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武力以外の手段を最大限に用いる
 それからトーマス・モアは、武力以外の手段を最大限に用いると言っている。これは北朝鮮には経済制裁をする話と同じです。トーマス・モアが言っているのですから、社民党の人も賛成でしょう。最大限に用いるという点を、今は最小限に用いるのすら遠慮している。
 新潟税関長というのは大蔵省の中では多少地位が高いようです。大蔵省へ入ると、一九年目には本省の課長になる。一級課長、三級課長とあるが、ともかく一九年たったところで本省の課長にはなる。今もそうかは知りませんが、長い間そうでした。それが済んでから出ていく先の中に「税関長」がありまして、横浜税関、神戸税関、下関税関、小樽税関、新潟税関とたくさんある。その中で新潟税関長というのはわりと地位が高いとされています。「そんなに取扱い量が多いのですか」と聞いたら、「いや、あそこはややこしい問題が多い」と言う。まずはソ連の材木を積んだ船がしょっちゅう入ってきて、日本から中古の自動車を持ち出していく。それから北朝鮮から船が入ってくる。「何がややこしいんですか。法律のとおりやれば簡単じゃありませんか」「そうもいかなくて、手かげんがいろいろある」と言う。
 万景峰号に立入検査をしましたが、今までは手加減していたことを自ら認めているようなものです。つまり行政には裁量の余地が非常に多い。
 それならちょっと裁量を厳しくやれば、北朝鮮を追い詰めることは簡単なはずです。そのとき気にしているのは、新聞はどう書くか、それから野党がどう攻撃してくるかですね。ですから行政はけっこう政治的です。
 
 それから4に「兵士の死傷を避ける」が理想として挙がっている。そのころ君主制のもとでも、そういうことが行われるようになった。というのは、傭兵ですから給料を払っています。君主にも死傷は避けようというコスト意識が生まれていました。
 それから傭兵の「引き受け業者」が現れていた。傭兵隊長といいますが、主にスイスで貧乏な村の若者を何百人か集めて、豊かなイタリアへ行って兵隊として使ってもらう。ローマ法王庁が有名ですね。だからローマ法王庁の警備は、今でもスイス人の服を着て立っています。それはともかく、やがてフランスの宮殿でもスイス人がガードマンをする。この傭兵隊長は請負業で、戦争だと言われれば行きます。勝たなければ儲かりません。しかし相手を見ると隣村の人がいる。スイス人同士の戦いをしても仕方がないから、前の晩に談合してしまうようなことが行われ始めた頃で、トーマス・モアは兵士の死傷を避けることを理想として書いたのです。
 5に、なるべく傭兵を使う。このユートピア国の国民は、自分は戦争しない。スイス人にやらせる。そのための金は準備する。それで資金を準備するためには働く。
 これは今の日本にそっくりです。金のためには働くが、戦場では働かない、というのが面白い。この頃から金で人を使って戦争をするという考えがあった。
 ブッシュがイラクへ兵隊を出した。そして百何十人死んだというとき『ニューズウィーク』はすぐ、死んだ人の内訳表を出しました。すると黒人がたいへん多い。どうも貧乏人だらけのようである。
 それは志願兵だからそうなります。徴兵ではないのに志願する人は貧乏な人で、貧乏な人は黒人が多いわけで、だからそういう人ばかりが死ぬ。「これで正義の戦いと言えるか。正義の戦いなら、全アメリカ人が参加すべきである」ということを匂わせているというか、ほとんどはっきり書いてありまして、その一番最後には息子が死んだお母さんの言葉を並べました。「うちの息子は兵隊を志願して行った。それは家が貧乏だからで、もう一つは、一人兵隊に志願すると親子兄弟全部に健康保険がもらえる。だから、親子兄弟のために僕が行くよと言ってくれた。そして死んでしまった」という談話を載せている。
 『ニューズウィーク』は、その後半年たっても、一年たっても同じ特集をしました。三〇〇人ぐらい死んだときは、三〇〇人の顔写真を全部出したりしました。そういう嫌がらせとも思えるようなことをしているのは、「正義の戦いだと言うなら、こういう傭兵めいたことをするな」と暗に言っているわけです。上院議員や下院議員の息子も行けということです。だから今度の大統領選挙でも、自分(ケリー)はベトナムへ行ったがブッシュは逃げたということが、問題になるのです。兵役というのは今のアメリカでは大きな問題になっています。
 
 こういうことも、「ユートピア国は傭兵を使う」と先に書いておけばいいのです。それで問題は傭兵では負けるかどうかです。
 私は自衛隊の偉い人と何度も議論しました。「傭兵を使ったほうが安い」と言うと、「傭兵を使ったら勝てません」と言うから、「そんなことはない、傭兵を使ってでも勝てるように研究するのがあなた方の仕事でしょう」と言うと、「そんな研究は聞いたことありません」と言うので、「それなら歴史を勉強しよう。イギリスは傭兵を使って連戦連勝した。日本だってできないはずがない」。「どうするんですか」と言うから、「自衛隊の学校で日本語と英語しか教えてないのがおかしい。朝鮮語もインド語もパキスタン語も中国語もみんな教えなければいけない。中国語を習った人は、将来中国人を使った部隊の隊長になればいい。パキスタンはいくらでも兵隊を出してくれる」。
 ほんとうにパキスタンはそうなのです。ドルで払えば、いくらでも兵隊を出す。そして兵隊にはドルではなく、パキスタンの通貨で払う。差額は大統領か誰かは知らないが、要するにポケットに入れてしまうらしい。「パキスタンの兵隊を雇えばよい。指揮官だけが日本人で、パキスタン語で命令すればいい。それは防衛庁がそういうシステムをつくって教えればできます」と言ったら、変な顔をしていました(笑)。
 しかしチャーチルが書いていることですが、チャーチルは一時期インド軍の将校だった。インドにはインドの税金で維持されていたインド軍があったのですが、しかしインド国家の一番上の皇帝はイギリス人の女性だった。という形で、将校にはイギリス人がたくさん入っていた。チャーチルは自分が将校だったときの戦争について、自分ひとりで勝ったように書きまくった。血湧き肉踊る物語を書いて、俄然イギリスで有名になる。
 それを読むと、軍曹クラスの下士官にもイギリス人がたくさん入っている。この人たちに猛烈にヒンズー語を覚えさせて、覚えたら一階級上がる。給料も上げる。ということをやっていたと書いてあります。だからインド人がイギリス人の言うことを聞いて戦争したのです。
 実はこれは日本軍が戦った相手ですよ。インパールへ攻め込んだとき、インドの兵隊がイギリスのために命を惜しまず戦う。それで日本は最前線で放送する。「後ろにいる士官はイギリス人ではないか。イギリスに支配され、搾取されて、日本軍がいま解放に来ているのに、なぜ手向かうのか」と。この放送にはインド人を使いました。シンガポールで捕虜にしたインド人が、「これから我々は自由インド国という新しい国をつくる。この自由インド国は日本と同盟する。一緒に戦うから我々もインパールへ連れていってくれ」と言ったのです。日本軍は武器を渡したので、自由インド解放軍という軍ができた。その最高司令官は、有名なチャンドラ・ボースです。
 このチャンドラ・ボースという人はインドでなかなか実績があり、ガンジーと対抗する二大勢力でした。ボースはあくまでも武力で立ち上がって戦うという人で、それで刑務所に入れられたのですが、うまいこと脱出して、アフガニスタンを通ってベルリンへ行って、ヒトラーに「一緒にやってくれ」と頼む。ヒトラーは「それはちょっと話が遠い。まずスターリンをやっつけてからインドだ」と言ったので、これはラチがあかないと、今度は日本軍の潜水艦に乗ってシンガポールへ帰ってくる。
 これがもう一年でも早ければよかった。昭和十七年であれば、日本海軍の連合艦隊はインド洋を完全に押さえていました。イギリスの船は一隻もあそこを通れない。日本はついでにホルムズ海峡を通って、敵前上陸してイラクをとってしまえばよかった。そんなことは不可能ではなかったのです。そのためには、内応勢力をつくればいいわけです。そのときこのチャンドラ・ボースという闘争家が使えた。
 面白いのですが、自由インド国の最高司令官の制服はこれだと、ボースは自分で派手なのをつくった。それが功を奏したかは不明ですが、シンガポールで日本が捕虜にしたインド兵一万五〇〇〇人ぐらいが、みんな燃えて立ち上がって、インパールへ一緒になって攻め込む。彼らがビラをつくり、放送をして呼びかけた。ある程度効果はあったが、それ以上はなかった。これは相手のグルカ兵などがイギリス人の下士官に律儀にくっついているからです。イギリス人の下士官がちゃんとグルカ語でもヒンズー語でも話している。だから心が通っているんですね。
 
 これにはインドの中の少数派が、イギリスにくっついて幸せになろうとしたという理由もあります。インド人を分裂させておく政策で、それで一部をイギリスの味方につけたわけです。
 それに関連して戦後処理でまた面白い話があるのです。ちっとも本来の話が進まないのですが(笑)、しかし逍遥派で行きましょう。
 あのとき東条英機にもう少し大局眼があれば、全インドは簡単に日本のものになった。昭和十七年の四月、五月というタイミングです。連合艦隊は、インドのカルカッタまでは行かないが、ボンベイまで行っている。あのときにもうちょっと宣伝すれば・・・。私のアイディアは、連合艦隊のゼロ戦に半分は日の丸をつけて飛ばす。半分はチャンドラ・ボースの旗をつけて飛ばす。パイロットは日本人ですが、とにかく「自由インド国というのはもうできた。自由インド国の軍隊というのは存在する」と、マークをつけた飛行機をばんばん飛ばすと、それならとインド国民が立ち上がる。
 この後の話をしますと面白いのですが、実はチャンドラ・ボースは、インド人を組織して立ち上がらせるために遊説して歩いている。アジア各地にインド人がいますから、バンコクへも行き、ミャンマーへも行き、そこで「飛行機を一台貸してくれ」と言う。
 東条英機は「けっこうだ。海軍のゼロ式輸送機を、一機では足りないだろうから三機ぐらいあげよう」と言うのです。ボースは「もらいません」と言う。そして借用書を入れるのです。「自由インド国政府は、日本国からのいわれなき援助はもらわない。飛行機はやがて返す」と借用書を書いて渡すのですが、この紙一枚がチャンドラ・ボースについた将軍たちの命を後で救うという面白い話があります。たいへんプライドがあったが、それが身を救ったのです。
 自由インド軍の将軍たちが、のちに国家反逆罪だとニューデリーで裁判にかかる。もちろんこれはイギリスがやっている裁判で、そのときチャンドラ・ボースは飛行機事故で、台北ですでに亡くなっているのですが。部下の将軍たちは裁判になったとき「我々は国家反逆罪ではない。我々もまた国家である。国家をつくって、宣言して、対等につき合ったのであって、日本軍に使われて戦ったのではない。日本は同盟国である」という堂々の論理を主張したときに、その借用書が出てくる。「これを見よ。日本の援助をもらったのではない。証文も書いてある。戦いに敗れたが、勝っていればこれは返すつもりだったから国家反逆罪ではない」という弁論をやった。そのとき証人に呼ばれて日本の外務省および旧陸軍軍人が四人ほど行くのです。名前を言えば絶対ご存じの有名人です。
 将軍たちをかばわなくてはとニューデリーへ行って、将軍についている弁護人――これが面白いことに、インド人の弁護士もいるが、イギリス人の弁護士もいるのです――と打ち合わせをする。
 さて、そのとき日本側は「彼らは日本軍に強制されて仕方なくやったのだから、情状酌量してやってほしい、という論陣を展開する予定である。これで少しは罪が軽くなるでしょう」と言ったら、向こうのイギリス人弁護士、インド人弁護士は真っ青になって、「そんなことを言ったらたちまち死刑になる。やめてくれ。“日本軍は何も強制していない、彼らは誇りを持って、みずからインドのために戦ったのである”と言ってくれなければ困る」と言ったと本に書いてあります。つまり、日本的裁判と、イギリス的、国際常識的裁判はまるで違うということです。
 日本人は国家とは何かを知りません。国家の利用法を知りません。外務省も軍人も知らないとは驚くべきことです。この情状酌量を乞うという弱腰は今も続いています。ところで結果はどうかというと、強腰弁護作戦は成功して、将軍方は無罪になりました。







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