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(2)東南アジアにおける海上治安組織創設の動き
 
 東南アジアで現在、海軍から分離して統一的なコーストガード組織を持つのはフィリピンだけである。フィリピン・コーストガード(PCG)は1998年に創設され、職員は約4000人。創設理由として、利権や汚職によって海軍が効率的に機能しなくなったこと、イスラム武装組織の「モロ・イスラム解放戦線」など反政府勢力が島々に拠点を持ち、軍事組織によるパトロールでは緊張を高めてしまうことなどがあるが、海軍と分離することで日本など外国からの政府開発援助(ODA)を受けやすくするという実利的な側面も無視できない。
 海上保安庁は2000年4月に東京で開催された「海賊対策国際会議」を機に、アジア諸国との連携協力をはじめたが、すでに述べたとおり、PCGに対しては、2002年から5カ年計画の「フィリピン海上保安人材育成プロジェクト」を行っている。
 PCGに常駐するのは日本だけだが、アメリカの沿岸警備隊が定期的に不審船の停止、臨検の訓練を行っているほか、オーストラリア、ニュージーランドなども技術協力を進めている。
 PCG教育訓練局で新任海上保安官の教育にあたる女性幹部は「PCGの予算はいつも不足しており、外国からの協力でまかなっている。懸案のPCG学校建設も外国の支援を期待している」と語るように、PCGは援助頼みなのが実情だ。日本も訓練用高速艇、潜水訓練用プール、油防除機材、コンピューターなどを提供した。ただ、フィリピン側の思惑がどうであれ、PCG創設によって日本が海上治安協力に積極的にアプローチできる土俵が生まれたことの意義は大きい。
 2004年11月15日から12月10日まで、JICAと海上保安庁が協力してマニラでPCGの若手士官を対象にした法令励行訓練研修が行われた。不審船舶の臨検、麻薬の押収と犯人逮捕術など事件捜査の指導もあり、PCGの士官だけでなく麻薬取締局、国家捜査局、海上警察からも担当者が参加した。海上保安庁の協力の裾野が広がることで、海上治安協力の効果は高くなることが期待される28
 フィリピンだけではない。マレーシアでは海上保安庁をモデルにした「海事執行庁」の設立準備が進み、2005年6月にも正式の運用が開始される。インドネシアも海上治安活動の統合化に向けた「海上治安調整機構」の設置構想が上がっている。
 マレーシアの場合、海事執行庁は首相府直属の機関で、約300人規模でスタートする。海上保安庁は2004年7月から2005年3月までJICAの短期専門家として職員1人を派遣しており、4月からは長期(2年間)専門家1人を派遣して組織運営を手助けする予定だ。興味深いのは、米沿岸警備隊もセミナー開催などで海事執行庁の設立を支援していることだ。
 前節でマレーシアはアメリカの軍事プレゼンスに反発していると書いた。現実の流れとしてはそうなのであるが、実は「反米」で単純化できない。マレーシアの海事執行庁の位置づけを考えるうえでは、タイ陸軍のナパラット少将(軍事外交を担当)がイラク戦争中の2003年4月に、次のような秘話を語ったことが参考になる。
 「マレーシア軍はボルネオ島に平和維持活動(PKO)センターをつくり、そこを地域の軍事交流の拠点にし、『コブラ・ゴールド』にも正式参加して米軍を含めた多国間協力を進めたい、との意向を私に伝えてきた。米軍もマレーシア軍の能力を評価し、PKOセンターを核にして交流を深めたいとの希望だった。当時すでに、マハティール首相が対テロ戦争でアメリカを非難していたにもかかわらずだ。マレーシアの反米色が強まる一方で、私が仲介する形で米軍とマレーシア軍は協力に向けた交渉を続けた。最終的にマハティール首相がイラク開戦直前に『コブラ・ゴールド』の正式参加の中止とオブザーバーでの不参加を決断したが、マレーシア軍首脳はあきらめきれない様子だった」。
 海事執行庁に対する米沿岸警備隊の協力も、ナパラット少将の発言内容に則していえば、不自然ではない。アメリカでの同時多発テロ以後、「テロの第二戦線」と名指しされた東南アジア諸国は、アメリカからテロ対策を強化するよう求められているが、そうしたアメリカの姿勢への反発を強める一方、アメリカをある程度満足させることでアメリカのあからさまな批判を避ける「距離感を図る外交」を続けている29
 アメリカが懸念を強めるマラッカ海峡での海賊の横行に関していえば、アメリカの技術協力や人材育成を受け入れて能力の高い組織を目指していることを示し、「地域海洋安全保障構想(RMSI)」には、アメリカの介入圧力を封じたいという思惑を見てとれる。アメリカだけでなく日本など主要各国の支援が得られれば、反米世論を刺激せず、アメリカの批判も受けないという利点がある。海軍から分離する海上治安組織設立には、そうした背景も垣間見える。
 
(3)重要性増す日本の役割:幹部育成を通じた人的ネットワーク形成へ
 
 これまで見てきたように、東南アジア海域における海賊・海上テロ対策の地域協力は、(1)各国の軍レベルの信頼醸成が不十分、(2)米軍との2国間協力を推進するシンガポール、フィリピン、タイと、そうでない国々との協力が、対米世論や米軍の軍事行動(イラク戦争など)の影響を受けて難しい、(3)軍の利権、汚職の構造的問題のため効率的な海上治安活動が出来ない――などの理由で軍事面でのアプローチができない。
 これに対して、海軍から分離した海上治安組織は、これら問題をクリアするだけでなく、日本が積極的に海の安全に貢献できる素地を提供する。日本は各国の海上治安組織設立を後押しし、「北太平洋地域海上保安機関長官級会合」のような「対等のパートナー」に基づく地域協力体制を構築することが望ましい。
 そのためには、日本がPCGに対して行っている人材育成プロジェクトを強化することが肝要である。同プロジェクトを統括する前出の田中耕蔵氏はPCGの育成を「マイナスからのスタートだった」と指摘する。2002年に同プロジェクトを開始したとき、PCGの初任士官研修は2カ月だった。日本の海上保安大学校の場合は4年半である。わずか2カ月では部下を率いる能力はおろか、本人の規律さえ教え込めない。このため研修期間を8カ月にし、教材や教育カリキュラムも全面的に改定した。
 PCGは1998年に海軍から分離した。現在は商船大学卒業生などを新規採用しているが、海軍から移籍した幹部職員も多い。昇進するにつれて利権を得て、規律を失っていく軍の構造的体質をPCGに持ち込まないためには、新規採用した若手士官に新しい組織文化、組織DNA(遺伝子)を導入し、それを引き継がせて自己増殖させることが重要だ。
 日本に研修で訪れたことのある若手士官たちのあいだでは、「日本からプロフェッショナリズムを学んだ。それを部下にも教えているが、問題は上司だ。上司にプロフェッショナリズムの意識がなければ、せっかくの人材育成も組織に浸透しない」と指摘する声が多い。このため人材育成には、シニア幹部を対象にした「次の指導者の育成」も必要だ。
 若手士官、シニア幹部、次の指導者と同時並行的な、しかも切れ目のない支援がコーストガードの新しい組織文化形成に不可欠である。日本によるPCGへの人材育成プロジェクトは2007年に終了する。引き続き、同プロジェクトの実施を求めたいが、日本の公的支援の制度上、同じ内容のプロジェクトを継続することはできない。マンパワーが不足している現状から地域社会とPCGの協力支援など知恵を働かせて、どう継続させるかという工夫も必要になってくる。
 人材育成の継続が重要なのは、規律に基づく組織形成という観点からだけでなく、日本にとって人的ネットワークの維持・拡充が地域協力を容易にする側面があるからだ。その好例を日印関係に見いだすことができる。2004年12月26日のインド洋大津波で、インド領のアンダマン・ニコバル諸島も大きな被害を受けた。インド沿岸警備隊の同諸島管区司令官は、海上保安庁との連携訓練のため来日したことがあり、沿岸警備隊きっての親日家である。
 海上保安庁は津波直後、この管区司令官に連絡して、いち早く現地の被害状況を把握した。いつでも必要な時に連絡を取り合える関係は、海上治安協力において重要であることはいうまでもない。なお、同諸島では震源地に近く地震の揺れを感じ、管区司令官は津波を予想してただちに船艇を沖合に出し、沿岸警備隊には船艇はもちろん人員にも被害はなかった。
 マレーシアは、「日本の海上保安官と接して技能を肌で感じたい」と要望し、2003年7月、マレーシア沖で巡視船「やしま」にマレーシア海上警察と税関から5人を乗船させ、4日間、船内で「やしま」の乗務員と生活した。この体験乗船をきっかけにマレーシア代表団が来日し、海上保安庁や人事院などを視察し、「海事執行庁」の新設を加速化させた経緯がある。
 以上見てきたように、軍隊を中心とした海賊・テロ対策の推進には限界があるなか、日本の海上保安庁は、アジア各国の海上保安機関との連携・協力に重要な役割を演じようとしている。しかし、アジア諸国のなかで海上治安に関わる統一的な指揮命令系統を持つ国はフィリピン以外になく、海上保安庁が主導するアジア連携を難しくしているのが現状だ。アジアの連携をいっそう促進するためには、各国に軍事組織から独立した海上保安組織を作ることが何よりも急務である。その際に、カギとなるのが次代をになう優秀な人材の育成なのである。
 

28 PCGに関する記述は、2004年12月8から10日、島国連携プロジェクトによるマニラ出張での取材に基づく。
29 「距離感を図る外交」は、2001年9月のアメリカの同時多発テロ以後、東南アジアの主要国の治安当局者らから小松健一氏が聞いたものである。例えば、タイでは、連邦捜査局(FBI)からバンコクのドンムアン国際空港での出入国管理について、「かなり高圧的な要求を受けた」(タイ国家警察幹部)という。FBIからテロリストと疑われる人物のリストを得ていたのに、リスト記載人物がタイに入国したことに関して、FBI側が入国管理業務を統括する国家警察をなじったこともあった。国家警察側は「タイの法制度で身柄を拘束できない。しかし入国後の行動を確認している」といい返した。一方で、FBIによる国家警察職員の研修を受け入れ、一定の協力関係を維持した。国家警察幹部は小松健一氏のインタビューに対して、「アメリカがタイへの渡航延期情報などを出されるのがいやだった。アメリカには反感を持っていたが、アメリカの協力を導入しないと、治安対策で非難され、観光産業にも影響するし、我々のプライドも傷つけられる」との心情を吐露した。







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