1995/07/12 読売新聞朝刊
国連誕生から50年 原点への回帰今こそ 大国孤立回避へ各国協調(解説)
五十周年を迎えた国連は今、肥大した組織と財政難にあえぐ。冷戦後の世界に立ち往生する国連を考えるうえで、半世紀前の原点――その誕生の歴史を知る意味は大きい。
(解説部 桝井 成夫)
和解を象徴するオリーブの枝と世界地図をあしらう国連のロゴ・マークが米中央情報局(CIA)の前身の米戦略情報局(OSS)のデザインであることは余り知られていない。同じように国連誕生の歴史も意外に知られざる部分が多い。その空白を今回、スティーブン・シュレジンガー・ニューヨーク大学客員教授が情報公開法を駆使して埋め、近く成果を公刊する。
国連は、五十周年記念式典が行われた米サンフランシスコに四五年四月、日独伊に対する連合国五十か国が集まり、二か月間の協議の末、国連憲章を制定して誕生した。日独降伏の直前、第二次大戦の終盤だった。
この会議をリードした米国は参加国の在米公館と本国、さらには米国外の関係国の大使館と本国との暗号交信まで傍受解読し、交渉の舞台裏、相手の手のうちを知り尽くしていた。「マジック」と呼ばれた暗号傍受解読は米軍情報機関が戦時下に全世界で展開した「ウルトラ作戦」で、シュレジンガー教授が数年がかりで発掘した。
味方も欺くスパイ作戦まで指令したフランクリン・ルーズベルト大統領の国連誕生にかけた執念には目を見張るものがある。
新発掘資料によると、ル大統領が、大国が拒否権を持つ国際機関の創造を構想したのは日本が真珠湾奇襲を行った数週間後。国務省に草案を作る委員会を設置、四三年までに現在の国連の骨格を固め、スターリン・ソ連首相、チャーチル英首相ら連合国首脳に根回しを開始していた。
一か月の予定が二か月に延びたサンフランシスコ会議の最大の難問は大国に拒否権を付与するかどうか、だった。中小国は非民主的と抵抗し、ソ連は現在より強力な拒否権を要求した。仏は不満を抱く小国のリーダーとなり、不要と主張、会議は決裂寸前まで行く。ウルトラ情報を最大限に活用しながらル大統領は会議を有利に運び、大国の拒否権だけは一歩も譲らない。
シュレジンガー教授は「米国を始め大国の拒否権こそル大統領の生命線だった」という。二〇年創設の国際連盟は、大国に拒否権を認めなかったため、米上院は主権侵害として批准せず、米国を抜いた連盟は挫折の運命をたどった。
そして米国が伝統的な孤立主義に回帰するなかで第二次大戦が起こった。
「この苦い歴史の教訓を反すうしたル大統領は米国を国連に参加させるために、つまり米上院が批准するように拒否権付与を貫いた。さらに米国が国連に入れば、その固有の孤立主義に歯止めがかけられると考えた。しかも戦争が終われば急速に米が孤立主義に向かうと懸念して国連創設会議をその前に開催した」
シュレジンガー教授はル大統領の英知とリーダーシップをそう語る。
国連が難産の末、生まれたのは、拒否権なしには参加しない大国に反対しながらも、国連誕生を選んだ中小国の現実的な妥協である。それ以上に、二つの大戦を経て平和のための国際機関を誕生させようという強い意思が共通して存在したことは間違いない。
冷戦が終了し一時脚光を浴びた国連への期待は今、色あせ、米国は急速にル大統領がもっとも危惧(きぐ)した新孤立主義に向かっている。日本は大国を中心に世界が内向きになることで“安住”するかに見える。
今回の五十周年式典で、クリントン米大統領は「孤立主義にノーを、国連改革にイエスと言おう」と演説を締めくくった。
国連誕生の歴史は、リーダーシップと加盟各国の意思がいかに必要かを改めて語りかけている。
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