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出会いの中から得た「心地よさ」と「確信」
遠藤 雅幸(国際医療福祉大学保健学部看護学科3年)
 
 この国際保健協力フィールドワークフェローシップに参加し、確かに言えるようになったことが一つある。それは、「私は国際保健協力に関わる事が好きである」ということである。これまでの私は国際保健協力に関する学びや、体験を数多く重ねてきてはいたが、国際保健協力に関わる事が好きかと尋ねられても自信を持って「好きである」とは言えなかった。というのも、時として開発途上国にとって「毒」となり得る国際保健・国際協力のあり方に疑問を抱き、その複雑さに埋没してしまっていたからである。
 この国際保健協力フィールドワークフェローシップでは多くの魅力的な先生方との出会いがあった。先生方は自らの仕事、そして、生き方に強い自信と可能性を見出していらした。その確固たる自信から放たれる強い光は国際保健・国際協力のジレンマの中で影を落としていた私の国際保健協力に対する気持ちまでを明るく照らしてくれた。そして、そもそも私が国際保健協力にどうして目を向けだしたのかその出発点を思い出させてくれた。
 
 なぜ、私が国際保健協力に関わろうとするのか。その出発点は3年前にあった。
 大学受験を控えた3年前、2001年9月11日、米国で同時多発テロが発生した。黒煙を上げ崩壊する世界貿易センタービルの姿は、グローバリズムと共にこれからの21世紀を生き抜かなければならない私にとって余りにも衝撃的なものであった。自らの社会的役割を決定していく渦中にあった当時の私は、世界の社会構造について多くのことを考えさせられた。
 多くの日本人は「世界の中には貧しい人もいるのです」という表現を使う。あたかも自分達、先進諸国の人間が世界の多数派であり、国際社会の中で肯定されるべき豊かな生活を営んでいるかのような表現である。正確には「世界の中には富を独占している人もいるのです」なのではなかろうか。私たち日本人のような生活をしている人間は国際社会の中では圧倒的に少数派であり、決して肯定され得るものではないということを実感している日本人はいったいどのくらい存在するのであろうか。世界総人口の約80%を占める開発途上国に生きる人々は、世界総人口の僅か20%しか占めていない先進諸国の人間に資源やエネルギー、労働力や金、食料など地球上で生産され得るあらゆる富の80%を独占されているという現実がある。開発途上国の富までを搾取した末に、生活習慣病という「奇病」を蔓延させる先進諸国の「豊かな生活」は、開発途上国の人々の感染症、栄養失調という「予防可能な病」が蔓延する「飢餓と貧困に満ちた生活」の上に成り立っているという現実を多くの日本人は実感できないのではなかろうか。確かに、2001年9月11日を迎える以前は、私もそのような多くの日本人と同様、その感覚を実感できない日本人のうちの1人であった。
 米国同時多発テロをきっかけにこれらの現実と向き合わされた私は、これら社会的不公正がまかり通る国際社会にあってこそ、「持たざる者」が「持ち過ぎている者」に対し、怒りと権利奪回の闘争を表したひとつの形が米国同時多発テロであるかのようにあの頃の私の目には映った。〔今から考えると、イスラム原理主義の特殊性などを考慮すると、必ずしも米国同時多発テロが貧困と不正義に対する怒りの闘争であったとは言い難いが、少なからず貧困、国際社会の不公正はテロ(暴力)の温床になり得ると今も考えている〕グローバリズム、市場経済の恩恵を受けずにいる大多数の人間を、これまで無視し続けてきた「つけ」が悲惨な同時多発テロという形で返ってきたかと思うと言い知れぬ恐怖を覚えたのを今でも鮮明に覚えている。
 ではそこで私に何が出来るのか、当時の私は未熟ながらも必死で考えてはみたが、その答えを見出せなかった。東西冷戦構造の崩壊に伴い地球規模化した市場経済の拡大は、市場の力が人間のニーズよりも優先され、国際社会の中で圧倒的な支配力を持っていた。貨幣価値が人間の価値よりも優先されるかのような国際経済の構造に、私は絶望にも近い無力感を感じてしまっていたのである。しかし、その一方で世界に拡大する「不公正な富の分配」が、環境分野、経済分野に留まらず、健康や教育、飢餓からの解放など、それ自体が基本的人権として扱われなければならない分野にまで及んでいる状況を私は見過ごすことが出来なかったというのも事実である。
 私はそれ以降、人間の価値、人間の尊厳を捉え直し、国際社会に広がる、保健医療を含めた社会的不公正を少しでも緩和できる人間になりたいと将来への希望を持つことになる。
 
 これが私の国際保健協力の出発点である。なんとも気恥ずかしい限りである。このように私の国際保健協力に関わろうとする出発点における動機は自分でも驚くほどに純粋で「正義感に溢れるもの」であった。しかし、一方でその使命感ともいえる国際保健協力に対する動機付け要因は、自分の国際保健協力に対する「心地よさ」に目を伏せたまま国際保健協力の世界に身をおくことを肯定させ得る傲慢さを持っていた。それが私に言い知れぬ「不快感」を感じさせていた。公益性と社会的公正を第一義に考え、自分にとって国際保健協力に関わることが「心地よいかどうか」ということとは向き合おうとしてこなかった。いや、向き合うことから逃げていたのかもしれない。自己との対話の中で国際保健協力に対する私の嫌悪感が表出するのを無意識的に抑圧していたのかもしれない。しかし、今一度言う、「私は国際保健協力に関わり、国際保健協力を通して世界を、そして自分を見つめることが好きである。国際保健協力を私の社会的役割の1つとしていきたい。」
 国際保健協力の世界で活躍されている先生方から発せられる強い光は私にそう言わせることを許すほどの自信を私に与えてくれた。
 
 
 ともすると、国際保健・国際協力の分野はその活動の「複雑さ」と「聖域意識」から、多くの人々から見て見ぬ振りをされるか、偏見の対象とさえなりかねない。国際保健・国際協力にはジレンマが付き物である。そのジレンマから私自身、時には目を背け、逃げ出し、国際保健・国際協力そのものを否定したくさえなる。
 しかし、非建設的に国際保健・国際協力を否定するのではなく、そのジレンマと戦い、より良い国際保健・国際協力のあり方を模索していかなければならないと今日では考えている。「国際保健協力に関わる事が好きである」という、自分にとっての「心地よさ」を手に入れた今、その思いはさらに強くなった。この「心地よさ」は国際保健・国際協力のジレンマと戦うのに十分な力を私に与えてくれると確信している。
 国際保健・国際協力に私がいつも魅せられてしまうのは、そこにいつも素敵な人たちとの出会いがあるからなのかもしれない。
 
混じることの重要性
佐野 正彦(高知大学医学部医学科3年)
 
 他大学の人たちが即席でmissionを組み、様々なところへ訪問する。最初は正直、不安であったが、蓋を開けてみれば非常にうまくいったと思う。そればかりか、相互に良いところを吸収しあえる姿勢も生まれた。若さは、指導がうまく働くとすばらしい結果を生む。地方大学では学生はどちらかというと内向きで、世の中の動き、外の世界に疎い学生が多い。そういう意味では、若いうちに自分にとって異質な世界と多く混じり、そこから学習すること、そして、さらに自分を高めていくことが極めて重要であると思われる。
 もう一つは実践することである。人間の認識は実践によってしか勝ち取ることができない。つまり、教科書の知識(理論学習)は重要ではあっても、それだけでは不十分である。今回は混じる、実践の二つを同時に、それも国際保健の場で体験することができた。
 Barangay、RHUのmidwife、doctorは住民の健康と安寧を常に考え、きめ細かい活動を展開していた。また、JICAの皆さんは自分の職務を極めて誠実に遂行し、頭の下がる思いであった。彼らが教えてくれたのは組織、職務、住民へのcommitmentである。仕事の精度もこの部分に頼るところが大きい。しかし、学生でいる間はそれを目の当たりにすることは難しいと思われる。患者−医師関係といっても患者さんに正面から取り組もうとする基本的な姿勢が無ければ決して良好な関係は築けない。フィリピンの保健部門で労働する人たちの真摯な姿勢に本当に感動した。
 このフェローシップの良い点は、素材は与えてくれるが、味付け、盛り付けは学生に任されていることだと思う。短期間での認識、方針の統一は、完全にはできなくとも、万事うまくいったと個人的には考えている。これも各人が自分の持ち場で真剣に各々の課題に取り組んだ結果である。大きな舞台で自由に活動させてくれたこのフェローシップに心から感謝したい。
 学習は求めればいくらでもできる。その学習を実践して社会に還元していくのが我々の責務である。単なる思い出にしてはいけないのである。尾身先生、バルア先生、佐藤先生の話は自分自身がどこに進めばよいか、そして、どう考えればよいかの大きな助けとなった。具体的内容はレポートの記述に譲るが、私の人生のある部分は今回のフェローシップで全く迷いがなくなった。今回経験したことは、時が経つに従って、もっともっと熟成され、味がでてくることだろう。
 このような機会を与えてくださった(財)笹川記念保健協力財団、同行して下さった西村先生、泉さんには心より感謝申し上げます。
 そして、13名の仲間とは今後とも相互に切磋琢磨していきたい。
 
一言
西村 秋生(指導専門家)
 
 Dr. Baruaによる貴重なご講義のなかで、とりわけ印象に残ったのは、「鉛筆を買えない子供達」の挿話である。一本の鉛筆を大事そうに握りしめる少女の写真、この写真を使った日本の小学校での授業の後、教室のうしろで聞いていた母達は、「ボランティアを募って、日本の余った鉛筆を集めて送りましょう」と真顔で提案した、というのである。
 これは笑い話かもしれない。しかし、指導専門家などという大層な役職を頂きながら、国際協力の領域においてほとんど素人である私にとっては、とても笑って済ませられる問題ではなかった。貴重なフィールドワークで、自分の指導が、まさにこのような的はずれなものになってしまわないか、というおそれを、参加前から抱き続けていたからである。
 結論から言うと、それは全くの杞憂であった。なぜなら、私が「指導」しなければならないような場面はほとんど発生しなかったからである。初日の全生園の晩には、泉氏からの丁寧な説明に加えて、あらかじめメーリングリストから得た情報を元に、帰国後の作業までも含めた役割分担が自主的になされていた。そして、行程を通じメンバーそれぞれがその役割を理解して積極的にこなす姿があった。細やかな気配りの出来るリーダーを中心に、それぞれが表に出たり裏に回ったりしながら、行程を遂行していく姿は、誠に頼もしいものであった。また、日々の研修の後には必ず全員参加してのミーティングが行われ、その日に得た様々な経験を消化しようと、夜を徹しての議論が続いた(これがアルコール抜き、というところが、また私にとっては驚異であった)。というわけで、正直に言えば私はすっかり役職を忘れ、参加メンバーの一人として、「楽しませて頂いた」のである。
 本プロジェクトの構成は心憎いばかりである。初日の全般にわたる国際保健協力行政の説明に続き、我が国の感染症対策行政を、成功例ではなく、大きな課題を生んだハンセン病の点から紹介し、海外研修の初日にフィリピンでのハンセン病対策をおくことで、それぞれが有機的につながった。これらの事例を踏まえて、WPROでの広範にわたるWHO事業説明(これはちと広範すぎる感もあったが)、そしてその具体例として、JICA、NGO、地域保健それぞれのactivitiesを見聞し、保健行政の大きな流れを体感することができた。このように素晴らしいプログラムを作成されたご担当者に敬意を表する。
 本プログラムにご協力下さったすべての方々に感謝申し上げたい。特に貴重なお時間を割いて、オフの時間までお付き合い下さったDr. Barua、平岡先生、佐藤先生には、改めて御礼申し上げる。そして、この貴重なプログラムに参加の機会を与えて下さった紀伊國理事長に、心から感謝したい。そしてなによりも、このように甚だ心許ない指導専門家を迎えながら、120%の成果を上げた今回の参加メンバー達に大きな拍手を送るとともに、これからどんな方向に向かうとしても、今回のプログラムから得た、「広い視点を持つ」ことの重要性を、忘れないで頂きたいと願う次第である。
〜帰国後、安里屋ユンタを聴きながら〜


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