日本財団 図書館


第2編 マラッカ・シンガポール海峡利用国負担問題
第I章 調査研究の趣旨
 マラッカ・シンガポール海峡(マ・シ海峡)は、古来より、様々な活動に利用されてきました。マ・シ海峡の沿岸地域には紀元前より人々が居住し、漁獲活動の場や地域内の海上交通路として、同海峡は重要な役割を担っていたと考えられます。15世紀から17世紀前半にかけての大航海時代には、西欧の貿易船が頻繁に往来し、インド洋と南シナ海を結ぶ東西の交易ルートとして、その重要性が格段に増加しました。現在においても、マ・シ海峡においては、多種多様な経済活動が営まれており、その中でも、海上輸送活動については今後更に活発化するものと考えられ、マ・シ海峡の海上交通の大動脈としての機能は、更に重要性を増しています。
 
 マ・シ海峡の海上交通路としての機能を維持・発展させるため、同海峡の沿岸国であるインドネシア、マレーシア及びシンガポールは、これまで、様々な対策を講じてきました。また、マ・シ海峡の主要な利用国である日本も、過去30年以上にわたり、日本財団などの財政的支援により、マラッカ海峡協議会が航路標識の設置及びその後の維持・管理をはじめとする様々な取り組みを行っています。
 
 マ・シ海峡においてこれまで講じられてきた対策は、主として、海上交通安全および船舶起因の海洋汚染に係るものが中心でした。しかし、最近においては、海賊や船舶に対する武装強盗問題、2001年9月の米国同時多発テロ事件を契機とした海上テロの脅威、また、スマトラ島ナングロアチェ州やタイ南部における政治的不安定要因も大きな懸念材料となっています。また、世界的に見ても、国際海事機関(IMO)でのSOLAS条約の改正、ISPSコードの制定など、海上セキュリティーに関する新しい動きが始まっています。更に、コンテナ・セキュリティー・イニシアチブ(CSI)、地域海上セキュリティー・イニシアチブ(RMSI)、大量破壊兵器拡散防止イニシアチブ(PSI)といった米国主導のセキュリティー対策も出現し始めています。
 
 以上のような最近の動向が意図するところは、国際的協力の枠組みによる海上輸送活動に対するトータル・セキュリティーの確保という考え方です。つまり、海上輸送活動を構成する各要素(港、船舶、貨物、海上輸送路など)を様々な脅威から保護するため、空白地帯が生じないよう国際的連携・協力を強化するというものです。このため、その主体である、港湾管理者、航路管理者、船主、船舶乗組員、荷主、税関職員、船舶検査官、海上法令執行機関などが国の枠を越えて連携協力していくことが今求められています。
 
 このような情勢の中、マ・シ海峡においては、海峡沿岸国と海峡利用国とが協力をして同海峡の海上交通路としての機能維持・発展を図る動きが加速化する動きが見られます。これまで、日本は、唯一の支援利用国として、過去30年以上にわたり、様々な支援策を講じてきていることは前にも述べましたが、最近、経済発展の著しい中国がにわかにマ・シ海峡に目を向け始め、セキュリティーを中心とした各分野において協力の用意がある旨表明しています。また、韓国についても、海洋警察庁がマレーシア海上警察に接近を図っています。米国についても特にセキュリティーの関係で海峡沿岸国に接近を図り、様々な提案を行っています。更に、国際的にもIMOにおいては、マ・シ海峡のような戦略的に重要であるシーレーンを海上テロなどの脅威からどのように保護していくべきか、という議論が始まりつつあります。
 
 以上のように、マ・シ海峡を巡る情勢は、新たなセキュリティーに係る脅威を起爆剤として、また、これまでの海上交通安全や海洋汚染防止に係る問題をも含めたかたちで、海峡沿岸国のみならず、複数の海峡利用国を巻き込んで、ここ2、3年の間に劇的に変化する可能性が出てきています。今、重要なのは、マ・シ海峡にエネルギー輸送の大部分を依存する日本が、このような変化にどのように対応していくべきか、どのような役割を担っていくべきか、ということを再度、検討してみることです。
 
 この調査研究においては、マ・シ海峡の海上交通の大動脈としての機能を持続的に維持・発展させるという共通の目標のもとに、海上交通安全、海洋汚染防止、海上セキュリティーの各分野において、海峡沿岸国と日本、中国、韓国、米国などの主要な海峡利用国とが、どのように協力を進めていくべきか、ということについて焦点をあて、そのための制度構築に向けた方向性について、何らかの示唆ができればと考えるところです。ここでは、ある特定の結論を導き出す、ということではなく、読者の方々にマ・シ海峡に関する知識をより一層深めていただくとともに、様々な場において、様々な者により為された提案等を可能な限り網羅することにより、より広範な選択肢を読者の方々に提供することを意図しています。これにより、マ・シ海峡の国際協力に係る議論が、様々な関係者の中でより一層促進されることを希望するところです。なお、この調査研究において示された見解、意見等は、あくまでも当事務所の責任によるものですので予めご承知おき願います。
 
第II章 マラッカ・シンガポール海峡の概要
 いわゆるマ・シ海峡問題について考える場合、マ・シ海峡とはどのような海峡であるのか、を把握しておくことはとても大切なことです。この章では、特に、船舶の航行環境という観点からみた場合に問題とされる特徴としてどのようなものがあるのか、について焦点を絞り、マ・シ海峡の地理・地形的な特徴や気象・海象上の特徴、マ・シ海峡における経済活動や船舶に関連する犯罪などの治安状況、マ・シ海峡を構成する各水域の国際法上の法的地位などについて順に概観していくことにします。
 
A 地理・地形的な特徴
 
1. マラッカ・シンガポール海峡の位置
 
 マ・シ海峡はマレー半島南西岸とインドネシアのスマトラ島北東岸との間に位置する狭隘な海峡であり、マラッカ海峡とシンガポール海峡の両者を総称して、「マラッカ・シンガポール海峡(the Straits of Malacca and Singapore)」と呼ばれています(図II-1参照)。一般的にマ・シ海峡と言う場合、両海峡の境界線は、概ね、マレー半島南西端と対岸にあるインドネシアのカリムン島(Pu. Karimum Kecil)とを結ぶ線であり、当該線より西側はマラッカ海峡(the Strait of Malacca)、東側はシンガポール海峡(the Strait of Singapore)と呼ばれています。マラッカ海峡の西端は、同海峡に設置されている分離通航帯の西端であるワン・ファザム・バンク灯台(One Fathom Bank Lighthouse)付近、また、シンガポール海峡の東端は、同海峡に同様に設置されている分離通航帯の東端であるホースバーグ灯台(Horsburgh Lighthouse)付近と認識することが一般的となっています。
 
マラッカ海峡(the Strait of Malacca)
■マラッカ海峡を、次のとおり定義するものもある(図II-1参照)。
 Malacca Straits is defined as the area lying between the W coasts of Thailand and Malaysia on the NE, and the coast of Sumatera on the SW between the following limits:
On the NW:
 A line from Ujung Baka (Pedropunt), the NW extremity of Sumatera, to: Laem Phra Chao, the S extremity of Ko Phukit, Thailand.
On the SE:
 A line from Tanjung Piai, the S extremity of Malaysia, to: Pulau Iyu Kecil, thence to: Pulau Karimum Kecil, thence to: Tanjung Kedabu.
出展:Admiralty Sailing Directions, Malacca Strait and West Coast of Sumatera Pilot, 7th Edition 2003, Hydrographic Department, Ministry of Defense (Navy)
 
■上記英国国防省水路部の定義は、水路測量を行うに際し便宜上定められたものと考えられる。マラッカ海峡をどのように定義するかについては、個々の必要性により異なってくるものであり、あえて統一された定義を使用する必要はないと考えられる。なお、上記英国国防省の定義を使用する場合、マラッカ海峡の水域には公海部分がかなり含まれるとともに、同海峡の沿岸国にはタイも含まれることとなる。
 
■「財団法人マラッカ海峡協議会」という団体の名称に見られるように、マラッカ海峡が便宜的にマ・シ海峡全般を指す場合がある。
 
シンガポール海峡(the Strait of Singapore)
■シンガポール海峡を、次のとおり定義するものもある(図II-1参照)。
 Singapore Straits is defined as the area lying between the S coasts of Malaysia and Singapore Island on the N and the islands off the coast of Sumatera on the S, between the following limits:
On the W:
 The SE limit of Malacca Strait
On the E:
 A line joining Tanjung Penyusop (Datok), the SE extremity of Malaysia, to: Horsburgh Lighthouse, thence to: Pulau Koko lying off the NE etremity of Pulau Bintan.
出展:Admiralty Sailing Directions, Malacca Strait and West Coast of Sumatera Pilot, 7th Edition 2003, Hydrographic Department, Ministry of Defense (Navy)
 
II-1 マ・シ海峡の地理的範囲
 
 マ・シ海峡の地理的範囲が問題となるのは、おおむね次の事項に関してですが、詳細については、「第VIII章 海洋法条約第43条」において検討します。
■海峡沿岸国の特定
■海洋法条約第43条a項に基づく協力事項を実施する場合の地理的範囲
■海峡沿岸国管轄権の及ぶ範囲、海峡航行船舶が行使する通航権の明確化(国際法上の法的地位との関連)
 
2. マ・シ海峡の幅
 
 マ・シ海峡の一般的長さは約500kmです。最も狭い所は、マラッカ海峡については、インドネシア・ルパット島(Pu. Rupat)北端のメダン岬(Tg. Medang)とマレーシア・トゥアン岬(Tg.Tuan)との間であり、海峡幅は約37kmです。シンガポール海峡については、サキジャン・ペラパ島(Pu. Sakijang Pelepah)とバツ・ベルハンティ岩(Batu Berhanti)との間であり、海峡幅は約4.6kmです(図II-2参照)
 
II-2 シンガポール海峡の最狭部
注:水深14.3mのバツ・ベルハンティの浅瀬には、灯浮標(ブイ)1基がマラッカ海峡協議会により設置されているが、通航船舶との接触により破損する事故が頻発している。このバツ・ベルハンティの浅瀬周辺は急激に水深が深くなっており、接触によりブイの設置位置が、水深が深い場所(錘とブイをつなぐ鎖の長さ以上の水深がある位置)にずれた場合、このブイの浮力は錘の重量より大きいため、錘を海中に釣ったままブイが漂流することになる。このため、インドネシア海運総局では、マラッカ海峡協議会の支援のもと、このブイにAIS発信機を取り付け、常時、ブイの所在位置、灯火の状態等を監視している。
 
海峡幅は約4.6kmです。
■この4.6kmが広いか狭いか、という問題であるが、まず、4.6kmの幅のうち、海峡に設置されている分離通航帯の幅(西航、東航の両航路及び分離帯を含む)は約2,200mである(図II-2参照)。東航航路には、通常の航路に加え、深喫水船(喫水15m以上の船舶)又はVLCC: Very Large Crude Carrier(積貨重量トン15万トン以上の原油タンカー)が通航を義務付けられる深喫水航路が設置されているが、この深喫水航路の航路幅は約840mである。しかし、この深喫水航路の中にも、水深が21m程度しかない浅瀬があり、30万積貨重量トン級のマラッカ・マックス型の原油タンカーにもなると、高潮時の限られた時間帯に、かつ、そのような浅瀬を避け、幅約400mの中央分離帯付近を航行する必要がある。中央分離帯付近を東航するということは、西航航路を航行中の船舶と正面衝突する可能性が高くなる、ということである。実際に、当該深喫水航路を東航中のVLCCと西航航路航行中の船舶による衝突事故も発生している。マ・シ海峡が、特に大型船舶にとっての航海の難所と言われる所以である。
 
 シンガポール海峡はマラッカ海峡に比べ海峡幅が格段に狭くなっています。また、同海峡の西側に位置するフィリップス水道には、比較的水深の浅い海域や浅瀬が広がっています。このような狭い海峡に、世界第二位のコンテナ取扱量を誇る大規模港湾施設であるシンガポール港があり、その背後には、人口400万人の大都市シンガポールの商業地区が広がっています。同港の港域がシンガポール海峡の分離通航帯境界線ぎりぎりまで拡大していることや(図II-2参照)、夜間の都市照明などが海峡通航船舶の安全な航行に与える影響を軽視することはできません。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION