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1989/10/16 読売新聞朝刊
日本の国連加盟 ソ連、復交1年前に同意 米ソ確執で延期 外交文書が定説覆す
 
 昭和二十七年(一九五二)四月のサンフランシスコ対日平和条約発効後、日本が国際連合に加盟するなど国際社会に復帰していく過程を示す外交文書の秘密指定が解除され、十五日、外務省から公開された。主な文書は、国連加盟関係のほか、戦後経済の立て直しと絡む関税・貿易一般協定(ガット)仮加入、国際通貨基金(IMF)加盟、わが国の対外援助のスタートとも言うべきコロンボ計画への加盟などに関するもの。このうち、国連加盟では一般には昭和三十一年(一九五六)十月に日ソ国交回復が成ったため、ソ連の支持も得て同年十二月に加盟できたと理解されているのに対し、実は、ソ連は前年に日本の加盟を公式に認め、加盟実現寸前までいっていたことが、詳細な事実によって明らかにされている。結局、この時は米ソ対立のあおりを受け、加盟できないのだが、従来、一部専門家だけが指摘していた事実が、外交文書で公式に確認されたことになる。
 外交文書公開は二年ぶりで、十回目。今回は二十七年から三十三年までの計五十件に関する秘密文書二万三千七百二十ページが公開された。十六日から東京・麻布台の外交史料館で閲覧できる。ただ、日ソ交渉による共同宣言の調印(三十一年十月十九日)もこの期間内だが、これに関する文書は「北方領土返還を含めた平和条約交渉が未解決で、今後の交渉の立場を弱めないため」(外務省)、一切、公開されなかった。
 国連への加盟は、安全保障理事会の勧告に基づいて、総会で三分の二以上の賛成が必要。日本は二十七年六月に加盟申請したが、同年九月、ソ連が安保理で拒否権を行使し、否決されている。その後、日ソ国交回復をめぐる交渉が三十年六月から開始され、三十一年十月の日ソ共同宣言第四項で「ソ連は国連加入に関する日本の申請を支持する」と確認され、その批准書交換(十二月十二日)と同じ日に、ソ連が安保理で賛成し、十八日の総会で加盟が正式決定した。このような経過から「日本の国連加盟は日ソ交渉の成果」との受けとめ方が一般的だ。
 ところが、今回公開の外交文書により、前年の三十年の総会で、日本など十八か国の加盟案がカナダから提案された際、日本の加盟に反対していたソ連が賛成に回る経緯が明らかにされた。それによると、同年十二月六日にソ連のマリク国連代表が加瀬俊一国連大使に「カナダ案は国連発展に資するので支持する。日本については困難はあったが、あえて犠牲を払う。しばらく極秘に願いたい」と伝え、「日本は日ソ交渉をどうするのか」と述べ、日本の国連加盟支持をテコに、逆に日ソ交渉を動かそうとしている。
 そのうえで、ソ連は十二月八日の総会でカナダ案に賛成投票し、同十日には安保理でソボレフ・ソ連代表が「例外なしに十八か国全部の加盟を支持する。これによってのみ加盟問題は解決し得る」と発言、ソ連としても日本を含む十八か国の加盟決議案を提出した。
 しかし、十三日の安保理で、中国(現台湾、当時は常任理事国で拒否権を有する)が、十八か国のうち、外モンゴルの加盟に関し、「外モンゴルはソ連の属国である」などの理由で拒否権を行使したために、ソ連が反発、一転して十八か国一括加盟案そのものに拒否権を行使し、日本の加盟は実現寸前で崩れてしまった。
 
 
 
 
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