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日本国家は無視できないから、日本学生は受け入れた
 そんなことで、アメリカでそういう習慣ができてしまったところへ、日本から留学生が行く。余談を言えば、私の世代で行った人から手紙が来ました。何人も手紙をもらいましたが、彼らが書いているのは「日本人は大事にされる、ユダヤ人はほんとうにかわいそうだ。日本人のほうがよっぽど幸せだ、ユダヤ人よりも大事にしてもらえる。理由は、まだ行ったばかりだからわからないが、しかし、そうなっている。戦争に負けたのに、敵国だったのに、こんなにしてくれる」と書いてある。キリスト教の大学だったら、「これぞユダヤ教とキリスト教の対立に違いない」と書いてある。私は外国人とのつき合いは子供のときからあるので、そんな俗説は信じません。
 一番大きな原因は、日本は国家があるということです。日本国家は強い。だから、日本国家を研究しておかなければいけないし、手なずけなければいけない。帰って偉くなりそうな若者は入れておいて、手なずけようということで、日本の学生を受け入れてくれる。
 日本人は国家を背負っている、日本国家は無視できない。ところが、ユダヤ人は国家がなくて勉強するのは私利私欲のためだけ。自分が出世したいだけの勉強だから、そんなものに奨学金をやる必要はないと言いたいが、まあお医者さんならありがたい・・・。
 しかしユダヤ人は、「ここは大学である。真理の探究がアカデミックの精神である。私はそれをやっています」と言う。
 そのときはっきり「それは違う」と言えばよかったのです。「大学は真理を探究するところではない、我々金持ちの後継者をつくるところだ。特にハーバードはそうである。真理の探究なら他の大学へ行きなさい」と断固として言えばよかったが、何やら寛容の精神を見せているうちに食い込まれて、やがて教授がユダヤ人だらけになって、ハーバード大学はユダヤ的価値観に満ち溢れているところとなってしまった。
 
 さて、学問の真理探究が一番だ、勉強が一番だというところへ日本人の留学生が行ってみると、これは都合がいいのです。日本人は黄色人種だけれどもそれを忘れてくれ、アメリカの敵国だったけれど、そういうことも忘れてくれ。今、この学校では勉強だけで評価を決めてくれ、と思っていると、同じ思いのユダヤ人と仲よくなってしまいます。普通のアメリカ人は遊んでくれないから、大学の中ではユダヤ人と日本人がくっつく。教授もそうだから、孤独な日本人は自然に「ユダヤ精神」に染まってしまう。
 そのとき、「これはユダヤ精神だ」と見分ける教養がある人もいるが、「これがアメリカ精神だ」と思ってしまう人もいます。それから「これがアカデミズムだ」と思ってしまう。
 その先を言うと、日本で根なし草の人と、根が生えている人とは、留学して帰ってきたときの態度が全然違うのです。日本で自分は主流の人間だ、帰ったら日本国をアメリカ以上にしなければいけない、そのための勉強だという人は、むやみにアメリカ礼賛をしない。当然ですね。
 しかし、日本国内では傍流にいる、何とかしてはい上がりたい、それから日本では二流に扱われるので見返してやろうと思ってアメリカへ行ったという人は、アメリカ礼賛論になる。虎の威を借る狐ですね。
 そういう人は、ハーバード帰りだとか、ロンドン帰りだとかをしきりに言います。「ではあなたのドクター論文の中身を話してみてくれ」と言うと言えない人がいる。程度が低いことを自分でもわかっているのではないかと思います。
 というのも、考えてみてください。ドクター論文は二十七、八歳とかで書いている。それを審査して認めてくれる先生は四十歳とか五十歳とかで、もっと若い人もいる。とすれば、社会科学ではそんなに程度が高いはずはない(笑)。子供同士がやっているようなものが大部分です。
 
 なんでそんなに自信を持って言うかというと、私の妹二人、弟一人は博士です。工学博士と文学博士と農学博士ですが、要するにあれは学閥なんです。どこかの先生にくっついて忠勤を励んでいるとくれるらしい。「こういう問題について、こう調べてこい」と言われて、それらしいものを書く。
 近ごろアメリカでは、何やら書き上げるとそれらしく飾ってくれる業者がいるそうです。引用文献とか古典は、今はインターネットのおかげで、一〇〇冊でも揃えるのは簡単です。お金を出せば、専門家が上手に並べて付けてくれる。
 昔はそういう業者がいなかったから、その能力を身につけるのに忙しかった。あるテーマを扱うには、当然引用されていなければいけない文献が二〇か三〇あって、それを並べて書いておく。教授はそこを見ている。その中に自分の書いたものが入っていればなおよしです(笑)。そしてこれをほんとうに読んだかというのが面接試験です。おおむね読んでいて、おおむね心得ていて、この人はあまり変なことはしないだろうと思えば博士号をくれる。
 この段取りがアカデミー・サクセスの形をつくっていくことに注意してください。ドクターになりました、プロフェッサーになりましたと、アカデミックの世界で勝手に五重の塔、六重の塔をつくって、「自分は何番目にいる、あなたがたはまだ下だ」という体裁をつくっている。こんな砂上の楼閣を登ってうれしいかと思いますが、でも、うれしい人がいる。程度の低い人だと思います。または浮かばれない境遇にいる人だと同情します。たとえば女性がそうですが、これは差別する男が悪いのです。
 留学してそんな階段を登る暇があったら、ニューヨークの街を歩き回って、アメリカをじっくり体験して帰ってきたほうがいい。ずっとアメリカで暮らすなら一種のパスポートとして論文を書いてもいいが、日本へ帰ってきて暮らすなら、たくさん遊んできた人の方がいい。そのほうがずっと役に立ちます。そういう日本だったとき、日本は高度成長しました。
 言いたいことは、もっと幅の広い人間になってくださいということです。アカデミー・サクセスは、ほかのサクセスが望めない人が愛用する場合が多いのです。ほかのサクセスより高級とは限っていません。アメリカの経営学の本にこんなことが書いてありました。「一番有能な人はビジネスマンになって金持ちを目指す。それに自信がない人は政治家を志す。それも自信がない人は評論家やマスコミを目指し、それもあきらめた人は学者になる」。
 経営学は一流の学問扱いされないので、経営学者はこんな皮肉を言ったのでしょうが、私はこの考えに同感です。
 
 日本的経営だと、事業改革のスピードが遅いという問題があることは、一応そのとおりです。何回も言っているように、根本は仲間を結成することが先で、そうすると身動きがとれなくなる。まず中途採用ができなくなります。横から入ってきた新参が山分けに参加しては困るわけですから、それは正社員にしない。専門職にしてしまう。ですから、変化への対応が遅れる。外国人の採用と使用がむずかしい。
 それから、日本人自身が変わってきた。これはもう二〇年ぐらい前から顕著ですが、日本の若者がすっかりアメリカ風になって、社長が今までどおりを続けようと思っても続けられない。「老後を楽しみにして働け」と言っても、「いいえ結構です。今、ください」と言われてしまいます(笑)。
 それから、市場もどんどん変化して、会社の主力業務が移っていく。オリックスの宮内義彦さんと話していて感心したのは、もともとオリックスはリース会社です。しかし「我が社はもうリースはやっていません、半分以下です。そうでなければ生き残れません」と言っていましたが、ほんとうにそうです。会社の社名どおりやっている会社は、一〇年するとおかしくなってしまうのです。
 だから、今までのような、若いとき低賃金で働いて、仲間の団結をかたくしてやっていくと会社が発展するというのは、技術進歩が遅い時代の話です。あるいは、マーケットの変化が遅い時代の話です。あるいは、日本経済全体がそういう中進国的場所にいたときの話です。つまり、アメリカのマネを一歩遅れてやっていくようなときは、先端ではないから会社がそんなに目まぐるしく変わる必要がないわけです。
 日本で鉄をつくって輸出しているだけなら、これはそんなに変わる商売ではない。しかし、鉄を加工してトラックをつくるようになるとだいぶ先端に出て、乗用車をつくるとなるとさらに先端へ出る。日本自身がもう、鉄鋼産業国からトラック国になり、乗用車国になり、会社もそうなっていく。変化が激しいところへ立っているわけですから、会社の中もそうなっていくわけで、今までのように一〇年刻みで勤務評定しているようではやっていけないことになります。
 そこで成果主義、実力主義の導入が必要である・・・と、それは一応そのとおりですが、しかし科学的勤務評定の限界と効能を知らなければいけません。それを知らないから失敗してしまう。かえって会社を悪くしてしまいます。
 
 科学的というのは実に不自由なもので、人間が持っている英知の半分も使えない。科学的に書き上げると、最初にあった味やニュアンスが全部落ちてしまう。潤いも落ちてしまう。そう思いませんか? ほんとうにそうですから。私も課長とか部長のとき、部下の勤務評定をしたのですが、本音で言えば最初から評価は直感力でわかっているんです(笑)。
 たとえば、一〇人なら一〇人を一番から一〇番まで並べてみろというと、わりと自信を持って並べられる。それも面白いことに、隣の課長も入れて課長三人で相談することがあるが、それでも一番から一〇番まであまり文句なく並ぶ。隣の課長はこちらの部下の事を詳しく知っているわけではないのに、不思議に意見があう。そういう体験は、皆さん実感として理解できるでしょう。
 これが人間の直感力です。
 あるいは大学教授をしていたとき、大学院を受ける人を面接していました。すると合格か不合格か、面接官三人の意見が簡単に一致するのです。もっと面白いのは、修士論文のときも意見が一致する。そもそも修士論文というのは、何が出てくるかわからないのです。特に社会人大学院だと、書いている人はみんな社会人で、なかには四十歳ぐらいの人もいる。それぞれ自分の仕事から修士論文を出している。すると産婦人科の看護婦さんのちょっと偉い人が出してきた論文なんて、もう我々には見られません。だって、女性のことばかり書いてあるんですから、男が読んでわかるはずもない(笑)。
 正しいか、正しくないかはわかりようがないのですが、しかしこの修士論文の程度が低いとか、高いとかはわかる。そこが不思議です。だから合格か不合格かは、不思議と意見が一致する。
 会社の中の勤務評定でも、相対比較はわりと意見が一致するのです。
 相対比較とは、一番から一〇番まで並べてみろという方式ですね。それを責任感とか、専門能力とか、なんだかんだと細かく項目に分けて、六点、七点、八点とつけて、全部合計して「この人は八八点、こっちの人は八六点、だからこっちが上だ」とやると、「どこかおかしいな」となるものです。先の課長三人での場で言えば、「ほんとうは彼のほうが上だ」と、それも不思議に一致して、そっちが上になるように点数を変えてしまう(笑)。
 科学的勤務評定だったはずが、現場においては意外と非科学的勤務評定である。
 そもそも、そんな点数をつけることのどこが科学的なのですかと言いたいのです。これは物理学か何かのマネをしているだけです。社会科学ではこんなことをやってはいけない。自然科学のマネをする必要はないのです。自然科学のマネをすると、何か進歩したように思うのは勘違いです。







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