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2003/09/20 産経新聞朝刊
【国連再考】(20)第2部(10)金縛りの平和維持 常任理事国の紛争に無力
 
 ソ連のニキータ・フルシチョフ首相が国連総会の議場でクツを脱いで、振りかざし、テーブルにたたきつけたのは一九六〇年十月十三日だった。フィリピン代表が演説し、「ソ連は東欧をのみこみ、政治や市民の権利を奪ってしまった」と非難したときである。
 フルシチョフ首相はこの年の国連総会に出席するためにニューヨークに三週間も滞在した。同総会にはアイゼンハワー(米)、マクミラン(英)、ネール(インド)、ナセル(エジプト)、チトー(ユーゴスラビア)、スカルノ(インドネシア)、カストロ(キューバ)などという戦後世界を動かした巨頭たちが姿を現した。激動する国際政治のなかでよきにつけ、悪しきにつけ、国連への関心が高まった結果だった。
 とくにフルシチョフ首相にとって国連は、東側陣営の主張を訴えるパフォーマンスの格好の場となっていた。それまで国連では少数派として守勢に立ってきたソ連が、東側陣営にもときには友好を示す新興諸国の加盟で味方を増してきたからだった。
 同首相がこの総会で最も熱をこめたのは植民地主義の糾弾だった。新加盟の諸国はほとんどが西側先進諸国の旧植民地だったことが大きな理由だといえよう。首相は総会で自ら「植民地独立宣言」の採択を提案した。翌年末までにすべての植民地の独立を求めるという過激な内容を読み上げるとともに、米国やオーストラリアの「原住民抹殺」を非難したのだった。
 ソ連のこの提案は結局は否決され、アフリカ、アジア諸国が共同で出したやや穏健な「植民地独立宣言」がかわりに採択された。
 フルシチョフ首相の国連総会での言動は、旧植民地だった新興諸国の加盟があいつぎ、南北問題が新たな主要課題となっても、なお激しい東西対立が国連の単一有機体としての効用を決定的に弱めている現実を改めて印象づけた。この時期に国連の平和維持活動が本格的に始まったが、そこにも東西対立の影が濃かったのである。
 平和維持部隊は国連緊急軍という名称で一九五六年に初めて中東のシナイ半島での紛争に対応して組織された。その後、六〇年にはコンゴ紛争に対し、六二年にはニューギニアの西イリアン紛争に、六四年にはキプロス紛争に、それぞれ国連平和維持部隊が送られた。
 これら部隊の結成はある意味では国連が本来の目的から後退したことを証していた。憲章がうたうような国連が自ら侵略に対抗する「集団安全保障」でもなく、軍事衝突を実際に止める「平和の執行」でもなかったからだ。平和維持というのは当初から特定の地域内ですでに和平に同意した当事者たちの間の平和を保つ、という目的だけを目指していた。その点では警察行動に近かった。
 当時のダグ・ハマーショルド国連事務総長は平和維持活動の前提となる原則としてさらに、国連の部隊派遣には紛争当事者の同意を得ること、現地の内政には干渉しないこと、紛争当事者たちの勢力比を変えないこと、などを打ち出した。また国連部隊は実際の活動では武力は自衛のための最後の手段としてしか使わない、ことも決められた。
 この平和維持活動の第一期八年間の実績の総括は難しい。四件のいずれのケースも当面の目的は達され、平和維持軍の死者もコンゴで二百三十人が出るに留まった。だがいずれの紛争の根源もほとんど手つかずのままだった。そのうえになによりもこの同じ時期に起きた他の大きな侵略や紛争には国連は無力だったからだ。
 その最大例は五六年のソ連軍のハンガリー侵攻だといえる。非スターリン化、自由化を進めたハンガリーの国民は親ソ連の当局への反乱を起こし、共産圏離脱までを求めた。だが介入してきたソ連の大軍に鎮圧された。この間、ハンガリー国民代表は国連への訴えを続けたが、国連はソ連の拒否権で動けなかった。同様に国連は六一年の米国のキューバ侵攻支援に対しても、六五年の米国のドミニカ侵攻にも、無力だった。
 国連の安全保障理事会は紛争に常任理事国が正面から関与している場合や、常任理事国の緊密な同盟国が当事者の場合、平和維持活動でさえ機能が難しいというパターンがさらに形成されていったのである。一方、この種のブレーキがかからない個々の状況下では、平和維持活動はそれなりの成果をあげていった。
 しかし全体としては一九七〇年代を迎えてもなお国連は東西冷戦による金縛りからは脱せなかったのである。
(ワシントン 古森義久)
 
 
 
 
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