第III章 マラッカ・シンガポール海峡の歴史
マ・シ海峡の歴史はまさに交易とそれをめぐる利害対立の歴史でした。交易活動により利益を得る者は、海峡沿岸国商人であったり、また西欧の貿易会社など外からこの地域にやってきた者でした。これら交易活動の関係者(国)の中には、時がたつにつれ衰退するものもあれば、その衰退に乗じて発展するものもあり、様々な対立や変遷を経て現在に至っています。しかし、その中でも決して変らない事実は、マ・シ海峡は海上交易活動の中心的役割を担い、絶えず利益を生み続けてきた、ということです。この章では、そのようなマ・シ海峡の歴史について概観します。
A アジア交易圏の形成
1. シュリヴィジャヤ王国
インドネシア・ジャワ島中部ジョグジャカルタ郊外にあるボロブドール(Borobudur)遺跡は、世界最古で最大といわれる大乗仏教寺院ですが、8〜9世紀にかけて中部ジャワで栄えた仏教王国シャイレンドラの歴代の王たちによって建てられたとされています。9世紀半ば、この国の王家の一員であるバーラプトラ王子は政争に敗れ、母の生国シュリヴィジャヤに亡命しこの国を統治することになります。この国の首都は、現在のスマトラ島のパレンバン(Palembang)であり、その後、同国はスンダ海峡西岸のスマトラ島、また、マラッカ海峡を挟んだマレー半島西岸に勢力を及ぼし、南シナ海を中心として栄えた南海貿易路の要衝を押さえていたことから港湾国家として栄えました。この頃、南海貿易には中国人も盛んに参加するようになっており、中国の古文書の中には、この王国に関し「東はジャワ、西はアラブ諸国やインド南部などの各地から来る船で、この国を経由しないものはない」と記述されています。一方、アラブ諸国からの交易船は、マ・シ海峡やスンダ海峡を通ってこの地に渡来したようです。
⇒南海貿易
■「中国と東南アジア、南アジアとの間の海上貿易。通常、17世紀以前の時期について用いる。中国と東南アジア、南アジアとの間の海上貿易は前2世紀ころから始まったものと見られる。」(『東南アジアを知る辞典』石井米雄他 監修 210頁)。
2. 海のシルクロード
中央アジアを横断する東西陸上交通路である絹の道、シルクロードは、古代中国の特産品であった絹を西アジアを経てヨーロッパや北アフリカへもたらしました。また、東方見聞録で有名なイタリアの商人マルコポーロ(Marco Polo)は1270年末、この道を通って中国の元朝フビライに拝謁しています。一方で、マ・シ海峡は海のシルクロードに喩えられるように、古くからインド洋と南シナ海とを結ぶ海上交易路としての役割を担っていました。先に述べたマルコポーロも、1292年、中国の泉州を出発、マ・シ海峡を通り、スマトラ島北部のペルラクという地に約5ヶ月間滞在した後、1295年イタリアに帰国しています。
3. マレー人にとってのマ・シ海峡
それでは、マレー半島の住民にとってのマ・シ海峡とはどのようなものだったのでしょうか。「マレー半島においては、村や国は海や河との関係を無視しては存在し得ない。半島を覆う深いジャングルは通過することのできない壁である。村や国は海岸に沿って、河に沿って、そしてその多くは河の合流点や河口に発達した。海や河は他の世界へ通じる唯一の道であった。」(中原道子「歴史的背景」『もっと知りたいマレーシア』綾部恒雄 他編 3頁)とあるように、マ・シ海峡はそこに住む住民の日常生活においても、非常に重要な役割を担っていたことが伺えます。
4. マラッカ王国
マラッカ王国は、スマトラのパレンバンの貴族、パラメスワラがマジャパイト王国に反乱を企てて失敗した後、シンガポールなどを経て、マラッカの地へと逃れ、1400年頃、その地で建設をした王国とされています。マラッカの港は、当時、東南アジアにおいて最も繁栄を極めた貿易港ですが、その理由とされているのが、自然の良港であったこと、豊富な商品が集まったこと、マラッカの王(初代の王であるパラメスワラの息子のムガット・イスカンダル・シャー)がイスラムに改宗し、ペルシャ、アラブ、インドのイスラム商人が来訪しやすくなったこと、中継貿易港としての機能がかなり完備されていたこと、と考えられています(中原道子「歴史的背景」『もっと知りたいマレーシア』綾部恒雄 他編 4-5頁)。もちろん、マラッカの港がマ・シ海峡に位置していた、ということは、同港が貿易港として栄えた理由として決して見過ごすことができない重要な要素です。
⇒マジャパイト王国
■1293年から1520年頃まで、ジャワ島東部を中心として栄えたインドネシア史上屈指の大国である(『東南アジアを知る辞典』石井米雄他 監修 210頁)。
一方で、この頃、中国明朝(永楽帝)の南海諸国に対する外交政策は、「鄭和の西征」にも反映されており、1405〜1433年の間に7回、60隻以上の船舶に2万数千人を乗せた大艦隊を、マ・シ海峡経由でインド洋、遠くはアフリカ東岸にまで派遣し、通商貿易に貢献しています。この後、東南アジアの各地にたくさんの華僑が移住し現在の華僑社会の基礎が築かれました。マカッラ王国が成立する1400年頃以降、この地域ではインドからの綿織物、中国からの陶磁器や絹織物、マルク諸島の香料などが取引されるようになっていました。この頃、海上交易に使用されていた船は、100トン程度のジャンクと呼ばれる小型船が主流であり、モンスーンを利用した島伝いの沿岸航法を採っていました。マラッカに出入りしていた船の数は、毎年、大船約100隻、小船約30〜40隻といわれています。
現在、シンガポールの最高裁判所前の広場において発掘調査が行われていますが、中国の宋や元の時代の陶器の破片や、宋時代の貨幣(宋銭)が大量に発掘されています。14世紀ごろに、シンガポール川周辺に繁栄したマレーの王朝があり、中国などと活発な貿易活動を行っていたことを裏付けるものとされています。
以上のように、ポルトガル、スペインを始めとする西欧列強諸国が東南アジアに到達するはるか以前にも、アジア圏内には、既にインド洋及び南シナ海を中心とする海上貿易による商業圏が形成されており、活発な交易活動が行われていましたが、マ・シ海峡はその当時より、海上交易路として、重要な役割を果たしていたことが伺えます。
マラッカ王朝の王宮(再現)(マラッカ)
B 西欧列強諸国の到来
1. ポルトガルの進出
1511年8月、ポルトガルの艦隊が、既に東南アジアの海上貿易のハブとしてその地位を確立していたマラッカを占領しました。ポルトガルの東方進出は、1498年、バスコダ・ガマ(Vasco da Gama)がアフリカ南端の喜望峰経由でインドのカリカットに到達して以降、急速に進展しました。それまで、ヨーロッパに入る香料はアラブ商人により中東を経由して輸送されていましたが、オスマン・トルコ帝国の成立以降、それまでの交易ルートが同国を通っていることから供給不安定となり、西欧列強諸国は独自の交易ルートの開発を模索していたところでした。ポルトガルのマラッカ占領の目的は、マラッカによる貿易の独占にあったされています。「彼らがより多くの船をマラッカに引きつけるためにとった手段は、「通過システム」というもので、海峡を通過するすべての船を強制的にマラッカに寄港させる、というものであった。マラッカに寄港した船は6%から10%の関税や通行料を、・・・要求された。」(中原道子「歴史的背景」『もっと知りたいマレーシア』綾部恒雄 他編 8頁) 以上のようなポルトガルによるマラッカの支配は、1641年、マラッカに対するオランダの攻撃によりポルトガルが降伏するまで続きました。
⇒ポルトガルの東方進出
■海路による東方進出に必要不可欠な造船技術、航海術などについては、「航海王子エンリケが風や潮流の研究、地図の作成、造船技術などに関する研究に力をそそいで以来、その進んだ造船技術、王家の後援などはポルトガルをその時代のヨーロッパにおける航海先進国にしていたのである。」(中原道子「歴史的背景」『もっと知りたいマレーシア』綾部恒雄 他編 7頁)とされる。
⇒オスマン・トルコ帝国
■西欧諸国が海路によるアジア地域との交易ルートを開拓しようとした理由の一つが、西洋と東洋とをつなぐ戦略的地域を400年以上にわたり支配し続けたオスマン・トルコ帝国の存在である。同国は、オスマン一世が東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の衰微に乗じてアナトリア西部に建設したイスラム国家である。1453年コンスタンチノープルを攻略し、ビザンチン帝国を滅ぼす。その後、16世紀に全盛を誇り、17世紀末から衰退に向かう。1811年にエジプトが分離し、1829年にはギリシャが分離した。1853年のクリミア戦争においては、ロシアが地中海に勢力を伸ばすことをおそれた英国、フランスの援助によりロシアに勝利したが、1877-78年のロシア・トルコ戦争ではロシアに敗北しベルリン条約によりルーマニア、モンテネグロ、セルビアが独立、ブルガリアが自治領となった。その後、第一次世界大戦で敗れた後、トルコ革命(ケマル・パシャの指導の下、オスマン朝を倒し、1923年、トルコ共和国を建てた革命。イスラム圏で最初の政教分離国家が成立した。)によって滅亡した。
ポルトガル以外の西欧列強諸国も、16世紀には、マルク諸島のクローブ、ナツメッグや胡椒等の香料を求めて相次いで東南アジアに到達しました。スペインは1519年、マゼラン(Magellan)の率いる5隻の艦隊がセビリヤを出発、南米大陸先端のマゼラン海峡を発見し、艦隊の一部はマルク諸島に到達するなどして1522年、西回りの世界一周航海を終え帰還しています(マゼラン自身は1521年、フィリピンのマクタン島において不慮の死を遂げる)。イギリスは、1577年、新大陸のスペイン植民地での海賊行為で有名なフランシス・ドレイク(Francis Drake)が西回りの世界一周航海をしており、その途中、マルク諸島にも寄港しています。オランダは、1596年、コルネリス・ド・ハウトマン率いる4隻の艦隊がアフリカ喜望峰、インド洋、スンダ海峡を経由してジャワ島の港に達しました。
2. 西欧列強諸国の発展と衰退
東南アジアにおける西欧列強諸国の力関係は、様々な事件を契機に発展、衰退を繰り返していくことになりますが、その中にあって大きな影響力を持ったのが東インド会社(East India Company)でした。東インド会社設立の目的は、南アジア、東南アジアから綿織物、香料など、地域の物産品を輸入することでしたが、商船や商館を守る軍事的権利、外国との条約や同盟を結ぶ権利などを持っており、植民地経営の主体となっていきました。また、灯台の建設など貿易船の航行安全を確保する取組みも行っていました。東インド会社の貿易活動が活発になる中でマ・シ海峡の重要性はますます大きくなっていきました。
⇒東インド会社(East India Company)
■1600年 英国東インド会社の設立
1602年 オランダ東インド会社の設立
1604年 フランス東インド会社の設立
⇒灯台の建設など貿易船の航行安全を確保する取組み
■マラッカ・シンガポール海峡に最初に設置された灯台は、ホースバーグ灯台である。これはシンガポール(セントーサ島)の東約35海里にあり、1851年に完成した西洋式灯台である。ホースバーグという名称は、英国東インド会社の水路技師であったジェイムス・ホースバーグ氏を偲んで付けられたとされている。このホースバーグ灯台の次に建設されたものが、シンガポール(セントーサ島)の南西約7海里にあり、1854年に完成したラッフルズ灯台(Raffles Lighthouse)である。シンガポールは、1819年に英国東インド会社のスタンフォード・ラッフルズ卿(Sir, Stamford Raffles, 1781-1826)が上陸して以来、今日まで、貿易の中継地点、船舶交通の要衝として発展し今日に至っている。この灯台は、このラッフルズ卿の名前にちなんで命名されている。ラッフルズ灯台の接客室(Visitor's room)の壁にはプラークが掲げられており、ここには、「この灯台は、1854年、名誉ある東インド会社により建てられ、シンガポールの設立者であるスタンフォード・ラッフルズ卿に捧げられる、この居留地は、現在の自由港としての、また、インド洋における、他に比肩するものがない交易の中心地としての地位について、氏の自由かつ包括的な政策に感謝する」とある。
The Raffles Lighthouse, Erected in the year of our Lord, 1854, by the Honourable East India Company and dedicated to the memory of SIR STAMFORD RAFFLES, The founder of Singapore, To whose liberal and comprehensive policy, This Settlement is indebted for its free port, And the unrivalled position it now holds, As an emporium, In the Indian Seas.
■ジェイムス・ホースバーグ氏(Capt. James Horsburgh, 1762-1836)は、1762年に英国のスコットランドで生まれた。当初、彼は、船乗りとしての人生を過ごしたが、1786年、海図が不正確であったことから、一等航海士として乗組む船がインド洋のディエゴ・ガルシア島(インド洋の英領チャゴス諸島の一部であるが、米国が英国から借り受け軍事基地を建設している)で座礁した。その後、その時の経験から、インドと中国とを結ぶ貿易船に乗船するかたわら、水路関連の情報を収集した。1810年、英国東インド会社の水路技師として任命され、1836年5月14に死亡するまで、水路技師として活躍した。
ホースバーグ氏の死後、1836年11月22日、貿易船の船長や乗組員、貿易商人などが広東のMarwick's Hotelに集まり会合を開いた。この会合の議長を務めたのが阿片貿易で悪名高いジャーディン・マトソン社のウイリアム・ジャーディン(Willian Jardine)氏であった。会合の目的は、ホースバーグ氏の功績を後世に残す最も適切かつ現実的な方法を検討することであり、最終的に、航海の危険地帯であるペドラ・ブランカ島(Pedra Branca)に灯台を設置するための基金を設置することが決定された。ジャーディン氏は自らも500スペイン・ドルを寄付している。1847年、この基金への寄付が閉められるまで、合計7,411スペイン・ドルが集まっている。なお、灯台の建設は1849年に開始され、わずか2年後の1851年に完成している(John Hall-Jones, The Horsburgh Lighthouse)。
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