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2004 国際保健協力
フィールドワークフェローシップ
参加報告
最も単純なこと
山道 拓(大阪大学医学部5年)
 
 人の命は平等ではない。パヤタスのスモーキーマウンテンを裸足で駆け回って破傷風にかかって死んでしまうスカベンジャーの子供。私から見たら「ひどい」環境で生活しているが、子供たちは楽しそうだ。彼らにとってはナチュラルな生活なのだ、と自分に言い聞かせる。ただ何か疚しい。しかし、スラムに住む人々は自負を持って生活を営んでおり、劣悪な境遇の中でも幸せと見出しているようだ、彼らにもあかりは灯っている・・・こうして私は相対主義的な感覚で豊かな境遇を甘受する特権の中に芽生える疚しさを糊塗している。
 だがその彼らに向かって今のあかりで満足しろと言い放っていればよいのだろうか。私がいま特権的に豊かな境遇に身をおいて欺瞞的に生きている根拠は何だろう。そこには疚しさを思い知り誰かに答えを求める自分がいる。
 
 「どうやったらWHOで働けるのですか?やっぱり厚労省を目指すのがいいのでしょうか。」今回の研修中に何度も口にした質問である。研修制度の必修化という制度改変の過渡期の波の中で私は迷っていた、いやロールモデルを求めていた。
 
 しかし、そうやって国際保健の第一線で活躍されている人の生き様を肌で感じているうちに自分には何か欠けているという感覚に襲われた。「曖昧模糊としたもの」が私の心の奥で音もなく鳴動する。そもそも自分は何がしたいのか、とかくhowばかり求めて明確なwhat、whyを問い直そうとしなかった。
 オウム真理教の医師は、地道に一人一人の患者を治療していても救えない命があり、世界には多くの病に苦しむ人々がいる現実に疚しさを感じたという。疚しさに耐えられないエリート達は等身大の自分が見えなくなって、人工的なイデオロギーに拠って歪んだ理想主義の中、世界の新たな公共性を構築しようとした。
 
 私に欠けていたもの、それは自分だ。最も単純なこと、自分の頭で考えるということ。自分の気持ちを軽視するのではない、対話すべきは自分なのだ。ロールモデルを求めるのではない、自分がロールモデルになるのだ。理念と現実の間には必ず齟齬がでる。常に自分の根幹を意識して問い直さなければならない。
 尾身先生はこれからの日本は量的な豊かさではなく質的な豊かさを求めるべきだという。資本主義経済競争の浸透で、人間すら「物量」に置き換えられ数量化され、それによってのみ評価される。日本人は豊かになったといわれるその豊かさを裏付けるものはGNPであったり消費の拡大であったりする。日本人は経済的に豊かになっただけである。「多様性」という、統計上の「標準偏差」の大きさを「豊かさ」と捉えてみれば、日本は「貧しくなった」と言えるだろう。そして、その「貧しさ」を求める動きは未だ止まらない。そこに未来へ向かう視線はない。そして、それに変わる新しい価値観はまだ構築されていない。それが我々の世代に課せられた課題だ。私はそれを自らに問い続けることによってのみ、自分を構築できるのだろう。
 準備は未だに整っていない。しかし、「未知の未来」に船を漕ぎだすのに、「完璧な準備」など出来ようはずもない。あとは、船を進め、進めながら考え続けるしかない。
 準備は終わった。
 
 
フェロー11期に参加して
稲田 晴彦(東京大学医学部5年)
 
 時が止まっているかのように感じられた。人気のない集合住宅、蝉時雨のみの大通り、時折現れるロボットのような人影。ここは過疎の離島でもなければゴーストタウンでもない。東京の郊外、柵の外は住宅地が広がる。元患者さんたちは、社会が変わるまであまりにも長く待たなければならなかった。療養所は静かにゆっくりと、生きながら遺跡となろうとしているかのようだった。フェロー2日目、多磨全生園での1コマ。
 
 バングラデシュの農村に生まれ、アジア各地を巡った末にフィリピン・レイテで地域に根ざした医者となったBarua先生。以来20余年、現在はWHOで働く。国連機関の職員は、先進国出身者と、途上国出身とはいっても何不自由ない生活を送ってきた超エリートで占められていると勘違いしていた頭に、それは新鮮な驚きだった。我々とは全く別の根を持つ先生の人間観、人生観、世界観。フェロー5日目、マニラに着いた夜の1コマ。
 
 学生だけで行ったのでは中に入ることも覚束ないであろうWHO西太平洋地域事務局で、丸1日講義を受けることができた。世の中は確かに人のつながりで動いている。休憩ごとに出てくる、とても食べきることはできない飲み物と軽食。全てが美しくはないようだったが、もっともっと見たい、見ようと思った。フェロー7日目、スラム街を訪ねた翌日の1コマ。
 
 どうも最近感受性が鈍くなっているような、全てをガラス越しに見ているような、そんな危機感を持っていたので、このフェローではできるだけ心で感じようと決めていた。結局途中からは日常のように忙しさに飲まれてただプログラムをこなすだけとなってしまっていたが、良い経験はあとから1コマ1コマ鮮やかによみがえり、活きてくる。将来働こうと思っている国際保健分野の、トップから末端まで、この夏に見た。志の高い仲間にも恵まれた。上にも書いたとおり世の中が人と人とのつながりならば、僕ら参加者にとってこのフェローは新たな機会の始まり、ひょっとすると“beginning of everything”となり得るのかもしれない。このような機会を与えて下さった笹川記念保健協力財団の方々、2週間近くにわたり参加者を親身に指導して下さった西村先生、泉さん、そして、ご協力下さった数多くの方たちに感謝したい。ありがとうございました。
 
第11回国際保健協力フィールドワークフェローシップに参加して
坂口 大俊(滋賀医科大学医学科6年)
 
 「国際保健協力フィールドワークフェローシップ」という大変長い名前のプログラムに参加するにあたり、自分はここで何をするのか。
 正直、東京に向かう新幹線の中でも自分の中に迷いを持ったままであった。公衆衛生学や社会医学は大学で学んだ。その大切さは理解しているつもりである。また、国際情勢や国際問題に関しては、日頃から関心がある。アンテナは張っているつもりでいる。将来、医療行政に携わることも全く考えていないわけではない。しかし、だからといって、国際保健、ましてや国際保健協力に関して、今まで特別に、何か具体的な活動をしてきたわけではない。そう。関心を持った単なる一医学生なのである。
 そんな僕が、このプログラムに参加して何をするのか。何をすべきか。答えが導けないままであった。そうして、第11回国際保健協力フィールドワークフェローシップの国内研修初日を迎えたのだった。
 国内研修初日、前駐中国日本大使の谷野作太郎先生の講義があった。
 その中で、先生は「異なる文化から積極的に吸収し、学んでいくこと。そして、自分の意見を持つこと。語学を磨いて、それを人前で話すこと。但し、必ずユーモアを交えて。これが国際人の条件である。」と仰った。
 僕は19歳になった春に1か月間ロンドンにいたことがある。もう8年も前のことである。一人で街を歩き廻った。そこで僕は子どもから大人に少しだけ、しかし確実に成長したと思っている。その時に感じたことこそ、谷野先生が仰った言葉のままであった。ここではっきりと再提示されたのだった。
 そして、さらに、「閉じているヒト」と「開いているヒト」についてのお話があった。少し前のキムタクのテレビ・コマーシャルのフレーズを引いてのお話であった。率直に心に響いた。僕は大学院から医学部に学士編入したりして、他人よりは環境の変化が多い学生生活を送ってきた。その中で心掛けてきたことは、自分から自分の扉を開くことであった。自分で自分に壁を作らないことであった。
 この谷野先生のスピーチで、僕のこのプログラムに対するスタンスが決まった。
 自分の扉も窓も全開に開け放とう、と。そこから入ってくるものは全て、兎に角、中に取り入れよう、と。そして、その場で消化できないものは大きな風呂敷に包んで持って帰れば良いのさ。消化したものは、自分のものにして、自分から外に発信してみる。そうすれば、発したものがまた形を変えて、戻ってくる。
 こうして、僕は、自分の風通しを良くしてこのプログラムに臨もうと決めた。これが目標となった。こういった意味で、この国内研修初日は僕にとってかけがえのないプログラムの一つとなった。
 で、プログラムを終えて、どうだったか。
 とてもとても消化しきれない量のことを、兎にも角にも、僕の中に押し込んで帰ってきた、というのが現実だ。
 国際保健のこと、国際支援のこと、フィリピンのこと、日本のこと、ハンセン病のこと、WHOのこと、貧富の格差、利益の分配、文明というもの、国というもの、社会というもの、家族というもの、医療について、教育について、組織について、外交について、仲間について、恋愛について、自然について、遭難について、果物について、ガチョウについて、雨について、歌について、楽しみについて、悲しみについて、今について、未来について、人について、自分について、いろいろとしか言いようがないが、本当にいろいろと、学び、考え、話して、聴いて、また考えて、非常に密度の濃い11日間を過ごさせていただいた。帰って来た時、1か月以上経っている気が、本当にしていた。浦島太郎の逆である。
 さて、何を学んできたのか、具体的に報告しろとお叱りを受けるかもしれないが、この膨大な経験を短期間にまとめるという作業は、僕の能力を超えているとお答えせざるをえない。その代わりに、僕がどんな医療人を目指すのかについて、今の考えを記させていただく。
 これはプログラムの中で、僕が何度か話したことであるが、人間の最大の苦悩の一つは家族の死であると思う。この苦しみは貧困の社会でも、裕福な社会でも、戦乱の国でも、平和な国でも、人間が共通して持つ苦しみだと思う。僕は、人が亡くなるにあたり、家族の苦しみを可能な限り和らげられる医師になりたいと願っている。その業を一臨床医として志していくか、社会医学的立場から志していくか、それは、来春から始まる医師としての生活の中で考えていくつもりである。そのために必要なことは何かということも、考え、学んでいきたい。その先に行き着く姿こそが、このプログラムで私が何を学んだかの答えになるとも思う。
 
 持ち帰ってきた膨大なものは、僕の中でこの先、暫く時間をかけて、ゆっくり消化されていき、形を変え、僕を形成し続けていくことであろう。僕が5年後、10年後、20年後、どんな形になっているか。形の方向性を導き、見守ってくれる存在。時には大工道具を引っ張り出してきて、大改築してくれる存在。今回、こういった存在になってくれるであろう掛け替えのない仲間を得たことが、最大の成果であったと思う。生涯の財になると確信している。学生14人と西村先生と泉さんという国外派遣メンバー、10年にわたる大学生活の中でも最高の時間を彼らと共有できたことに、大きな喜びを覚え、感謝の意をあらためてここで表しておきたい。
 
 最後に、このように得難い機会を与えていただいた笹川記念保健財団の関係者各位、講義やコーディネートに尽力して下さった諸先生方、諸先輩方、そして、共に時間を過ごした国内外研修参加者の皆様方に、重ねて御礼申し上げたい。有り難う御座いました。


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