2003/09/19 産経新聞朝刊
【国連再考】(19)第2部(9)東西から南北へ 新興国加入で舞台錯綜
国連の最初の十年間は「西側陣営の国連支配の時代」とも評された。国連の平和・安全の維持という主機能が東西冷戦での対立ですっかり抑えられたとはいえ、国連全体としての主導権は米国を中心とする西側諸国がしっかりと握っていたからだった。その最大の理由は単純な数字だった。
国連が正式にスタートして二カ月の一九四五年末の時点では加盟国計五十一カ国のうち、ソ連が統括する東側陣営にはっきり色分けされるのはわずか六カ国だった。しかもソ連邦の二共和国を含めてもである。
これに対し米国主導の西側陣営は西欧と北米にイギリス連邦諸国を加えた計十四カ国、さらに中南米諸国二十のうちの大多数、アジア諸国八のうちのほとんどを自陣寄りとしていた。四十ほどの国が西側支持だったのだ。
一国一票という国連の全メンバー平等のシステム下ではこの数の差は大きかった。総会ではまずどんな案件でも西側の意見が圧倒的多数の声となり、国連総会としての決定を生んだ。
安全保障理事会では常任理事国のソ連が拒否権を使うことができた。だから世界の平和と安全に関する重要案件は西側の思うようにはならなかった。とはいえ西側としては安保理でもソ連の「横暴な少数意見」を印象づけることができた。
このため西側諸国は国連ではもっぱら自陣営の主張と敵陣営ヘの非難の表明を優先させ、妥協や譲歩で解決策をみいだすという努力をしなかった。国連が紛争解決の場にはなりにくい理由のひとつをつくっていた。
国連合同監察団の監察官だったフランス人国際政治学者のモーリス・ベルトラン氏は述べる。
「この期間、国連は交渉の場として機能することはできなかった。西側陣営は多数派であることを利用して自己の正当性を世界にアピールしようとした。ソ連はこれに対抗して、常に間違っていると非難される少数派が持つ唯一の武器である拒否権を行使した」
だから国連自体が平和と安全の維持に果たす機能も権威も落ちていった。とはいえ圧倒的多数を誇る西側陣営にとって国連は、国際社会が自陣営の主張を支持しているのだと誇示できる政治宣伝の舞台となった。自己の正当性の根拠は表決での票数となる。多数パワーである。少数派からすれば「多数の独裁」だった。
だが西側陣営にとってこの多数パワーに頼る国連対処法はやがてブーメランのように、向きをくるりと変えて、自らを襲ってくるようになる。国連での多数派の立場を失うこととなるからだった。
一九五五年ごろから国連には第三世界の新興国が加わるようになった。国連憲章がうたう「人民の自決」に従い、脱植民地化が進み、新たな独立国家が生まれて、国連に入ってくる、という新プロセスの始まりだった。
国連の加盟国は五五年には六十だったのが、六五年には百十九へと倍増した。新加盟国の大多数は元植民地だった。六五年末の時点では全加盟国の約三分の二にあたる七十六カ国が第三世界の諸国となった。この種の諸国は当然、反植民地主義の立場を鮮明にしていた。その結果、国連の質も変わっていった。
新たに国連に加わった新興諸国は貧困で弱小だった。一国では外交上の発言力も極端に弱い。そうした諸国は国連への依存が高くなる。国連を使って大国に対抗するという傾向である。だから国連自体の権威や機能を強くすることに力を注ぐようになる。この傾向は国連の力を弱いままに抑えようとしてきた米国やソ連とは対照的だった。
国連が扱う案件の質も異なってきた。新加盟国が国連に提訴する案件が脱植民地化にからむケースばかりだったからだ。西欧諸国の支配下にあったアフリカやアジアの植民地が独立する過程でぶつかる多様な障害や紛争が国連に持ちこまれるようになった。
国連は東西対立にからむ案件を扱う舞台だったのが、こんどは南北問題を扱うことが圧倒的に多くなったのである。ただし東西問題もなお頻繁に起きており、それらが南北問題を複雑に錯綜(さくそう)させるようになった。
旧植民地だった新興諸国は東西対立のイデオロギー的側面にはあまり関与しなかったが、宗主国への反発が西側陣営への反発につながる場合も少なくなかった。ソ連がこの傾向を利用して、第三世界に接近し、国連の力の構図は大きく変わっていった。
(ワシントン 古森義久)
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