3カ国が共同で分離通航方式の改正提案をIMO第41回航行安全小委員会に行った際、その前提条件として、水路再測量などの実施が提示されたことによります。なお、第2回目の共同水路測量の結果は、マ・シ海峡の電子海図(ENC: Electric Navigational Charts)として発刊する、ということになっていますが、手続上の理由により、まだ実現されていません。
⇒電子海図(ENC: Electric Navigational Charts)
■電子海図とは、海図(水深、灯台や航路ブイ等の航路標識、通航路、海底の性質、暗礁の位置などを記した、船舶を安全に運航するために用いられる海の地図)を電子情報化したものであり、通常、船舶に設置された専用のモニターに表示して使用する。電子海図には、紙海図を電子スキャンして比較的容易に作成できるラスター・チャートと、紙海図上の各種情報を数値化して、紙海図以上の情報を持つベクター・チャートに分類される。ベクター・チャートの作成は、非常に高度な技術と相当の手間と経費が必要となる。
(3)今後の方向性
【水路補正測量】
海峡沿岸国の水路機関(インドネシア海軍水路部、マレーシア海軍水路部、シンガポール海事港湾庁水路部)は、既に、要求される精度で測量を実施する技術を保有していると考えられることから、技術支援・移転という観点からの協力は必要ありません。なお、財政支援の一環として現物供与の協力形態(利用国水路当局の人材、資材を使用して測量を実施する)をとる場合には、沿岸国の主権を考慮すると、沿岸国水路当局との共同測量という形態を取らざるを得ません。
【サンド・ウェーブ】
マ・シ海峡の海底地形は、強い潮流によって発生するサンド・ウェーブなどにより変化することがあるので、特に水深が浅く船舶の航行に影響を与える海域においては、定期的な水路測量が必要となってきます。サンド・ウェーブについては、現在、その複雑な形成過程などは明らかになっていません。これを解明することにより、航行安全対策に役立てることが期待できます。このような調査研究に係る協力は高度な科学技術を必要とするものですので、今後、利用国の協力が望まれる分野であると考えられます。
【利用者負担6プロジェクト:分離通航帯の補正測量】
現在、海峡沿岸国が利用国(者)からの任意資金拠出により実施しようと考えている六つのプロジェクト(以下「利用者負担6プロジェクト」という)の一に、マ・シ海峡の分離通航帯の補正測量があります。これは同海峡を通航するVLCCなどの大型船舶の航行の安全性を更に向上させるため、多指向性の水深測量装置を利用し、現行の海図情報の最新化を行なおうとするものです。この補正測量は関係国合同で実施するものであり、実施には2年を必要すると見込まれています。先ほども述べましたが、マ・シ海峡の海底地形は微妙に変化しているため、定期的に海図情報の最新化を図ることが必要となってきます。このような意味で、マ・シ海峡のうち、特に、国際航行船舶が通航する分離通航帯に焦点を絞った補正測量は、たいへん意味があります。なお、この種の補正測量は、海上電子ハイウェー・プロジェクト(MEH: Marine Electronic Highway)でも計画されています。
⇒海上電子ハイウェー・プロジェクト(MEH Project: Marine Electronic Highway Project)
■MEHプロジェクトは、IMO、世界銀行などの協力を得て、海峡沿岸3カ国が中心となって推進してきたものであり、現段階においては、マ・シ海峡の海洋汚染の防止、海洋環境管理、航行安全強化を目的とした統合情報システムを構築し、気象・海象に関する情報、航行警報、AIS情報などをリアルタイムで船舶に提供しようとするものである。船舶では、これらの情報を電子海図表示装置に表示し活用することができる。詳細については、今井義久、松沢考俊「海洋電子ハイウェイ(MEH)に関する調査」『国際海峡利用国と沿岸国の協力体制』〔シップ・アンド・オーシャン財団海洋政策研究所〕(平成16年3月)参照。なお、現在このシステムをセキュリティー分野に応用できないかを模索する動きがIMOにあるようである。
■MEHプロジェクトは、資金提供側(現物供与を含む)が世界銀行やインタータンコといった組織・団体であることから、マレーシア海事局では、MEHプロジェクトが沿岸国と利用国との協力制度のモデル・ケースになり得ると考えている。
|