III-1 西欧諸国の発展と衰退
西暦年 |
ポルトガル |
スペイン |
オランダ |
英国 |
15世紀
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1492年
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イベリア半島南部からイスラム勢力を一掃しレコンキスタの完遂
コロンブス新大陸発見 |
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1498年
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ガマ・カリカット到達 |
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16世紀
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1511年
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マラッカ占領 |
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1519年
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マゼラン世界一周(1522) |
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1565年
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フィリピンへの侵略開始 |
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1568年
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80年戦争(スペインからのオランダ独立戦争)の勃発
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1571年
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マニラ市の建設開始、以後、1898年まで支配 |
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1577年
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ドレイク世界一周(1580) |
1588年
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スペイン無敵艦隊と英国艦隊との海戦によりスペインが敗北、スペインの制海権が失墜し、オランダが事実上独立 |
1596年
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ハウトマン・ジャワ島到達 |
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17世紀
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1600初
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西欧列強諸国による東インド会社の設立 |
1619年
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ジャワ島バタビア市建設開始 |
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1623年
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アンボン事件(オランダ商館による英国商館襲撃事件、英国がインドネシア東部における勢力拡大をあきらめ、インド各地の貿易に専念するきっかけとなる) |
1641年
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オランダの攻撃によりマラッカ降伏
ポルトガルの失墜 |
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マラッカ占領 |
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1648年
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80年戦争の終了、オランダの正式独立 |
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1652年 〜 1674年
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英国の航海法(オランダの仲介貿易圧迫、自国海運保護を目的とし、輸入商品は英国船又は産出国船のみに積載すべきことを規定した法律)が原因で、同国とオランダとの間に3次(1652〜54, 65〜67, 72〜74)にわたって戦争が行なわれた、英国の海上支配の確立とオランダの衰退を招来 |
1667年
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ボンガヤ協定によるセレベス島の獲得(マカッサル占領) |
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18世紀
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1757年
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プラッシーの戦いで英国が勝利、フランス、オランダがインドから撤退(フランスはインドシナに、オランダはインドネシアに重心を移動) |
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1760年 頃
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産業革命(安価な綿製品が英国からインドへ流入) |
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1784年
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茶の関税引き下げ(100%%ら12.5%へ)による大衆化、中国貿易の強化 |
1786年
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ペナン占領 |
1793年
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1795年
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英国マラッカ一時占領
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1798年
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オランダ東インド会社解散 |
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19世紀
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1811年
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英国による仏領インドネシアの一時占領(1816)
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1813年
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ナポレオン帝国の崩壊によるオランダの復活 |
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1818年
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マラッカ、オランダへ返還 |
1819年
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英東インド会社のラッフルズ・シンガポール上陸 |
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マラッカのサンチャゴ砦
マラッカのセント・ジョーンズ要塞
注:1511年にポルトガルはマラッカを占領したが、その後、オランダとの戦いに備え、サンチャゴ砦(写真上)を建設した。1641年、オランダはマラッカをポルトガル奪うが、アチェ(インドネシア・スマトラ島北部)及びブギス(インドネシア・スラウェシ島南部)からの侵攻に備え、1760年、マラッカにセント・ジョーンズ要塞(写真下)を建設した。
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C 英国海峡植民地時代以降
1. 英国の躍進
中国貿易の強化を図りたい英国東インド会社は、その足がかりとなるペナンを1786年に、また、1795年には、オランダ本国の混乱に乗じてマラッカを獲得(1818年、オランダに返還)しました。しかし、これらの場所は、英国東インド会社が理想としていた貿易中継地ではなかったため、新たな拠点を探す必要がありました。1819年、英国東インド会社のスタンフォード・ラッフルズ卿(Sr. Stamford Raffles)がシンガポールに上陸し、シンガポールに東インド会社の商館を建設することなどについて、その土地を支配するジョホールのサルタンと協定を結びました。オランダは、英国のシンガポール獲得について異議を唱えましたが、1824年の英蘭協約によって両国の植民地の勢力範囲が確定されました。
⇒中国貿易
■当時の中国貿易は朝貢貿易と呼ばれ、中国から輸出するものは、皇帝の特別の恩恵で外国に分け与えるものであり、その代金は、献上金という位置づけがされていた。
⇒1824年の英蘭協約
■「オランダはインドおよびマレー半島にあった商館、領土等を放棄し、一方、イギリスはスマトラ島にあった領土、商館等を放棄し、ほぼマラッカ海峡を境界線とする両国の勢力範囲を定めた。これにより、イギリス領インド、イギリス領マラヤ、オランダ領東インドといった植民地体制の確立が可能になった。」(『東南アジアを知る辞典』石井米雄他 監修 45-46頁)
マレーシア・ペナンのジョージ・タウンにあるコーンウォリス要塞と要塞内の武器庫
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英国はその後、マ・シ海峡に支配を及ぼすことになるわけですが、1837年にはビクトリア女王が即位し、いわゆるビクトリア時代という黄金期を迎えました。この頃、産業革命により、英国、インド、中国との間の貿易に不均衡が生じ、それを解消するため、インドで生産した阿片がマ・シ海峡経由で多量に中国に輸出されていました。この結果、英国と中国との間で1840-42年の阿片戦争が起こるわけですが、阿片戦争に勝利した英国は、引き続き、中国やインドの植民地支配を強化していきました。シンガポールは、商品作物の生産には成功せず、専ら、立地条件と自由港という利点に助けられ、国際貿易港として重要な役割を果たすことになります。シンガポールは、その後も、海峡の要衝として発展し、現在では、世界第2位のコンテナ取扱量を誇るコンテナ・ハブ港として発展を続けています。
⇒産業革命により、英国、インド、中国との間の貿易に不均衡が生じ
■産業革命以前、英国は中国から茶や陶磁器などを輸入、その代価を銀で支払っていたため多量の銀が英国から流出していた(中国は英国の物産品に興味を示さなかった)。一方、英国はインドからは綿製品を輸入していた。産業革命以後、機械で生産した安価の綿製品が逆にインドに輸出されるようになると、インドの綿産業が大打撃を被り、英国インド間の貿易に不均衡が生じた。中国への銀の流出とインド貿易との不均衡を解消するために英国が考え出したのが、インドで生産した阿片を中国へ輸出することである。これにより、この三者間の三角貿易構造(英国(綿製品)⇒インド(阿片)⇒中国(茶、陶磁器)⇒英国)が成立した。
⇒インドの植民地支配を強化
■インドでは、1857年、東インド会社に雇われていたインド人兵士(セポイ)が反乱を起こしたが失敗に終わり、その翌年の1858年、ムガル帝国の皇帝が英国により退位させられ滅亡した。これを契機に、英国は、植民地支配を東インド会社に任せておくことは危険と考え、1877年、英国国王によるインド直接統治が開始された。
2. 西欧諸国―地中海―スエズ運河―インド洋―マ・シ海峡―アジア諸国ルートの完成
西欧とアジアを結ぶ最初の海上ルートは、アフリカ大陸南端の喜望峰周りの航路でしたが、19世紀には、エジプトのスエズを経由したルートも使用されはじめました。この頃には、既にエジプトがオスマン・トルコ帝国から独立をしており(1811年)、スエズ地域は同帝国の影響下から外れていました。最終的には、スエズ運河の開通を待たなければなりませんが、それ以前に、英国はスエズとアレクサンドリアを結ぶ鉄道を完成させており、この地峡間を鉄道輸送することを考えていました。スエズ運河は、フランスのレセップスにより、1859年に工事が開始され、10年間にわたる難工事の後、明治元年の翌年、1869年に完成しました。これにより、西欧とアジアの距離が格段に短くなりなり、西欧諸国―地中海―スエズ運河―インド洋―マ・シ海峡―アジア諸国という海上交通路が完成し現在に至っています。
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