2003/09/22 産経新聞朝刊
【国連再考】(21)第3部(1)国連大学の怪 不明な存在意義、不備な運営
日本国内で国連を感じさせる存在といえば、東京都渋谷区にそびえる国際連合大学であろう。青山通りに面したピラミッド型地上十四階の豪華なビルは人目を引くが、内部にある国連大学の実態について知る日本国民は少ない。
国連大学というのは奇怪な機関である。大学であって、大学ではない。一般の意味の大学に不可欠な学生も教授もキャンパスも存在しないからだ。国連であって、国連でないとさえいえる。公式には国連総会の付属機関とされるが、国連は設立にも運営にも資金を出しておらず、財政の基盤は日本が独自に負担しているからだ。
国連大学は「人類の存続、発展、福祉の緊急な世界的問題の研究と知識普及に携わる研究者たちの国際的共同体」と同大学の憲章で定義される。大学という呼称が連想させる高等教育とは無縁の単なる研究者の集まり、あるいは研究機関、研究発注機関だといえよう。
だがその活動が実際に国連にどう寄与し、国際社会にどう貢献するのかには疑義が多い。その点では日本国民が国連大学を国連や国際社会に重ねて、高い期待を寄せるのは切ない誤解のようなのだ。
国連大学自体の発表では、その活動は「平和と統治」とか「環境と開発」というテーマの研究を各国の学者に委託することや、開発途上国の研究者を招いて短期の研修会を催すことなどであり、目的は「国連と世界の学術社会のかけ橋」になることなのだという。
だがこの「活動目的」の根本的な欠陥は、その種の研究がらみの活動はすでに国連本体の各機関が直接に、あるいは外部組織への委託の形で、とっくに実施していることである。あえて「大学」を設け、資金を投入してまで進める必然性が薄いのだ。
国連大学のこの種の欠陥や問題点は国連自体が明確に認めている。国連合同監察団が一九九八年に発表した国連大学の調査報告書は次のような骨子を指摘していた。
▽国連大学の活動全体が国連社会に十分に利用されておらず、同大学のユニークな創設自体が国連内外の期待に応じていない。
▽国連大学は主要テーマとする途上国の「能力育成」研究などで国連開発計画(UNDP)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)など国連の他の機関との調整が不足のため、同種の研究活動を重複させている。
▽国連大学の理事の人数は多すぎるし、構成が偏っており、全体の運営も人事、管理、予算、財政の各面でより透明で効率を高くし、経費を削減しなければならない。
国連大学の運営については具体的な不正事件も暴露された。国連の会計検査委員会は九八年に公表した監査報告で、国連大学の開発途上国からのコンサルタントや専門家の採用に不備があるとして、二件の不正を明らかにした。
二件とも国連大学から研究を委託され、前払いの代金が払われたのに、研究がなにも出てこなかった、というケースだった。うちの一件は代金二万五千ドルを受け取りながら六年間なにも提出せず、しかも国連大学側はそれを放置していたという。
国連大学のこうした側面は米国のマスコミでも「責任に欠け、資金の大部分を組織自体の自己運営の官僚機構のために費やし、研究や研修にあまり残していない」(ワシントン・ポスト紙報道)と批判された。
国連大学自体の内部監査が不足ということだろう。このだらしのない実態は青山通りにそびえる立派な高層ビルの「人間の安全保障と発展に学術面で寄与する国際連合大学」(同大学の宣伝パンフレットの記述)というイメージとはかけ離れている。
だが内部の実態よりもずっと深刻なのは国連大学の存在自体の意義が国連合同監察団の調査によっても問われたことである。前述の調査報告書はタイトルでも国連大学の「適切さの強化」を求めていた。「適切さ」とはつまり国連大学の存在が国連にとって、ひいては国際社会にとって、はたして適切なのか、という意味である。同報告書が適切さの強化を求めることは現状では適切ではないという示唆だろう。
その適切さはいうまでもなく国連大学の実際の活動の結果で決められる。だがこの点でも国連大学の人事部門などに七年間も勤務した米国人研究者のレスリー・シェンク氏は大胆な指摘をする。
「私自身、国連大学が外部世界になにか明確なインパクトを与えたという兆候はなにひとつみたことがない。国連大学の研究発表などはほとんど実体のないはったりに過ぎない」
国連大学が国連自体にとって本当に必要とされているのかどうか。この疑問は一九七〇年代にまでさかのぼって国連大学のスタートの経緯をみると、さらに大きくふくれあがる。
(ワシントン 古森義久)
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