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なぜ日本人は情報の共有化が驚異的か
 この強さを、もうアメリカは一五年前に気がついて、ある人が私のところに来て「日本人はやたらチームをつくる。またそのチーム同士が実に仲よくする。会社の中の情報の共有化が驚異的に進んでいる。これがアメリカには真似ができない。どうしてあんなに情報の共有化ができるのか」と聞くので、私は答えました。日本人の常識を言っているだけですが、「日本人は皆、学歴がだいたい似ている。それから、出身地が違ったからといって大して違わない。しかしちょっと違うというのがおもしろい。会社の中に学校別、出身地別、クラブ別、趣味別、何とか別。それから奥さん同士でのそういうつき合いがまたあって、それが排斥しあわないで横断的にいくらでも情報を流している」。
 技術者で言うと、新日鐵に入ろうが、三菱重工業に入ろうが、何とか先生門下というのがある。門下が先生のところで集まって飲んだり、困ったことがあれば相談に行く。「先生、こういうことで困っております」と言うと、先生がスパイなんです(笑)。「ああ、そうか。それなら住友金属で同じことを悩んでいるよ。君も知っているだろう? 一年先輩のA君が、最近うまくいっているらしいよ」などと言うから、たちまち新日鐵と住友金属とに共通の情報が流れてしまう。恩師がその情報交流センターです。
 私にも同じような経験があります。鈴木武雄さんという財政金融論の先生が、後輩が銀行に入ったり大蔵省に入ったりすると、それを回してよこすのです。「長銀の日下のところへ行って聞いてこい」。教えたら銀行の裏切りになってしまう内容もある(笑)、裏切りにならない程度に、日本のためにと思って教えました。似たような経験が多くの人にあることでしょう。
 「そういう横断的な情報ネットワークが日本にはある」という話を教えると、向こうの人は「いいことを聞いた」と帰っていって、しばらくすると「それを壊す方法を見つけました」と言う。
 何だと思いますか? それがEメールなんです。これをやれば、日本人はお互いに口をきかなくなる、隣にいる人にまでパチパチパチ(笑)。返事が来ないと、「さっき送ったのに、まだ読んでないんですか」と、人間関係が悪くなるばかり。これで日本人はバラバラになってしまう。これが、見事にはまりましたね。だから私はEメールなど使っていることを自慢にするなと言いたいのです。
 
 そう思っていたら、ここへ時々いらっしゃる社長さんが、「自分の会社はEメール禁止にした。立ち上がって直接声をかけに行け、とした」と言ったので、わが意を得ました。出雲市の市長も、市役所は一週間のうちのある曜日はEメール禁止にしたそうです。自分から立ち上がって直接声をかけなさい。市民のところへも自分で行きなさい。電話をかけるより、会いに行きなさい。こんな小さい市役所では、IT革命は市役所を壊す。人間関係を壊す。
 まあ一切使うなとは言えないから、一週間に一日ぐらいは使わないというようなことですが、しかしこういうのは日本の復元力で、日本の底力です。
 そういう人がほうぼうにいる。中小企業の社長とか、村長さんにいて、結局そこから生まれてくるのは、日本とアメリカの折衷型の共同体で、このあたりがなかなか住み心地がいいのだと思います。出入り自由で今までほどきつく縛らない。
 こういう動きが、いろいろあるわけです。
 たとえば国民経済研究協会。昔からあるシンクタンクで、しばらく前に解散しましたが、このシンクタンクは机と電話だけ。それで研究員は自分で稼ぎなさい。自分で注文をとってきて、自分で委託調査をして、新聞でも雑誌寄稿でも何でも活動しなさい。まあ電話代は払いなさいという、机を貸している研究所がありました。
 これを銀行がマネしてつくると、何とか総合研究所といって、上のほうに銀行役員が乗っかる。その給料を稼がせられたのでは下はたまりません。だから、稼ぐ人は外に出てしまって、下には稼げない人ばかり残る。かくてはならじというので、銀行から補給金を入れる。上のほうの幹部の給料は銀行が持つ。下は下で独立採算でやりなさいと言うが、やはりなかなかうまくいかない。もう銀行もくたびれたから研究者全部解散とか、誰か買ってくれとか、そういういろいろな例があるという話になっております。
 あるいは、日本将棋連盟。それから日本棋院という碁の団体がある。どっちも財団法人ですが、あれが機能集団なのか共同体なのか、ミックスしていておもしろいんです。将棋、碁はいくら強くても一人では儲からない(笑)。
 江戸時代は徳川幕府がスポンサーになって、そういう団体を維持してくれた。一年に一遍、将軍の前へ行って碁を打て、将棋を指せというのがあって、それでお金をくれた。それをちょっと競争状態に置いたから、本因坊家とか井上家というのが、それぞれ団体をつくって将軍の前でどっちが強いか、サッカーのチームみたいなものです。
 それで徳川幕府がなくなったから、一挙に収入がなくなりまして、その人たちは財閥の社長のところへ行って、お師匠さんとなった。そこに新聞社が飛びつく。これは正力松太郎が、当時はまだ三流新聞だった読売を引き受けて、これを何とかして有名にするには囲碁対抗戦がいいだろうと考えた。それが当たったものですから、新聞社が囲碁や将棋のスポンサーになりました。
 プロ棋士というのは勝てば儲かるようになっています。そういう意味では機能的なんです。しかし、日本的に人情が入ってきて、負ければゼロではかわいそうだから、段をつける。五段、六段、七段というと月給がつく。そこはお年寄りが、力が落ちてきたときの救済場所で、弱くても七段の月給がつく。つまり仲間の助け合い運動です。
 しかし新聞社にしてみれば、弱い七段の記事を新聞に載せたって誰も読まない。これはと思う人だけ集めてきて、この一〇人だけで打ちなさいとやりたい。
 仲間の助け合い運動もいずれはやれなくなるときが来る。お客に見捨てられたらやれなくなる。そうすると、適正規模というのは、花形のプレーヤーが一〇人ぐらいいれば十分でしょう。その予備軍がまた一〇人ぐらいいれば十分。そういう反共同体的動きがこれから出てくるのではないかと思います。
 
 つまりは、機能集団になったり、共同体になったり、その揺れ動きがある。
 そうした中で、終身雇用も残るところには残るでしょう。
 なぜかというと、まず第一は、日本人は長期契約を好む。アメリカ人は好まないから、向こうではやりたくてもできない。だから、従業員の性質に合わせてということが一つ。
 それから大切なのは、事業分野です。芸術的、文化的、先端的なことをやるのには、どういうチームがいいかというと、一番トップは個人です。ピカソのような芸術家は一人で描くから、最先端は個人がクリエイティブです。
 ただし、ピカソが売れるとなって、注文が山ほど来ると、ピカソ工場というのができて弟子が半分描いてしまう。背景は弟子が描いて、最後の顔だけ先生が描くといったようになる。
 トップは個人、その次はチーム。これを量産してたくさん売ろうというと、会社になってくる。この辺になると終身雇用にしていたほうがムダがなくていい。いちいち人間が出たり入ったりするマーケットには、「マーケットコスト」というのがある。だから、市場の錯誤と言いますが、市場も間違えるわけです。
 マーケット原理が一番いいと言うが、それは独裁主義の権力経済よりはましだという話で、マーケット経済が一番いいのだとは言いきれない。これは時に暴走する。株を見ていればわかりますが、いいから買う、買うから上がる、上がるから買うと、ある日ストンと落ちる。暴走現象があるので、マーケットもいいものではない。人間はそれほど賢いものではない。
 折衷型の半共同体の中では、リーダーという存在が要るのか要らないのかという問題もある。
 本質はさっき言ったように、知能やアイデアのある人が集まって、楽しく働く組織です。盛り上がるための組織ですから、リーダーは要らない。命令する人は要らない。ただし、サポーターは要る。会社の中で縁の下の力持ちをする人は必要だから、それをやろうという人も世の中にはいる。「給料は要りません、あなたの弟子になって、一生おそばで仕えます」という人ですね。要するに才能ある人に憧れて、奉仕したいという人は世の中にたくさんいます。
 これからは、そういう動機でできる会社も増えるのかなと思います。
 
 最後にちょっと思いついたことで、日本とアメリカの違いをこんな点からも説明できます。
 憲法は英語で言うと「Constitution」。これは、国の体質、身について変わらないもの。昔から、一〇〇〇年も前からこうなっているということをConstitutionと言うが、つまり国柄ですね。これを文章にして書き出すと憲法になる。
 ということは、イギリスと日本は、文章にして書き出す必要がない。要するに、島国の中でまとまって暮らしていて、先祖伝来の伝統とか常識がある。伝統や常識のほうが上で、常識はそもそも文章にすることはない。日本国憲法を読んでみると、何でこんなことまで文章にするんだという部分と、もっと当然のことを書いてもいいんじゃないかという部分と、いろいろな疑問が次々と湧いてくる内容ですが、それは文章にする必要のないものを文章にしているからです。
 「押しつけ憲法だから、自分で書こう」と言っているが、書けないでしょう。読売新聞が提案しても、あまり賛成しないし、そもそも反応が弱い。
 というのは、日本はもともと憲法は要らないのです。書き出すのが間違いなのです。
 アメリカは、書いておいてからしょっちゅう改定している。それも変な話ですね。
 日本という国は、法律によって治めることになじまない。そうでなくてもやれる国である。これを若干理屈っぽく言いますと、ローマ法とゲルマン法がある。ローマ法というのは、何でも書き出す法です。書き出したことは尊重して、自分の生活をそれに合わせようと考える。これは、植民地だからですね。ローマの植民地では、それに合わせざるを得ない。そこで、ローマの植民地の国々では、「裁判官の仕事は法の適用だ」と言う。法律を適用する。植民地だったフランスとかドイツでは、裁判官はローマ法を見て、「おまえは罪だ」とローマ法の条文を自分の国に適用するのです。
 ところが、イギリスの裁判官の仕事は違う。「法の発見」なんです。ローマ法なんかを読む必要はない。我がイギリスの国民が何百年間もやってきた自然法というのがある。要するに常識のことです。Common Senseです。それが身についてConstitutionになっている。それを裁判官が発見してしゃべる。裁判官の仕事は、イギリス人の心の底に潜んでいる法の発見である。
 そういう大きな違いがあるんですね。大陸法と島国法の根本的な違いはそこにある。そういうことから言うと、日本はイギリスに近い。







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