これらは一九九七年〜二〇〇四年の間に行った約一五〇箇所、四〇〇〇点あまりのかしら調査の中から抜き出したものである。実見した人形式三番の伝承地及び、かしら・面などが残っていて伝承していた形跡をとどめる所は三四箇所である。未見の△印を入れると四三箇所になる。右記以外にも未調査箇所、存在情報も知り得ていないところがあることを考えると、これ以上に多く存在することはまちがいない。特に江戸時代以来の淡路の人形座が、いづれの座も式三番を神聖視し大切に演じてきたことを思い合わせると、更に多数存在すると思われる。しかし、全国で人形のかしらが存在する箇所は二〇〇箇所以上と考えられる現在、一五〇箇所というとほぼ四分の三を見てきたことになるので、すべてを見尽くしたわけではないが、全国的な傾向は読み取れるように思う。
先にあげた伝承地もしくは遺存地を概観すると、その分布範囲は特定の地域に集中しているというのではなく、全国に及んでいる。
では、このように数多くある人形式三番の中で、親沢の人形三番叟はどのようなところに特徴があり、価値があるのだろうか。
どこの人形式三番も、能楽の式三番を取り入れていることはいうまでもない。人形にも白尉黒尉面を付け、能楽の謡に依拠する。能楽の謡も人形式三番の謡も幾分かの異同は見られるようだが、基本的な違いは見られないようである( 注1)。
親沢の人形三番叟も、白尉黒尉面を用いている。謡についても能楽の謡と較べて際立った特徴を見出すことはできない。しかしながら、全国的な視点で見た場合、親沢は人形三番叟に遣うかしらと、その操り方に他には見られない特徴があり、価値があるのではないかと考えている。それは親沢の人形三番叟の起源や歴史をも物語るのではないだろうか。親沢の人形三番叟の起源や歴史を知り得る文献がない現在、かしらの方面から考えることは意味があるといえよう。
次に、その親沢の人形三番叟のかしらの特徴と、操り方の特徴について述べる。
(二)親沢の人形三番叟のかしらの特徴
親沢には現在四組の、式三番のかしら(写真1)がある。一組は、元来親沢に伝わっていたもの、二組目は昭和三〇年に大江巳之助氏(徳島市大代)によって模刻されたもの、そして平成一五年、財団法人東日本鉄道文化財団の助成を得て新調されたもの二組である。昭和三〇年頃、伝わっていたかしらの劣化が激しく、当時大阪文楽の人形細工人であった大江巳之助氏に模刻を依頼したいきさつは、昭和三〇年三月二九日付徳島新聞の夕刊に掲載されている( 注2)。
親沢の人形三番叟のかしらの、最大の特徴は、そのうなづき形式にある。うなづきは人形の表現上重要な機巧である。かしらが演じる役の意志や感情、あるいは宗教表現までも掌るのがうなづき機巧である。うなづきがいつ頃どうして生まれたのかまだよくわかっていないが、全国の人形のかしらを調べていくと四種類のうなづき形式が見られた。この四種類のうなづき形式(写真2)には歴史的に前後関係があると考えられる。
写真 1
旧 親沢の人形三番叟のかしら
白尉黒尉面
尉(三番叟)
かしら番号1
大神宮(翁)
かしら番号2
千代(千歳)
かしら番号3
大江巳之助作 親沢の人形三番叟のかしら
尉(三番叟)
かしら番号4
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