また、先にあげた藤島亥治郎氏の論考(注11)では、明治二七年まで歌舞伎が行われていたとあったが、もしそうであるならば、人形芝居は、歌舞伎以前に行われていたのではないだろうか。
江戸時代の芸能の歴史的な流れを見ると、江戸時代後半には人形芝居に代わって歌舞伎が盛んになっていく。かつて「操り段々流行して。歌舞伎は無が如し。芝居表は数百本ののぼり進物等数をしらず。東豊竹。西竹本と相撲の如く。東西に別れ。町中近国ひいきをなし。操りのはんじやう。いはんかたなし。」(注12)と言われた人形芝居の人気も、歌舞伎にその地位を奪われていくのである。この傾向は中央に限らず地方にも波及する。
全国のかしらの調査を行っていくと、人形のかしらが残っている土地に歌舞伎も残っている場合が多い(注13)のは地方でも歌舞伎が人形芝居にとって代る一つの傾向を示しているのではないだろうか(注14)。したがって、親沢の人形芝居のかしらと歌舞伎の関係も同様のことが言えるように思う。親沢の人形芝居のかしらは、この地の歌舞伎の前に行われていた人形芝居のかしらという見方ができるのではないだろうか。
先にあげたような特徴を持つかしらは全国的に見て少ない。
親沢人形芝居のかしらは、人形芝居の操り方の発展過程を考える上での貴重な資料といえる。
注
注1 加納克己著『下長磯操翁式三番叟かしら調査報告書』(下長磯操翁式三番叟保存会 平成一三年一一月)五頁には、「調査の時に氏子(稲荷神社氏子 筆者注)の小山市郎氏がこんなのが家にあったといって持参されたのは、検非違使(中略)であった。」とあり、同書一五頁に新たに発見されたかしらの写真及び法量等を掲載。
注2 小田木の場合、三番叟のかしらと白尉黒尉面は八幡神社に、その他のかしらは稲武町郷土資料館に所蔵されている。
注4 藤島亥治郎著「信濃古建築五論」。未見。「親沢の舞台について」の項のみ抜粋し、公民館シリーズ第一集『村の三番叟と獅子舞』(小海町役場 昭和三一年二月)一一〜一五頁に転載されている。
注5 古浄瑠璃とは、江戸時代を代表する浄瑠璃作者近松門左衛門(一六五三〜一七二四)と浄瑠璃大夫竹本義太夫が連携して新たな浄瑠璃作品を作る前の、古流の浄瑠璃をいう。剛勇な金平(坂田金時の子)が悪人を倒すという話を描く金平浄瑠璃や、神仏の霊験を主題とする哀切な語り物である説経浄瑠璃などがある。斎藤清二郎氏の言う古浄瑠璃首とは、このような古浄瑠璃を演じるかしらという意味と思われる。
注6 『飯田市美術博物館調査報告書1 伊那谷の人形芝居 かしら目録台帳』(飯田市美術博物館 平成三年三月)、一〇七〜一一〇頁にかしら写真、一七五〜一七八頁に基礎データ表が掲載されている。
注7 ガラス目は明治二五、六年ごろ初代天狗久が考案したという。初代天狗久は本名吉岡久吉、安政五年五月二一日徳島市国府町生まれ、一六歳で和田の人形富に弟子入り、一〇年後天狗久で独立。ガラス目の考案など阿波人形が写実的になったのはこの人の作品からという。昭和一八年一二月二〇日没、八六歳。天狗久は三代まで。二代目天狗久こと吉岡要は初代天狗久の長女しげりの女婿で、大正四年七月一〇日三六歳で早逝。三代目天狗久こと吉岡治は二代目天狗久吉岡要の次男、祖父のもとで修行。昭和五三年一〇月三〇日六六歳で急死。久米惣七著・阿波木偶製作保存会編『阿波の人形師と人形芝居総覧』(創思社出版 昭和六三年五月)一三六〜一四〇頁、一九五〜一九六頁より。
注9 杉野橘太郎「江戸系三人遣い人形の偃歯首と山之口麓の文弥節人形浄瑠璃―発見と調査―」(『早稲田商学』第二〇一号別冊 昭和四三年六月)一四九頁。
注10 前掲注6、一九九頁。間狂言とは注5の近松以前、浄瑠璃上演時、浄瑠璃と浄瑠璃の間に演じられた滑稽な寸劇。のろま人形は間狂言に用いられたかしらで、現在は新潟県の佐渡等に残る。私見ではかしら番号38等がそれに当たると思われる。
注11 前掲注4。
注12 『浄瑠璃譜』延享二年(一八一五)の記事。『帝国文庫 近松世話浄瑠璃集』(博文館 昭和三年七月)七〇七頁。人形浄瑠璃の方が人気で、歌舞伎はないも同じだという意味。
注13 愛知県の奥三河の地には北設楽郡稲武町に小田木人形が、南設楽郡鳳来町に大室神社の人形が残るが、両所中間辺りの設楽町田峯では田峯歌舞伎が行われている。神奈川県の相模人形芝居の伝承地には大谷歌舞伎(海老名市)、入谷歌舞伎(座間市)があり、歌舞伎を行っている。また厚木市の弥生劇団という歌舞伎一座も近年まで上演を行っていた。長野県の人形座が集中している伊那谷では大鹿歌舞伎が行われている。相模人形芝居や伊那谷には、現在も盛んに活動している座が多く、現在は歌舞伎と人形芝居が並存する状況も見られる。
注14 長野県上伊那郡箕輪町の古田人形では、「寛保三年から五二年続いた祭礼操りが、狂言(歌舞伎 筆者注)を演じたいという若者と対立した」ということがあった。同じく古田の唐沢家の文書(「壱番年々日記」)によると、寛政一〇年「八月九日祭礼に狂言あり操りは休み」とあり、操りが歌舞伎に圧倒されていく様子が伺える。前掲注
6、二一九頁及び『飯田市美術博物館調査報告書2 伊那谷の人形芝居〔文書目録編〕』(飯田市美術博物館 平成八年三月)一四三頁。
凡例
・以下の資料は、井出三彦家所蔵(平成一七年現在)親沢の三番叟のかしらと小海町総合センター所蔵の親沢人形芝居のかしらである。計三九点。親沢の三番叟のかしらは大江巳之助作とそれ以前から伝わる一組を掲載し、新作は取り上げていない。二〇〇一年三月二六日親沢の三番叟のかしらは親沢区の集会所にて調査、親沢人形芝居のかしらは当時の所蔵場所であった小海町公民館にて調査、下記のデータはその調査結果をもとにしている。
・かしらは、1、2・・・と調査順に従って番号を付す。
・主なデータは、名称・寸法・材質・塗色・毛髪・うなづき形式・機巧・銘・記号・顔仰角等である。これらをわかる範囲で記す。
・かしらの名称は、現地での呼び名がある場合はそれを用いる。他は斎藤清二郎氏の解説にある名称を参考に、現行の人形浄瑠璃に当てはめ、筆者が付した。但し、独得の作風で、当てはめにくいかしらもあったことを記しておく。
・かしらの寸法の単位はcmである。
・かしらの寸法は面長と面幅を挙げている。面長は頭頂部から顎下までを、面幅は左右の耳下で計測した長さである。
・材質は目視して判断したものである。
・塗色は、色の濃さに従って、白、薄玉、玉子、濃玉と表示する。
・毛髪は植毛・ズラ・彫付の別を記す。
・うなづきは、かしら内部からきているうなづきの糸を引いたり緩めたりすることで操作する。主なうなづきの形式には、「引栓式」、「小猿式」、「ブラリ式」、「偃歯棒式」がある。各々のうなづき形式については「五、親沢の人形三番叟の特徴と価値」、二三〜二六頁の中で詳述している。そちらを ご参照いただきたい。
・かしらには、目や眉・口等が動く機巧がある場合がある。機巧欄にその機巧を記す。
・かしらには銘が記されている場合がある。役名・記号はかしら内及びのど木内側にある。それらは備考欄に記す。解読不能な文字は□で表した。
・顔仰角はうなづきの糸を引いた時、直立させた胴串と平行に引いたラインに対してできる顔正面の仰角のことである。顔仰角は操り方と関連がある。胴串が欠けている場合厳密には計測できないが、角度があると判断できた場合のみ、備考欄に★で示した。
・その他特記事項を備考欄に記す。
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