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管理職の説明を聞いたら納得しますか?
 日本とは違った管理コストがあることを忘れて、表面だけマネして日本に輸入して、成果主義だとか、減点ではなくて得点主義だとか、何だかんだとやたら管理職の仕事が増えてしまっている(笑)。
 管理職は表をつくって「きみは積極性が足らんぞ」とか、「責任感が足りないぞ」とか、「まだ技術を覚えていないじゃないか」と言わなければいけない。「ここは点数が高いが、この辺の点数はこの程度だから、合わせると五〇〇点だ」と言わなければいけない。
 しかしこれは、人間の頭の働きから言えば、ほんとうはそんな箇条書きにしなくたって、「この社員は五〇〇点だ」とわかっているんです。そういうものでしょう? むしろ説明しなければいけないという変な仕事が増えてしまったのです。
 さて、管理職の説明を聞いたら納得しますか? そんな人は一人もいません(笑)。必ず文句を言います。ごね方もだいたい決まっています。他の人はどうなのか? 私の積極性はなんでこんなに低いのか? あなたはどこを見ていたのか? 私はこういうことをした、積極性は十分ですと言います。内心では「この管理職こそ無能だ。人を見る力がない」などと思っています(笑)。細かく分ければ分けるほど議論が盛り上がってしまって、結局は両方とも不愉快になるのです。
 そのときアメリカのボスのセリフは「あなたはほんとうに立派な人らしい。だけど、この会社にはあなたにふさわしい仕事がない」と、これが一つの答え。もう一つは「私にはそう見えないが、あなたの素晴らしさを見つけてくれる人は他にたくさんいると思うから、他を探しなさい、自分を高く買ってくれるボスは自分で探して歩きなさい。もし、あなたが見つけてきたら、推薦状ぐらいは書いてあげますよ」。
 その推薦状が、日本式だとやたら褒めるのですが、アメリカでは裁判にかかる危険がある(苦笑)。「使ってみたら大したことはない。この推薦状を書いた人を訴える」ということになりますから、簡単には書けない。
 そういう社会コストがかかる。
 ですから、ほんとうにみんな気持ちよく働いていますか? という目で見れば、今までの日本のほうがいい。もちろん悪いこともあるのであって、日本型雇用関係を無条件に礼賛しているのではありません。
 つまり、そのとき、その場、その事情による。それぞれに応じて社長は雇用システムを選びなさい、個人個人も選びなさい、ということを言いたいのです。
 ところが、なぜか知らないが、画一的に日本型雇用関係はもう古いんだ、駄目である、だから潰れる、アメリカ型にやればいいのである、グローバル・スタンダードだ、こっちのほうが合理的だ、こっちのほうが科学的だ―と声高に言う人がいるので、「いいかげんにしなさい」と言いたいのです。本人は科学的だと思っているので困るのですが、合理精神を持っていない人ですね。
 
 それで結局この一〇年間、日本はゴチャゴチャになりまして、しかしゴチャゴチャの中から良いものも出てきた。悪いゴチャゴチャをつくった会社はいっそう早く潰れていく。良いものをつくった会社は、これから伸びていきます。
 実はきのうあたりから『「道徳」という土なくして「経済」の花は咲かず』(祥伝社刊)という本が書店に並び始めたのですが、その本でもちょっと書いたことですが、説明責任とか、箇条書きにしろとか、手続のことをやたらうるさく問題にしたのはアメリカ人の中ではどういう人ですか? と考えてみて下さい。
 アメリカ人全部がそうだと思ってはいけないのです。まずはユダヤ人です。ユダヤ人がそういうことを言って、とうとうそれが勝ってしまった。その結果、アメリカ経済が悪くなった。アメリカ社会もぎくしゃくしてしまった。ただしユダヤ人は住み心地がよくなったと思っています。そういう画期的な新説を、他にも誰か言っているはずですが、ともあれ私は私なりにそう思って書いた。
 ユダヤ人が大量にヨーロッパからアメリカに渡ってきます。そのときは皆、貧乏です。当たり前ですね。そしてやたら理屈を言う、郷に入っても郷に従わない。それでアメリカは手を焼いて、一九二〇年から、これ以上ユダヤ人は来るなと制限する。ついでに日本人も来るなになるのですが。そういう制限をしたということは、やはり迷惑だったからです。この人たちは同化しない、やたら権利ばかり主張するということです。
 ユダヤ人が悪いと言っているわけではないのです。新参入の制限は、いつでも、どこでもあることです。
 さて、同化しない。参入してきたときは貧乏。という人はどうしますか? まずは自分の力で食う。資本が要らないことをする。乳母車みたいなものに自分でつくった弁当とか品物を載せて、ニューヨークの街の中を売り歩く。だから、その頃ユダヤ人といえば行商人だった。それから、だんだん加工のための家内工場が・・・いや、あまり細かく話すと本が売れなくなってしまう(笑)。
 それは冗談ですが、時間が限られているので途中は省略しましょう。やがて生活が確立すると、子供にはアカデミー・サクセスを狙わせるようになる。自分は行商人や大道芸人で、少しお金ができたら高利貸しをやるが、しかし社会の中では見下されているから、なんとかして息子だけは上に上げたい。そのためには、大学へ行って、いい成績を上げるのが一つの道です。他にも道はあります。高利貸しに徹して、ありとあらゆる悪いことをして、金持ちになって見返すというのもあるし、軍隊に入って手柄をたてるというのもあるのですが、“アカデミー・サクセス”という道はわかりやすいですね。
 
 そこで、ハーバードにもユダヤ人が入ってくるが、ハーバード大学は迷惑です。迷惑だという理由は、勉強するからです。ユダヤ人の学生はやたら勉強するから、入学試験を突破するし、そのレベルが上がってしまう。入ってからも勉強するから、奨学金を取ってしまう。それではユダヤ人学校になってしまう。
 ハーバード大学をつくった人たちは、アメリカで経済的に成功した人です。しかし、心の中はイギリスに対する劣等感でいっぱいです。だから金持ちの子はイギリスへ留学に出す。しかし、それではいつまでたってもイギリスの植民地である、アメリカの中でエリートをつくらなければいけない。ハーバード大学を立派にしてイギリス人に負けない子にしたい、というのが建学の精神で、そういう気持ちで寄附をしている。
 彼らが息子に求めているのは、まず社交性です。ヨーロッパ人と話して、気圧されないだけの教養を身につけてもらいたい。向こうがラテン語を使ったときは、こっちもラテン語ぐらい知っているぞでありたい。ローマの歴史を言われたらそれも知っているぞという教養がほしい。そして社交性。向こうの社交界へ行って、ダンスパーティーに行って、ちゃんと女性にもてなければいけない。これは大事なことです。それから、スポーツをして、なかなかやるじゃないかと言われなければいけない。
 そういう人間をつくろうと思っているところへ、ユダヤ人が入ってきて勉強ばかりすると偏差値が上がるものですから、うちの息子が落ちてしまう。ダンスパーティーをする時間がなくなってしまう。
 うちの息子には勉強なんか全然してほしくない、そんなものは教養程度でいい。それよりも、アメリカには次から次へと移民が入ってくるが、その移民を使って自分が支配階級を続けなくてはいけない。そうなる条件は体格が立派で、スポーツができて、声が大きい。そういう息子にしたいのですから、ユダヤ人に負けそうになって勉強ばかりしているのでは困る。そんなものはうちの子には期待していないのです(笑)。
 そういうわけで、ユダヤ人の学生は五%に制限しようとなる。これをクォーター制といいます。少しなら刺激になるからいいというわけですが、これはハーバードに限りません。どこでもやります。ユダヤ人が比較的多いのは医学部です。お医者さんなら、ユダヤ人であれ何であれ専門技術があればよい。次は弁護士です。それで医学部と法学部はユダヤ人比率が高かった。
 
 また話が横へそれますが、東大の天野郁夫さんという人が『試験の社会史』(東京大学出版会刊)という本を書いています。明治時代は東大ではなく帝国大学と言いました。そののち京都ができると京都帝大と東京帝大になりましたが、それ以前は単に帝大です。
 そのときの日本人は、身分が戸籍に書いてあった。華族、士族、それから平民です。もっと上は皇族ですが、これは学習院に行く。就職のときの履歴書にもそれを書いた。私の父は“鳥取県士族”でした。もっと昔は○○藩士族だったらしい。
 ですから、はっきりした統計があるわけで、東大における士族と平民の割合を調べると、医学部は士族が少なくて平民が五割。しかし法学部は士族ばかり。法学部へ行こうという平民はいなかった。明治維新で旗本が失業して、息子を法学部へ入れた。旗本は継がせる家業がないので役人を目指した。
 先ほどからアカデミー・サクセスという話をしていますが、日本の例を見てもアカデミー・サクセスをねらうのは金持ちの子ではありません。金持ちの子は、すでにそちらでサクセスしていますから、慶応へ行く。それは東大を落ちたからではありません。
 さて、クォーター制は面接をする。それでユダヤ人を落としてしまう。これはハーバードに限りません。あの辺の大学全部です。それでユダヤ人は怒る。面接の結果だと言われておとなしく引き下がるようなことでは、祖国を失って二〇〇〇年間も生きのびているはずがない。どういう基準で面接したのか、箇条書きに書いて示せ。あなたにはアカウンタビリティー(説明責任)があると主張する。
 「そんな説明責任はない。これは我々が建学の精神をもってやっている私立大学である。好きなようにやる」と突っぱねればよかったのですが、一歩引いて、説明責任があるように認めてしまったところが間違いのもとです。
 あるいは「面接の基準は、ユダヤ人かどうかである。ユダヤ人を落とすためにやっている」と言ってしまえばよかったのです。「私学だから、国家から補助金をもらっていない。だからうちの大学ではユダヤ人は五%に抑える。ところが、ユダヤ人はユダヤ人だと言わずにもぐり込んでくるから面接する。ユダヤ人の中でも良い人は入れる。それを探すための面接をしている」と最初に言ってしまえば、何でもないことです。
 ところが一九二〇年代、三〇年代ともなるとアメリカ人も上品ぶるようになって、体力満点、成績優秀、至誠従順、調和性も何とか・・・と説明したから、「それなら私は合格です」と言われてしまうのです。







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