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第100回 理想主義か現実主義か
――トーマス・モアからブッシュまで PART2
(二〇〇四年十月二十一日)
理想主義もほどほどがいい
 やっと台風が一つ行ったと思ったら、また一つ大きなのが近づいて、今年は台風が多いですね。しかし今日はいい天気になって喜んでいます。
 今日の話は「理想主義と現実主義」をテーマにした二回目です。「トーマス・モアからブッシュまで」とサブタイトルをつけていますが、一言で内容を言えば、「理想主義もほどほどがいい」ということです。
 なぜ、こんなことを言いたくなったかというと、日本人は理想主義が下々のほうまで徹底しています。しかも、ある程度自分もやろうと思っています。上が理想を説くだけではなく、下も理想を追求している。こんな国は世界中、他にありません。
 それから不思議なことに現実主義が、これもまたけっこう徹底しておりまして、普通なら言えないことですが、天皇陛下まで現実主義である。これは漏れ承る話で真偽のほどはわかりませんが、天皇陛下と美智子妃殿下は働かなければいけないと思っていらっしゃるらしい。働かずに食べるのはよくないことだと思われて、植樹祭とか、国民体育大会とか、イベントがしばらくないと「何かないか」とおっしゃるというのです。「出かけていって働きたい」とお考えのようです。
 それが本当ではなくても、そんな噂が聞こえてくるだけでもたいしたことです。日本は「理想主義」と「現実主義」を国民全部が両方持っている。これほど思想に厚味があって、それを四民平等で共有している国は世界中にないだろうと思います。
 アメリカと比べてみましょう。例えばアメリカの大統領選挙が近づいて、ブッシュとケリーの両氏が争っていますね。それを見ての感想は、アメリカは移民の寄せ集め国で、下はバラバラ、毎日の生活はドル、ドル、ドルで暮らしている。つまり現実主義の国です。
 それだけでは治まらないから、上にエリートがいて、このエリートは理想を説くわけです。それがエリートの仕事です。何やら理想を説いてみんなをまとめて、強いアメリカになると全員が得をする。そこで言うことは「自由と民主主義の国アメリカ」。つけ加えて「チャンスの国アメリカ」。そう言って国をまとめています。
 アメリカの大統領、その他エリートの仕事は、何か理想を言うことなんです。へんちくりんな理想でも、下は教養がないからけっこう通る。それを言わない人は落選する、というのが私の考えで、ですからケリー候補が何となく弱々しく見えるのは、指導者らしいことを言わないからです。うそでも少し高飛車なことを言わないと当選しないのは、アメリカの民度が低いからであると思っています(笑)。
 
 そういう目で海外を見ている日本人はたくさんいるのですが、表に出てきませんね。「そういう失礼なことは言わない」と自制するぐらい、日本は民度が高いのです。「いずれ自分で気がつくだろう」と放っておく。アメリカだって自分で気がつくことがあります。多種多様な国ですから。でも、わかりが遅い。わからせるためにはみんなで揺さぶる必要があるんです(笑)。
 いっぽう日本は理想で考え、現実で考え、両方で考えるからほんとうに戸惑っている。みんなが良心的だからこうなるんです。そもそもの原因は、日本は四民平等の国である。つまり「上は理想を説き、下は現実に生きる」という分業にはっきりとはなっていない。日本は「理想主義」と「現実主義」を国民全部が両方持っている。だから、悩みは深いというわけです。
 アメリカの下々の人は現実主義ですから、理想は芝居のショーみたいなもので、ブッシュとケリーのうまくやっているほうに投票するだけです。その点で見ると、ケリーはどちらも言っていない。民主党というのは、もともと高らかに理想を言うはずだったのに、それを言っていない。あるいは現実主義で、福祉、雇用ということをもっと言えばいいのですが、それも言っていない。
 どっちつかずだから「リーダーではない」と思われているように見えます。すると顔つきもそうなってしまいます。不思議なもので、みんなが嫌そうな顔で見ていると、だんだん自信が抜けていくものです。そこはいかに大統領候補でも、やはり普通の人間ですね。テレビ時代というのは恐ろしいと思いますが、それがよくわかります。あの社長はウソをついているなとか、だんだん自信をなくしてきたなとか。私はたいして見ていませんが、世間のご婦人は毎日見ていますから、顔つきが変わっていくところで真実を見破っているようです。
 
 さて、もう一つ、日本は理想もすごいし、現実もすごい。どうしてそんなにうまくいくのか。四民平等だけでない、他にも理由があるだろうということを考えてみると、西日本国と東日本国に分かれているからということがあります。
 大阪人と東京人というのが、まったく別の「理想」を持っている。あるいは別の「現実主義」を持っている。これが混ざっているからいいのかな、という気がします。今度の三位一体の地方改革でも、こういう特色がもっと出てくればいいと思っているのです。
 というのは、文部省はどうあるべきか、義務教育はどうあるべきかとずいぶん昔から議論していますが、私の答は「大阪文科省と東京文科省と二つつくればいい」。こう言うと「大阪と東京で教育の中身が違っていたらどうするのか」と言われるのですが、その答は「国民が引っ越せばいい」のです。今の日本は、住宅があり余ってきましたし、仕事にこだわらなければ完全雇用ですから、我が子のためならどこへでも引っ越すのは「孟母三遷」のときからあることです。
 つまり、それは国民の足による投票です。どういう教育が正しいかなどは、いくら議論したってだめです。足によって投票する。投票する人は、引っ越し代とかコストがかかっていますから、その投票は真剣で真実味がある。それが教育の自由化、あるいは義務教育の民営化です。それを文部科学省が「一番いいのはこの線だ、国家が責任を持ってやらなければならない」などと、できもしないことを言うのは間違っている。
 関東と関西をわければいい。私がそう自信を持って言える理由は、やはり自分が関西人だからです。関西人の親は東京とは全然違うことを言っています。でもその意見は新聞には出てこない。新聞の本社がみんな東京に来てしまったからです。それでも関西は関西で、適当にうまくやっている。それが本当の健全さです。
 余談を言えば、それで大阪府警本部長になった人は板挟みで苦しむのです。国家公務員として、警察庁のご指導を背負って大阪へ来ているが、下を見ると暴力団だらけで、警官は適当にやっている。それを徹底的に取り締まれと言われても、現実的にはできません。だからやっていません。もしもやり出しても、新聞が味方についてくれるかどうかわからない。そのうえ、適当に時間を過ごせば辞めるときには五〇〇〇万円か三〇〇〇万円かは諸説ありますが、それぐらいの“お餞別”がもらえるらしい。
 それは長年の習慣だから、「自分はもらわない」と言ったら、部下が言うことを聞かなくなる。「だめです、後輩のためにもらってください」と言われます。警察は一家ですから、自分だけ変わったことはできない。しかし「餞別」をもらうと一〇人に一人ぐらいは新聞に書かれることがある。運が悪いとも言えるのですが、栄転して警察大学校の校長になったが、そこの物置小屋で首をつって死んだということがありました。気にして首をつったとは、たいへん良心的な人だと言えますね。理想に殉じた人です。これは秘密でも何でもないことで、新聞が書きました。ただ、こういうふうに解説していないから、東京の人は「もっと巨悪な裏があったのかな」と思うのですが、そんなことではないのです。東京の理想と大阪の現実の板挟みです。
 
 大阪、神戸の現実について、私がちらっと聞いた話をすると、大阪は違法駐車がやたら多い。「警察はきちんと取り締まれ」とは、誰でも言いますね。私も言ったら、「そのとおりであるが、大阪では現実主義の力がスゴくて、警察が出る前に市民がちゃんとやっている」と言うので、「何をやっているのか」と聞いたら、「大阪市役所のごみを集める自動車が、朝早くまだ誰もいないときに、邪魔になるヤクザのベンツにはガンガンぶつけていく」と(笑)。これは誰も見ていないし、ぶつけるほうはゴミ収集の車だから、へこんだってへっちゃらで、それでベンツのほうがそういうところには止めなくなったと聞きました。市民にそういう「民主主義」がある。
 東京ではそういうことはなくて、「警察は何をしている」と言うだけですが、大阪の市民は「ごみ集めがでけへんやないか。ごみ集めのためだ、どいとくれ」と言って、ガンガンぶつけてしまう。「ここへ止めたらこうなるで」というわけで、それはそれで秩序が保たれていて、違法駐車もあて逃げもある程度以上にはならない。
 という話を大阪の人から聞きましたが、東京の皆さんはこれを聞いてびっくりする人が多い。「さもあらん」と思った人は、日本国を知っている人です。東京にいて新聞ばかり読んでいる人は、こんな話を教えても「日下は変な話を集めてくる」と言う(笑)。しかし関西の人だと「そんなことは常識や。何を今ごろ興奮しとんねん」となります。
 というわけで、現実主義も捨てたものではありません。では全部現実主義でいけるかというと、何か束ねるものが必要で、それがエリートの仕事なのです。かつて戦前は東大法学部とか内務省とかが、やっていたのでしょう。もちろん個人としてはくだらない人もいたでしょうが、全体としてはなかなかきちんとやっていた。その上にまた天皇陛下がいたわけです。
 そういう国家をマッカーサーが潰した。しかし日本国民は賢いから、自分たちが正しいと思ったものはきちんと合理的に残しています。いくら国家が潰れようが、東大法学部の権威がなくなろうが、天皇が「働きたい」とおっしゃろうが、しかし「天皇は尊い。こういう方は居ていただいたほうがいい」と思っています。
 と、このように振り返ってみれば、日本では理想主義と現実主義のバランスがけっこう取れています。
 一言でいえば「民度が高いのだ」と私は思っております。
 
 話をトーマス・モアに戻しますが、彼が『ユートピア』という本で、「理想の国があれば」という君主制批判を書いたらばかに当たった。ユートピアというのは「どこにもない」という意味で、英語で言えば「Nowhere」だとは前回述べたとおりです。
 トーマス・モアはぼかして書いたが、幸か不幸かこれが大当たりして、似たようなことを書く人が、次から次へとあらわれました。それは後でマルクスが「ユートピア社会主義」だと、一刀両断に切り捨てる。マルクスによれば「夢物語は何とでも書きなさい。しかし自分のは科学的社会主義である。マルクスより前のものは全部ユートピア社会主義にすぎない。ただの夢物語である。成功する見込みがない」。
 これをマルクスは「社会は階級闘争という歴史法則で動く、ナントカカントカ」と言うが、名前ばかり大げさなんです(笑)。そもそも階級闘争というのがあるかどうかわからないし、歴史法則などというものもあるかどうかわからない。それをまた「科学」と称して、コテコテした読みにくい本を書いた。
 そこから感ぜられるのは怨念だけです。誰でも知っているように彼はユダヤ人です。ユダヤ的思考に加えてマルクス的怨念が噴出して、それを格好つけるとこんな本になるというのがマルクスの著作で、そこで「ユートピア社会主義」と言って切り捨てたので、マルクス以後の「怨念に生きる人たち」はそれを真に受けて、ユートピアに過ぎないとバカにしてしまった。「自分はマルクスを読んだから、それより前の本は読まなくていいのである」と。
 マルクスは「歴史は進歩する」という大ウソを言う。「科学は進歩する」、これも大ウソです。迷惑しているのはマルクスの先輩たちです。
 大ウソだと断言するのは、十五、六歳のときマルクスのこういう考えに疑問を持ったまま、いまだに誰も晴らしてくれないからです。さる事情で高校を退学になり、東大に入ってみて、マルクス信奉の先生とか助教授、助手、それから学生運動家と議論をする機会があった。そこで「なんと子供であるか。『資本論』さえおしまいまで読まずに、よくそんなことを偉そうに言う。これは人間的に欠陥がある」という経験をいくつもした。
 わかりやすい例を言えば、「歴史は階級闘争だ」とスピーチを始めて、「世の中に階級は二つしかない。それはブルジョアジーとプロレタリアの二つであるとマルクスは言っている」と言うから、「マルクスのどこにそんなことが書いてありますか?」と質問した。マルクスが書いているのは、「世の中に階級はたくさんある」と、ちゃんと列挙している。「しかし今ここから議論をするに当たっては、ブルジョアジーとプロレタリアの二つに整理して、この二つだけを取り上げて書く」と言っているので、「世の中に階級はたくさんあるとマルクスは言っている」と言ったら、「え? そんなことは知らなかった」と(笑)。そんな程度の知識で、相手が子供だと思って教えているな、と、こんな経験が二、三回あると、もう教室へ行く気が全然しませんね。学費と時間がムダです。







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