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日本は上に行ける社会
 話がそれましたが、言いたいことは、つまり理論を事実で肉づけすると、こういうふうにとんでもない話になってくるのです。だから理論からもう一回現実に戻っていただきたいのです。
 「日本は資本主義ではない。人本主義とでも名をつけたらいいだろう」と、ある研究会でそういう話をしました。一橋大学の伊丹敬之教授が感心して、そのネーミングをくださいと言った。OKしたら立派な本を書かれましたから、ご存知の方も多いと思います。
 富の源泉は人間の労働しかないから、人間が労働している。さて、ここで大事なことは、日本社会では上に行けるということです。やる気になるのは、誰でも頑張れば上に行けるからです。身分差別がない。この辺に住んではいけないとか、大きな家を建ててはいけないとか、絹の着物を着るのは許さないとか、そういう制限が日本にはない。
 ほんとうに民主主義の、素晴らしい国です。だから、金を儲けたら使いでがある。しかも、どんどん名誉もついてくる。息子を良い大学に入れようと思ったら、差別なく入学させてくれる。ヨーロッパでは身分が違ったら入れない。表立ってそうは言いませんが、だいたい身分が違えば言葉が違うから徹底的にバカにされる。だから、そもそも行こうと思わない。
 これを転じて応用すると、日本に福祉政策は要らないという意見になります。そう思いませんか? 頑張れば誰でも偉くなれる社会ですから、上からの恩恵や慈悲は不要です。それをなんでヨーロッパのような福祉政策をするのか。あちらはいくら働いたって頑張ったって偉くさせない社会だから、「せめてゆっくり休んでひなたぼっこでもしなさい。大学に行って勉強して理屈を言うような人間になってはいけませんよ」ということに対する補填なのです。頑張っても上に上がれないことを怒って下々が暴れないために、生活保護とか高齢者年金とか、病気はタダで治すとか、福祉政策をやっているわけですね。
 日本は上になりたいと思えば努力でなれるし、下で暮らそうと思えば福祉がある。両方あるとは世界一幸福な国です。そこで「入国管理」と「累進所得税」と「相続税」があってバランスしています。つまり、経済的には上に行けない税制と、下になるのはイヤだという中流精神があります。その中流が「勤勉」によって自らを支えていることが、日本社会の前提です。
 
 話を戻しますが、日本の会社はまず協業の成立があり、そこから日本資本主義、というより日本人本主義が出発します。
 では、なんで日本はそんなに無理してまで工業化したのかということです。ちょうど今年が日露戦争百周年ですけれども、大砲と軍艦がなければ奴隷にされてしまう。自分でもつくらなければいけないし、外国から最新式を買ってこなければいけない。買ってくる金は絹とお茶をアメリカへ輸出して儲けたドルです。
 それで機械を買って、なんとか工業化をしたところへ第一次世界大戦が起こる。先輩の国が共食い戦争を始めましたので、突然、山ほどの注文が日本に来た。それで潤ったのが、横浜、川崎、名古屋、神戸、大阪の町工場です。あの辺が大いに注文を受け、アジア各地、中国、インド、南米へ売りまくった。今から見ると軽工業商品です。マッチ、ゴム製品、ミシン、自転車、石けん、あとは繊維製品です。海運業も大発展して、成金がたくさん生まれました。
 そのとき資本がちょっとできた。機械も自分たちでつくるようになりました。自力による工業化が少し始まりました。
 しかし第一次世界大戦が終わると、バブルが弾けます。イギリスやアメリカが戻ってきて、その勢力圏では「日本の品物は買わない」と猛烈な関税をかける。日本製品は締め出しを食らう。アメリカは南米にも手を伸ばして、「日本製の自転車を買うな。アメリカ製の自転車を買え」と圧力をかける。これが支配のうまみです。つまり、経済が純粋にマーケットで動くなどはめったにないことで、武力とか権力によるごり押しがともなっている。日本は南米から締め出され、中国からも締め出され、アジア各地からも締め出され、良いものを安くつくっても買ってくれない、と知って愕然とする。“自由貿易”は空証文だと悟った。
 そこで、日本にナショナリズムが起こってくる。
 これが、今とよく似ているでしょうと言いたいのです。
 アメリカが保護貿易になって日本を締め出そうとすると、日本にはナショナリズムが起こってくる。先日そこの外国人記者クラブで、「最近の日本のナショナリズムについてどう思うか」と聞かれたので、「ああ、それはアメリカ次第です。日本人がどうこうすると考えるのは間違いです。アメリカの反映です。アメリカがフェアなときは、日本人はフェアです。アメリカがアンフェアなとき、こちらも仕方なくナショナリズムになる。うそだと思うなら、フェアに戻ってごらんなさい。日本はすぐフェアに戻りますよ」と言うと、みんな不愉快な顔をして絶対記事にしてくれない(笑)。
 それはともかく、第一次大戦中に国内でもマーケットが拡大いたしました。たとえば明治時代は一部の貴族趣味の人がイギリス製のタイルを買ってきて、それを張り詰めてお風呂をつくったのがかなり一般化して、そこで国産のタイルが登場する。国産のラジオ、電球、電車、オートバイ、それから医薬品や化粧品など。つまり国内マーケットが発達してきた。
 
 その工業化の発展ぶりを、マルクス主義の学者は思いきり悪く言いました。ある本を読むと「一九二〇年から一九三〇年にかけての一〇年間、日本資本主義は、恐慌から恐慌へとよろめき進んだ」「息も絶え絶えに」などと書いてある。
 先に文章で読むから「そうか」と思うが、実際に統計を見ると、工業出荷高はその一〇年間で倍になっている。しかもそれは、不景気のときですよ。第一次大戦が終わったとき、二五〇〇あった日本の銀行が、バタバタとつぶれて一〇〇〇にまで減る。それを文学的に表現すれば「息も絶え絶え」かもしれないが、銀行の数は半分以下に減ったけれども、工業出荷高はきちんと一〇年間で倍になっている。それから総預金量はほとんど同じです。この辺も今と似ていますね。
 実はそんな本を書いている人の中に、東大で教えていた先生が何人かいたので、よく覚えています。
 その先生方に同情するとすれば、彼らも商売で本を書いている。当時は岩波書店から出版すると一流ですが、岩波書店から出版するためにはこう書かなければ出してもらえないという事情がある。もっと気の毒な先生は、息子がソ連に抑留されて帰ってこない。シベリアにいるはずである。だから、息子が生きて帰るようにと思ってスターリン礼賛を書いていた。「学者というのは、そういうことに関係なく信念と真理に生きる・・・」と思うが、やっぱり親だから仕方がないと教えられる学生の方も悩んでいた。
 やがて、答えが出たのです。シベリアに六〇万人抑留した日本兵は、向こうの発表では六万人が死にました。「もう、これで残りはありません。全部を帰しました」となったが、息子さんは帰ってこなかった。爾来、その先生は急にスターリンを礼賛しなくなった。計画経済を礼賛しなくなった。ああ、やっぱり学者の道もつらいものだな、と思った個人的体験がございますが、それはともかく様々な事情で日本経済は悪い悪いと批判されていた。
 しかし日本の工業化は、結構きちんと進んでいたのです。底力がありますからね。そのころ日本は農民が人口の五割から六割ですが、この人たちが勉強熱心でした。自分の工夫で工業化もやり、サービス産業もやり、どんどん日本を大きくしました。そこで銀行借り入れがその頃大活躍をしたのですが、しすぎたためにバブルになってやがて昭和恐慌です。昭和恐慌の統計を見ると、銀行が悲惨なのです。生産はそんなことはない。だから、大恐慌だったと言いますが、本質は金融恐慌です。少なくとも生産恐慌ではない。社会恐慌かどうかは議論の余地がありますが、そのときいつも出てくる話は、農村は貧乏で娘を売ったという話と、東京大学を出たけれど就職がなかったという話で、なんだ、それだけか・・・と考える態度が必要です。
 あのときの就職率を見るとおもしろいのです。断然就職がいいのは一橋大学です。東京大学の法経は卒業して一年以内に就職している率が四割から五割というところです。一橋だけ六割から七割あった。慶応はもっとひどくて三割ぐらいしか就職していない。これを社会恐慌というわけですが、しかし「それはインテリの場合だろう」と言いたい。インテリがインテリの話を書いて、偉そうに岩波書店から出版して、「ひどい目に遭った」と言っている。つまり社会恐慌というよりは、インテリ恐慌である(笑)。学者ならもっと冷静客観的にやってもらいたいと思います。
 そもそも学校出は一割くらいしかいなかったのが、急膨張して二割になった挙げ句の就職難ですから、教育事情の方も調べる必要があります。これも今と同じです。娘を売った話の解説はまたいつかいたします。
 
 さて、低賃金でがんばって銀行借り入れを返済し、仲間の団結がかたくて協業するという話に戻れば、ここで出てくる問題は、後から中途採用ができないという話です。
 あとから仲間を入れると、「おまえは別だ」になる。「苦しいとき一緒に低賃金で頑張ってないんだから、おまえには老後の報酬をやらなくてもいい」「老後の報酬が欲しいなら、当分低賃金で働け」ということです。それがイヤなら自分で新鋭機械を買ってきて自分でそれを返済して、それで老後ラクをしなさいになる。おもしろいことに、機械の寿命は大体三〇年。最近はもっと早いと言いますが、だましだまし使えば機械は三〇年使える。ジャンボという旅客機を見ればわかる。人生五〇年の時代なら、だいたい人の一生です。つまり「終身雇用」と対応している。
 最初は償却を、つまり銀行返済をする。だいたい一〇年で終わる。あと二〇年は、もう銀行に返済する必要はない。完全に自分のもの。しかし機械は動くのですから、十分利益が出る。その部分を、みんなでボーナス、退職金、あるいは役員になったらゴルフ三昧・・・と、そういう仕組みなんです。後輩には、「また自分で働け」と言う。
 これで最近流行の「経営責任」とか「説明責任」とか「株主権」「代表訴訟」などが、いかに日本の現実に合わないかがわかります。日本の会社はおしなべて過小資本で過剰借り入れで、つまり株主はいないのです。
 そこで出てくることは、後輩の発言権が非常に強いということで、前回少し触れましたが、これが日本型経営の特徴です。アメリカ人がびっくりするのは、「ボスがいない。社長は働いていない。ゴルフばっかりして、頭の中はからっぽだ。それなのに、どうして日本の会社は黒字なんだ」ですが、それは、下がやってくれるからです。「下がそんなに働くのか?」「イエス。それはカンパニー・ロイヤルティで、つまり会社忠誠心」と言うと、「おかしい話だ。会社にそんな忠義の心を持つとは、変な民族だ」と言う。それを真に受けて帰った日本の学者が、「これは江戸時代の大名、侍、武士道に淵源がある。日本の会社は藩である」などと書くからますます話が混乱してしまう(笑)。
 違うのです。下は下で、また新しい会社をやっている。会社名は同じかもしれないが、要するにひさしを借りて、自分の老後は自分が新しくつくっている。
 だから勤勉なのであって、「カンパニー・ロイヤルティ」と言うけれど、正確には「自分の世代ロイヤルティ」です。自分の前後一〇年間ぐらいで新しい会社をやっている。その上の一〇年は、ほとんどリタイアしている。「それはあなたがたの権利です。あなたがたには会社を食い物にする権利がある。不正だなどとは言いません。どうぞ、遊んでください。そのかわり、私たちの仕事には口出ししないでください」ということです。







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