日本財団 図書館


 次に、地方の人形浄瑠璃のかしらに多い「小猿式」といううなづき形式がある。この「小猿式」は、胴串の前に、うなづきの糸を付けた小猿(小さな木片)の一方が固定してあり、その小猿を動かすことで小猿を動かした分だけうなづきの糸を引くことができる。「引栓式」に比べるとうなづきの動きは粗く、人形表現上は大きくはっきりした動きになる。技術的には、小猿の一方が固定されているので、比較的扱い易く、地方の人形浄瑠璃で多く用いられている所以である。「小猿式」かしらは、本来小猿に指を掛けてうなづきの糸を最大に引くと、人形の顔がやや上向きになるかしらである。遣う時には、胴串(握り手)を握った左腕を前方に突き出す構えで遣うのが本来の遣い方である。この構えは鉄砲を構える形に似ていることから、鉄砲ざし(注3)という呼び名がある。地方に広く分布するかしらの数ではこの形式のかしらがもっとも多い。
 また、「小猿式」同様の表現効果を持つうなづき形式に「ブラリ式(引玉式)」がある。近代の阿波・淡路のかしらがそれである。近代の阿波・淡路の興行範囲であったと思われる四国・九州等西日本に多く見られる。「ブラリ式(引玉式)」は、胴串には溝も小猿もなく、うなづきの糸の先に紙や布を玉状にしたものを付けているだけである。玉状のものを指と指の内側に掛け、うなづきの糸を引くことで頷かせる形式である。阿波・淡路のかしらは、「ブラリ式(引玉式)」になる以前は「小猿式」だったと言われており(注4)、「小猿式」の変形との見方もできる。表現効果においても「小猿式」と同系のうなづき形式といえよう。
 そして、四番目にあげるうなづき形式は「偃歯(えんば)棒式」といううなづき形式である(注5)。かしらの中に偃歯のバネが細工されている先の三形式とは異なり、かしら内後部に付いた棒を引くことで頷かせる形式である。うなづきの糸ならぬ棒が偃歯製なのでこの名称がある。偃歯という鯨の口中にあるヒゲはバネにも用いられることからもわかるように、弾力がある。このようなうなづきの棒を引いて頷かせる形式は、表現効果の面から言うときわめて素朴な形式である。分布は全国に及ぶが、数量は少ない。しかも、多くはかしらにその形跡は残すものの、作り変えられている場合が多く、完全な形をとどめているものはきわめて少ない。作り変えられている場合、多くは「小猿式」「ブラリ式(引玉式)」に変えられており、うなづき形式の前後関係を考える上でも、注目すべきうなづき形式である。
 以上の四つのうなづき形式には、歴史的な前後関係があると考えられる。
 理由等の詳細を述べることは省くが(注6)、「引栓式」の前の段階に「小猿式」があり(注7)、更にその前の段階に「偃歯棒式」があるのではないかと考えているところである。
 
 では、全国の人形式三番のかしらは、どのうなづき形式を持つのであろうか。先にあげた人形式三番のかしらのうなづき形式を見てみる。
 
引栓式
行合人形の三番叟かしら
小猿式
仁科の千歳(娘)・翁・三番叟(二点)、海名野の三番叟(一点)、中伊豆町の三番叟、子浦の三番叟(二点)、江の浦津島神社の千歳・翁・三番叟、重寺の千歳・翁・三番叟、駒門の千歳・翁・三番叟
ブラリ式(引玉式)
国立歴史民俗博物館の阿波人形コレクションにある三番叟、米倉の三番叟、付知の三番叟、宮水文楽の三番叟、秋葉新楽座の千歳・翁
偃歯棒式
赤城神社の三番叟(かしらと胴串を繋ぐかま木が折れている)、親沢の千代・翁・三番叟
偃歯棒式→小猿式
海名野の三番叟(一点)、仁杉の三番叟、塚原の三番叟
偃歯棒式→ブラリ式(引玉式)
津久田人形の三番叟、下長磯の三番叟(本番用)、米倉の千歳・翁、神明人形の三番叟、秋葉新楽座の三番叟、三木文庫の三番叟(二点)、松茂町歴史民俗資料館の三番叟
偃歯棒式→引栓式
出牛人形の三番叟、下長磯の三番叟(練習用)
うなづきなし
国立歴史民俗博物館の阿波人形コレクションにある一番叟(千歳)・二番叟(翁)、下長磯の千歳・翁(本番用)、赤城神社の千歳・翁、海名野の千歳・翁(二組)、中伊豆町の千歳・翁、子浦の千歳・翁、中清水の千歳・翁、仁杉の千歳・翁、塚原の千歳・翁、付知の千歳・翁、音羽赤坂の三番叟、神明人形の千歳・翁、宮水文楽の千歳・翁、三木文庫の千歳・翁、松茂町歴史民俗資料館の千歳・翁
 
 ごらんのように、千歳・翁はうなづきのないかしらが多いが、三番叟はほぼすべてのかしらにうなづきがある。更に付け加えると、三番叟のかしらは主に赤系の色彩を持ち、ほぼすべてに目が返り口が開く仕掛けが施されている。
 三番叟のうなづき形式は「小猿式」や「ブラリ式(引玉式)」も多いが、「偃歯棒式」の形跡を残すものが多い。しかし、「ブラリ式(引玉式)」「小猿式」に改変されているものが多く、完全な形の「偃歯棒式」を破損もなく保持しているのは親沢のかしらだけである(注8)。しかも千歳・翁・三番叟(注9)すべてが「偃歯棒式」のうなづきであるのは、現在のところ親沢以外知らない。
 親沢の場合千歳・翁・三番叟は、同じ「偃歯棒式」といっても、偃歯棒が胴串の後ろに出ていて後ろでうなづきを操作するタイプと偃歯棒が前に出ていて前でうなづきを操作するタイプの二タイプがある。翁・三番叟が前者で千歳が後者である。大江巳之助氏の模刻も、元来のかしらを忠実に映しており、同様である。元々のかしらに「偃歯棒式」の二タイプがあったと考えてよいかと思う。「偃歯棒式」は一様ではなく時間的に幅があったということであろうか。この二タイプは表現の上で、また遣う場合の技術面でどう違うのか、前後関係はあるのかなど未だ不明であるが、「偃歯棒式」といううなづき形式を考える上でも貴重な資料といえる。
 このように親沢のかしらは、千歳・翁・三番叟の「偃歯棒式」といううなづき形式に一つ注目すべき点がある。前述のとおり「偃歯棒式」は、形式として、文楽の「引栓式」や地方の人形浄瑠璃の「小猿式」・「ブラリ式(引玉式)」より、古い形式である。うなづき形式の発展過程において、初期的な段階のうなづき形式といえる。親沢のかしらは、初期のうなづき形式の発展過程を知る上で、重要な資料といえるであろう。
 
(三)操り方の特徴
 全国の人形式三番は操り方も一通りではない。群馬県下長磯の千歳・翁・三番叟はいずれも二人遣い、山口県秋葉新楽座は千歳・翁が二人遣い、三番叟が三人遣いであった。伊豆の海名野は千歳・翁が一人遣いで、三番叟ははじめ二人遣いで鈴の段から三人遣いになる、仁科は千歳・翁・三番叟とも最後まで三人遣い、宇久須は千歳・翁が三人遣い、三番叟ははじめ三人遣いで途中二人遣いになり鈴の段でまた三人遣いに戻る、重寺は千歳・翁が二人遣い、三番叟ははじめ二人遣いで鈴の段から三人遣いになるという(注10)。
 親沢の人形三番叟の場合、千歳が一人遣い、翁が一人遣いで、三番叟は二人で遣う。主遣いは左手の掌に胴串を乗せて握り、一緒に人形の左手を持つ。右手には人形の右手を持つ。人形を真上に高く掲げ、真上に高く掲げるために大きく身を反らし、苦しい姿勢を保ちながら演じる(写真3 千歳・翁・三番叟の構え・うなづき操作)。
 「偃歯棒式」の完全な形のかしらが極めて少ないが、親沢にはその「偃歯棒式」の完全なかしらが存在するということは先に述べたとおりである。更に親沢ではその「偃歯棒式」のうなづきを実際に操って、遣っているのである。この点に親沢の人形三番叟の更なる特徴と価値がある。
 「偃歯棒式」のうなづきはどのように、構え、胴串や両手を持ち、操作するのか、演技中に「偃歯棒式」で頷かせると、人形はどういう表現効果を発するのかというようなことは、かしらが残っているだけではわからない。親沢の、人形を真上に高く差し上げ、大きく身を反らし苦しい姿勢を保ちながら遣う遣い方が「偃歯棒式」の基本の遣い方を伝えているかどうかは、更に検討が必要であろうが、操る技術が伝承されていることは大変貴重なことである。現在知る範囲では、親沢以外に「偃歯棒式」のかしらを遣っているところはないと思う。全国で唯一、親沢に「偃歯棒式」を操る技術が伝承されているのである。ここに、親沢の人形三番叟の最大の特徴と意義がある。
 世界遺産にも登録された日本の文楽、その高度な操りの技「三人遣い」は、どのように出来上がってきたのか、発展過程はいまだ明らかでない。三人遣いの操り方の変遷を考える場合、うなづき形式は重要な意味を持つが、うなづき形式の初期の発展過程を知る資料はきわめて少ない。その上、初期のうなづき形式を操る技術が伝承されているのは、全国で唯一親沢だけであろう。したがって、親沢のかしらと技は意味ある貴重な資料といえよう。
 操る技術は人から人へと伝えていくものなので、保存という点では、かしらのような形ある文化財を保存する以上に難しい面があると思う。
 しかしながら、先に述べたとおり、おそらく全国で唯一「偃歯棒式」を操る技術を今に伝えているのが親沢である以上、この技術の伝承が今後も切に望まれるところである。
 
注1 親沢の謡と能楽の式三番の謡との異同は、先の四、『三番叟御手本』の台本と注参照。式三番の詞章の比較は、加納克己著『付知の操り式三番―五社巡祭の翁舞』(岐阜県恵那郡付知町教育委員会 平成九年四月)一四〜二九頁、『安乗人形調査報告』(三重県志摩郡阿児町教育委員会 平成一〇年三月)七四〜八二頁等に詳しい。これらによると淡路の式三番は最後に能の高砂を含むという。他、氏の比較検討により、各地の式三番詞章には地方的な独特の文言を含む所があることがわかる。
注2 昭和三〇年三月二九日付徳島新聞の夕刊記事には、同年三月初め、当時の神主井出利治さんが、二月初めかしらの虫食いに気づき、阿波の大江巳之助氏に四月二日の祭礼に間に合うよう一ヵ月足らずの製作期間で模刻を依頼、しかしながら大江師は快く引き受け、無事完成したことを伝えている。また、かしらについて「大したもんだ」「気に入った」「頭部を植毛にしてあるところから見ると、おそらく百五十年昔のものだろう」という大江師の評や、「頭の中に七と記号がしてあるだけで銘ははいっていない」という調べられた結果が記されており、注目される。
注3 たとえば石割松太郎著『人形芝居の研究』(修文館 昭和一八年一一月)一二二頁には、鉄砲ざしについて「人形遣ひの左の前腕は、人形の胴の内で、上向きに眞すぐにのびてゐる、即ち肱が曲ってゐない、人形を持ったまゝ腕を少し上向きに伸し切ってゐる、これを“鉄砲ざし”といって・・・」とあり、鉄砲ざしは「東京の人形遣ひ」の構えで、「上方の本格の人形遣ひ」は嫌うという。
注4 戸伏太兵著『文楽と淡路人形座』(寧楽書房 昭和三一年一一月)九六〜九七頁に、「淡路では、もとは凡て小ザルばかりの製(つまり豊竹座風)であったらしいが、この旧式のものは引くのに幾分固くて、人形の首を大きく廻すときなどにも余り自由でなく、指が痛いから、近来では前の一本だけは、ほとんどブランとした引糸(ブラリ式のこと、筆者注)に改造してしまった。」とある。現在は「ブラリ式(引玉式)」である淡路のかしらは、「ブラリ式(引玉式)」になる以前は「小猿式」であったとみられる。
注5 「偃歯棒式」といううなづき形式をもつかしらは、杉野橘太郎氏が昭和三五年群馬県の星尾人形と小八木人形の調査の折に発見、「偃歯首」と命名した。「江戸系三人遣い人形の偃歯首と山之口麓の文弥節人形浄瑠璃―発見と調査―」(『早稲田商学』第二〇一号別冊 昭和四三年六月)一四七頁。「偃歯棒式」は人形細工人斉藤徹氏が用いた呼称である。『平塚市文化財調査報告』第二九集(平塚市教育委員会 平成六年三月)五五頁等。
注6 うなづき形式の前後関係については拙稿「人形芝居〈三人遣い〉の操り方の変遷―地方人形のかしらから―」(『年刊 藝能』五号 平成一一年三月 三八〜四九頁)をご参照いただきたい。
注7 前掲注4にもあるように、「ブラリ式(引玉式)」は「小猿式」の変形で表現効果の点では同系と考える。また前掲注6参照。
注8 全国的には式三番以外のかしらにも、完全な形の「偃歯棒式」がいくつか残っている。ただし、いずれも遣われてはいない。
注9 親沢の場合、千歳=千代、翁=大神宮、三番叟=尉と呼ぶが、ここでは、千歳・翁・三番叟という一般的な呼称を用いる。他所の人形式三番についても同様。
注10 演技を実見していない伊豆・沼津の人形式三番については、『仁科の人形三番叟』(西伊豆町教育委員会 昭和六三年三月)九六〜九七頁に拠った。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION