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1989/10/16 読売新聞朝刊
第10回外交文書公開 戦後、悲願の国際社会復帰 苦難の“水面下交渉”
◆ガット加盟 ダンピング輸出の再来恐れ 各国、次々と交換条件◆
 戦後わが国経済の立て直しには、関税・貿易一般協定(ガット=注1)への加盟による輸出拡大が急務だった。アメリカは対日援助の負担を軽くする必要もあり、昭和二十二年以来、わが国に最恵国待遇を与えるよう、ガットの既加盟国に働きかけた。しかし、戦前の日本製品ダンピング輸出の再来を恐れるイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、それにフランスなどが日本の加盟に反対していた。
 二十六年九月、ジュネーブで開かれたガットの第六回総会(締約国団第六回会期)から、わが国はオブザーバーの派遣を認められた。同総会で、簡易加入手続き(注2)が採択されたので、この手続きに基づき、わが国は二十七年七月十七日付でガット加入を目的とした関税交渉開始の申請を事務局に出した。
 ところが、以前から日本の加盟に反対の国々は、総会で審議すべきであると主張、二十七年十月の第七回総会では、二十八年二月に開かれた会期間委員会に日本加入問題を付託した。
 当時のガット関税率は二十八年末に効力が切れることになっていたので、同年中には第四回の一般関税交渉会議が開かれると予想されていた。一方、二十八年一月に発足したアイゼンハワー共和党政権は、アメリカの対外経済政策全般の見直しが終わる二十九年半ばまで大規模な関税交渉はしない方針を打ち出した。このため、ガットの第四回交渉開催の見込みは立たなくなり、わが国の加入は棚ざらしになる恐れが出た。
 そこで浮上したのが、仮加入案である。これは〈1〉関税交渉が開かれるまで、ガット加盟国は日本製品に対する最恵国待遇など、加盟国と同様の権利・義務を認める〈2〉既加盟国に対する代償として、日本は関税率(連合国総司令部の要請を入れ、当時の平均税率は二・八%と国際的に低かった)を据え置く−−という内容である。
 ガット三三条は関税交渉抜きの仮加入を認めないわけではないとの解釈を初めて示したのは、日本加入に積極的だったガットのウインダム・ホワイト事務局長だ。二十八年六月二日、萩原徹・駐スイス公使から岡崎勝男外相あての航空便は、一日のホワイト事務局長との「極秘含みの内話」として次のように伝えている。
 「入会金(関税譲許)を払はずにクラブ(ガット)に入るのは怪しからんと云ふ反対が予想されるが、日本は、入会金支払いの機会を与えられていないこと、相手が希望すれば、次期一般関税交渉前、何時でも交渉する用意あること等の議論で対抗すればよい」。日本のガットただ乗り批判封じ込めである。
 二十八年九月十七日からジュネーブで開かれた第八回総会に日本の仮加入問題が上程された。日本政府は会議の約一か月前から外交チャンネルを通じて既加盟国に仮加入の賛成を求めて根回しを始めた。仮加入には、既加盟三十三か国の三分の二以上、最低二十二か国の賛成が必要だが、壁は厚かった。
 対日貿易の改善、つまり自国産品の輸出拡大、あるいは日本製品の輸入抑制を、仮加入問題の取引材料にする国が次々と現れた。わが国は税目数で九一%の関税率据え置きを提案したが、関税引き上げの可能性を持たせた据え置き除外品もあった。自動車もその一つ。仮加入を支持していたアメリカだが、自動車の除外には猛反対、結局、自動車の関税も据え置きとなった。
 チリはわが国に硝石の輸入増と硝酸カリの関税引き下げを求め、キューバ、ドミニカは砂糖の買い付けを迫った。ベルギーは植民地コンゴに対する日本製品の輸出制限を、仮加入賛成の条件とした。ガットの仮加入審議と並行して、日本にさまざまな要求を突きつける国々との二国間交渉が繰り広げられた。
 最も難航したのがカナダとの交渉。小麦の対日輸出でアルゼンチン、トルコ、オーストラリアと競争していたカナダは、わが国に輸入増の確約を強く求めた。交渉の舞台は、オタワ→ジュネーブ→オタワと移り、わが国のガット仮加入支持をカナダ政府が閣議決定したのは、投票日二日前だった。
 二十八年十月二十三日、ジュネーブの松本俊一代表(駐英大使)から岡崎外相へ「大至急」電。「午後六時日本の仮加入問題総会にかかり、決議は二十六ヶ国の賛成投票を得て可決された。棄権国は英連邦五ヶ国、チェコ、ビルマの七国。反対国なし」
 三十年二月から始まった一般関税交渉を経て、同年九月十日、日本は正式にガット加盟国になった。
◆IMF加盟 出資増額は通らず◆
 日本は昭和二十七年八月、第二次世界大戦後の国際金融体制を支える国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)への加盟を決めた。
 IMFは加盟国の出資で基金を作り、外貨不足に苦しむ加盟国に融資するが、加盟国の出資割当額はその国の国民所得、貿易額、金と米ドルの保有額などを基に決められる。同時に金ドルの払込額も決まる。
 日本の加盟にあたっては、この割当額と金ドル払込額の両方でIMFと日本政府の意向が食い違い、調整は難航した。
 割当額が多ければ多いほど出資国の基金利用限度額や発言力は増す。このため、IMFの主張する二億五千万ドルに対し、日本は三億ドル―三億五千万ドルへの増額を求めた。
 他方、金ドル払込額で日本は〈1〉対日援助の打ち切りで減収が見込まれる〈2〉輸入が増えるのに保有ドルが少ない−−などを理由に、IMFの六千二百五十万ドル(出資額の二五%)の主張に対し、四千五百万ドル程度への減額を要望した。
 二十七年一月二十四日の外務省発公電は「到底耐え難い」とワシントン事務所にIMFとの再交渉を指示、「加盟断念も止むを得ない」との強硬な姿勢をちらつかせたが、結局、IMFの主張通りの額で決着した。
 二億五千万ドルの割当額は当時、米、英、中国国府(現台湾)、仏、インド、カナダ、オランダに次いで第八位。
 今年九月下旬、ワシントンで開かれた世銀・IMF総会では日本のIMF出資比率引き上げが大きな問題となった。現在、日本の出資比率は四・六九%で米、英、西独、仏に次いで第五位。これを国民総生産(GNP)に見合って米に次ぎ第二位まで高めたいというもので、二十七年当時と比べると、隔世の感がある。
◆美術・映画 美術展初出品、「時代遅れ」と不評◆
 今回発表された外交文書によると、昭和二十九年から三十二年までの間にイタリア、メキシコ、タイ、インド、エジプト、西ドイツ、イラン、パキスタンの八か国との間に文化協定が結ばれている。
 政治、経済の国際舞台への復帰とともに文化面での交流も活発化し始めた様子がうかがえるが、実際には、初めて参加した国際美術展で日本作品がさんざんの不評を買うなど、苦悩と戸惑いの中の出発だったことも今回の文書は明らかにしている。
 昭和二十六年十月、ブラジルで第一回サンパウロ・ビエンナーレが開かれ、二十二か国が参加した。日本は同地の現代美術館の招請で絵画、彫刻など四十六作家の作品を送るが、到着が遅れたため審査の対象外となり、陳列した作品も厳しい批判にさらされた。
 また同時開催の国際美術建築展に招待されて渡伯した建築家坂倉準三氏は、出品の窓口となった国際文化振興会への報告で「古色蒼然(そうぜん)たる感じ」「現代に生きているという感じに乏しい」と述べ、「ああいうものなら次から出品してもらいたくない」という現地の有力邦人の話を紹介している。
 世界の「現代美術」が一堂に会すこの展観に、フランスあたりはすでに印象派も野獣派もこえたあらゆる新傾向をそろえていた。日本は相変わらずの「近代美術」を出品してしまったわけで、国際展の実態や出品することの意義を解さなかった未経験ゆえの悲劇といえそうだ。
 映画では、黒沢明監督の「羅生門」が、ベネチア映画祭グランプリを獲得して日本映画が国際的関心の的となったのが昭和二十六年。これから日本映画界は世界に目を開いて、二大国際映画祭といわれたベネチア、カンヌへ出品を始める。
 このころ出品の窓口は外務省だった。映画祭は、在日大使館経由で外務省に出品を要請、当時の日本映画連合会が作品を選定した。当時の映画祭規約では、参加作品数は、各国の製作本数に比例して決められていて、長編なら日本は三本出品できた。
 映画祭に出席する日本代表団は、代表と代表代理が外交官で、映画人は利益代表として別に遇された。映画祭が外交の一環だった時代である。一方、日本映画界は、占領下の統制も解除されて自由の喜びを味わいながら、繁栄の頂点に向かって走り出していた。
◆原爆映画、「反米」の印象懸念◆
 被爆児童の体験記をもとに原爆投下後七年目の広島を舞台に作られた新藤兼人監督の「原爆の子」は、昭和二十七年製作、翌二十八年カンヌに出品された。
 この年は、「原爆の図」(今井正演出、新星映画社)も短編部門に出品されており、外務省は、この反核映画初の国際映画祭参加に神経をとがらせた。
 「政府としても右両映画の参加には反対なるが、これを差し止める国内法的根拠なき現在、少なくとも右を政府が支持するが如き印象を与えぬように」と心配し「右にかかわらず本件映画が上映せられ、もしも受賞等の可能性認められる場合は、これを辞退したい旨、委員会(映画祭)に対し、前もって内々に伝達しおくことも・・・」とフランス大使に極秘電報が送られている。
 しかし、現地では予選の結果「原爆の子」は、撮影技術良しとして上映決定、大使は「批評は反米的意図はないとし、技術賞入賞の可能性ありとされ(中略)御訓令の次第はあるが、現地代表をしてなんらの措置をとらずに見送らせることにしたい」と答えている。
 結局、「原爆の子」は賞を受けなかった。「原爆の図」は上映されなかった。
◆コロンボ計画 援助額は米の5000分の1◆
 世界一の援助大国となった日本は毎年十月六日を三年前から「国際協力の日」と定めている。三十五年前のこの日、日本はアジア・太平洋地域の経済社会開発機構であるコロンボ計画に加盟した。
 同計画に関して発表された今回の外交資料で、日本の援助が当初から経済的利益志向を強く持っていたことが浮き彫りになった。
 昭和二十五年にコロンボ(スリランカ)で開かれた英連邦外相会議で第二次世界大戦後のこの地域の発展に寄与することが発議され、日本も二十九年に加盟した。コロンボ計画を推進したイギリスの狙いは、中共(中国)の中国本土制覇でアジアへの大規模援助をためらい始めたアメリカを、コロンボ計画という“据え膳(ぜん)”を設けて引き止めることにある、と当時の日本政府は見ていた。
 また、参加の効果として政府は〈1〉アジア善隣外交を進めるうえで、欧米、特にイギリスと協調すれば各国の“猜疑(さいぎ)”を避けられる〈2〉アジアの開発が進めば日本の通商、資本進出の機会が増大する〈3〉技術援助に伴って機械その他の輸出増が期待できる−−などの国益を強調していた。
 その反面、援助の内容については「資本援助は実情から見て困難。技術協力が主題」とし、援助額は二十九年度の千三百万円から、五年後の三十三年度でさえ一億七千万円にとどまった。これを国際比較すると、資本援助も実施したアメリカの五千分の一、イギリスの五百分の一と他の援助国に比べはるかに小規模なうえ、本来被援助国であるインド、スリランカが近隣諸国に与えた援助額さえ下回っていた。
◆日米航空協定 協定の締結自体に関心◆
 わが国初の二国間航空協定である日米航空協定が昭和二十八年九月十五日に発効した。二十七年に発効した対日平和条約第一三条の規定で、連合国は条約発効後四年間、日本における航空業務の運営で一方的な特権を享受できる、とされていた。
 協定締結は「片務的状態を解消し、アメリカと平等の立場で、協定の付表に定める路線で定期民間航空業務を開設し、運営できる」ようにするもので、当時、日本政府は「一日も早く、協定による利益を実現し、日米間の航空関係を双務的な基礎の上に置くことが望ましい」としていた。
 しかし、現実にはこの付表に盛られた路線で、米側は東京並びに以遠の主要路線を押さえたのに対し、日本側は米西海岸の都市までしか乗り入れが実現しなかった。この乗り入れの不平等性が日米航空協定の特色で、以後、その是正が大きな懸案となった。
 今回公表された協定締結までの段階では、この路線の不平等性をめぐって激論が闘わされた形跡がなく、当時の日本政府の関心はもっぱら協定の締結自体にあったことをうかがわせる。
◆国連加盟 リンクされた「外モンゴル加盟」 国府、強硬に反対◆
 日本はサンフランシスコ対日平和条約の発効(昭和二十七年四月)によって連合国総司令部(GHQ)による占領にピリオドを打つが、その後の最大の外交目標は国連加盟となる。
 わが国の最初の加盟申請は、国会の承認を得て二十七年六月に行われた。しかしこの申請は、ソ連の拒否権で九月に安保理で否決される。当時は米ソ両大国による厳しい冷戦構造の中で、二十五年のインドネシアを最後に加盟問題は全く進展せず、日本など二十二か国の加盟申請が棚ざらしになっていた。
 こうした事態をなんとか打開しようと、六十年三月に行われた第八回外交文書公開で明らかになったように、二十七年にはアメリカが日本に対して国連準加盟案を打診、当時の吉田首相も賛成したが、この準加盟案は西側諸国の賛成を得られず、米側も二十九年には断念した。
 今回の公開文書は、この準加盟問題も含め、三十一年十二月に日本の単独加盟が国連総会で、全会一致で承認されるまでが中心になっている。
 当時の日本の事情は、吉田内閣が二十九年暮れに総辞職して鳩山内閣が成立、同内閣はソ連との国交回復の方針を表明し、三十年六月、ロンドンで日ソ交渉がスタートした。
 この日ソ交渉と絡み合うかたちで、日本の国連加盟問題は三十年十二月の第十回国連総会で大きなヤマ場を迎えることになる。
 第十回総会ではソ連が日本加盟に拒否権を発動する可能性が強く、日ソ交渉の場で何回も日本加盟を支持するよう要求、国連の場でもソ連に対する直接の働き掛けが行われた。
 九月には加瀬国連大使が、モロトフ・ソ連外相と会談して日本の国連加盟支持を要請したが、モロトフ外相は明言を避け、「日ソ交渉妥結が先決」との態度だった。
 当時カナダなどが提案した十八か国一括加盟案が成立するかどうかが焦点で、多くの国が賛成していたが、ソ連は日本に反対、アメリカは外モンゴルに反対し、中国国府(現台湾)もアメリカに同調していた。
 ところがそのアメリカは、カナダや日本の説得によって、作戦を変更し、外モンゴルを拒否しない、との方針を決めたのに、こんどは国府が応じない。国府に対してあらゆる国がさまざまな方法で説得を試みたものの、ことごとく失敗、結局安保理事会の採決では、国府の拒否権に対抗してソ連も日本に拒否権を発動、日本加盟は寸前でご破算となる。
 今回の公開外交文書ではアメリカのアイゼンハワー大統領が三回にわたって蒋介石総統に親書を送り、説得をしたことが明らかになった。その中には当時すでに問題になりかけていた中共(中国)の国連加盟、国府追放の動きにからめて「来年まで国府の国連議席を保証するから」といった働き掛けも行われている。
 日本も何回も国府説得を行い、重光外相の井口駐米大使に対する電報は「今度の総会は日本の国連加盟に絶好の機会であり、これを逸することになれば日本国民の失望はその極に達すべく、もう一度米国政府に要請して国府説得を」と指示している。
 また、重光外相は国府に「拒否権発動は国府の国際地位に重大な打撃を与え、中共に有利になる。日本としてはこのような事態は極めて遺憾で、重大視せざるを得ない」との半ば脅しともとれる激しい言葉を使っている。
 国府は最後は〈1〉国連から議席を失っても、民族の名誉を守る〈2〉世論は政府に同調している。アメリカから態度変更の事前通告がなかった。いまさら同調を申し入れても手遅れ〈3〉国府の存在理由は反共にあり、これを無視するのは自殺行為、などと主張した。
 日本を含めた十八か国一括加盟案が失敗に終わり、さらにソ連の奇襲作戦によって日本、外モンゴルを除外した十六か国一括加盟案が採択されて日本だけが取り残されたあとにも、加瀬大使や井口大使からは、「このまま日本だけが犠牲者になるのはいかにも残念なので、なんとかもう一度国府説得ができないだろうか」という本省あての電報も何通か公表されている。
 第十回総会の失敗にこりた日本政府は、翌三十一年に入って、国連の最大“派閥”を形成していたAA(アジア・アフリカ)諸国や中南米諸国に対し、関係在外公館を総動員して猛烈な根回し工作を始める。十一回総会での単独加盟を果たすためには、「ソ連をして外モンゴルと日本をリンクさせない方向に誘導するよう、世論を盛り上げ、ソ連に道義的圧力を加える必要がある」(三月、加瀬大使の加盟促進方策にかかわる本省あて電報)と判断したためだ。
 特に、コロンボ会議幹事国であり、AA諸国の主要国だったセイロンへのアプローチは激しく、英連邦首相会議(六月、ロンドン)では日本の国連加入を支持する決議を採択させる工作にも成功した。
 一方、国連のハマーショルド事務総長も、六月に自ら訪ソ、シェピーロフ外相に非公式に日本加盟を要請するなど、“黒子”となって動いたことが加瀬大使の電報から明らかになっている。こうした世論工作が功を奏してか、七月にモロッコ、チュニスが相次いで単独加盟した際、ソ連代表は外モンゴルの加盟に言及することもなく、「ソ連軟化」を思わせた。また、十月の日ソ交渉で鳩山首相がブルガーニン首相と会談した際、鳩山首相が「他国の国連加盟と関連せしめることなく、ソ連が日本の加盟を支持することを確認したい」と迫ったのに対し、ブ首相は「日ソ国交正常化の場合は日本加盟を支持する」と言明、十一回総会での加盟実現は秒読みに入る。
 この年の三月の外務省国際協力局の分析では、ソ連のかたくなな姿勢などから「第十一回総会での加盟は極めて困難」と断じていたが、状況はこのようにじわじわと変わっていった。
 日本政府は、十二月の安保理議長であるペルーに日本の単独加盟勧告決議案の提出を依頼、日ソ共同宣言の批准書交換直後の同月十二日に同決議案は安保理で満場一致で可決された。十八日の総会で日本の加盟は前例のない五十一か国もの共同決議案として上程され、欠席の南アフリカ、ハンガリーを除く賛成七十七か国で満場一致採択された。すぐに日本国代表として登壇した重光葵外相は、日本は「東西のかけ橋」として国連に誠実に奉仕する決意を表明。“悲願”を果たした加瀬大使は、重光外相の演説開始を待たずに本会議場を飛び出し、「加盟満場一致承認。委細追電」の大至急電を東京に送った。
◆バンドン会議 米に配慮、参加迷う 「中共」と同席・・・弁明の伝言◆
 新興諸国間の連帯と帝国主義、植民地主義の排除をうたい、第二次大戦後の世界秩序を大きく変えた第一回アジア・アフリカ会議(通称バンドン会議)が昭和三十年四月十八日から二十四日まで、インドネシアのバンドンで開かれ、日本も招請された。わが国にとって独立回復後に参加した最初の国際会議であった。
 バンドン会議で採択された「世界平和と協力の促進に関する宣言」(平和の十原則)はアジア・アフリカの主体性確立の出発点となり、アフリカ植民地諸国の独立ラッシュの導火線となった。
 今回公表の外交文書はバンドン会議に関するものが全体の一四%近くを占め、わが国にとってもこれが一大イベントであったことをうかがわせる。だが、招請を受けるかどうかで強く逡巡(しゅんじゅん)、総選挙前という事情もあって、受諾回答まで二か月以上かかっており、会議がその後の第三世界を結集する動きに発展するとは見通していなかった。代表代理を務めた加瀬俊一氏も「当時、外務省は参加論と慎重論で二分され、参加すべしと主張した私が行かされた」と述懐している。
 参加をしりごみしたのは、加瀬氏も指摘しているように「中共」(中国)が参加する国際会議に出て、アメリカからにらまれたくない−−という外交姿勢のためだった。当時はネール・周恩来の平和五原則の全盛期であり、周首相の“微笑外交”にのせられはしないか、との懸念も強かったという。
 したがって、「元来、広くアジア諸国との親善関係を強化することはわが国基本政策の一であり・・・出席を拒否する理由はないように一応考える・・・」(三十年一月七日付、アジア在外公館長あて極秘電)と及び腰で、アメリカに対しても「アジア多数国の会議であり、参加を拒否することは困難であると考えている。参加国中には各種の魂胆を有するものもあると思うが、むしろ日本が参加することにより、好ましからざる方向にリードされることを阻止することにも貢献しうるのではないかと思う」(一月二十七日付)とダレス米国務長官に伝言している。
 わが国にとって会議参加の最大の収穫は、高碕達之助代表(経済審議庁長官)が周恩来首相と秘密会談し、当時の困難な日中関係のなかでLT(廖承志・高碕)貿易の端緒をつかんだことだろう。日中民間貿易を正常なレールに乗せた高碕氏の功績は高く評価されているが、これについてのバンドンからの公電は一本もなく、「本朝、開会式に先だち、たまたま本代表は周恩来と隣席したのであいさつを交わしたが、これが報道陣の目にとまり、誇大に放道(原文のまま)された形跡がある・・・」(四月十八日付)というだけ。高碕氏は四月二十二日に周首相と一時間にわたって非公式に会談、通商関係拡大で意見を交換したが、この件に関してはまったく報告されていない。
◆ガット加盟の舞台裏から やむなく自腹で交際費◆
 昭和二十七年十月の第七回総会後、萩原代表(駐スイス公使)が岡崎外相に提出した極秘扱い報告書の一部。
 「国際会議は予め(あらかじめ)舞台裏において進められて行くものであることに留意され、かかる工作には必要な交際費として、今回の経験に徴し、少なくとも一千ドル程度用意されたい。(中略)夜間、各国代表とは互いにホテルへ往訪し合う慣例である。今回は本使自費でホテルにサロンを持っていたが、事務室費として一日三十フラン送金願いたい」
 
 第七回総会に先立ち、萩原・駐スイス公使が岡崎外相にあてた昭和二十七年九月九日付書簡。在欧勤務者以外に、本省からも要員派遣を要請したうえ「本件会議は、経済全般に亙る(わたる)会議であること御承知の通りであるので、大蔵省よりオブザーバーを派遣することは、予算折衝の便宜を除けば、むしろ不必要と思う。この点取扱は慎重を要すること御如才なきことと存ず」とある。
 いまも昔も変わらない役所の縄張り争い。だが、実際には外務、大蔵、通産各省十四人からなる代表団が派遣された。
 日本仮加入の決議案に対する投票結果(昭和28年10月23日。太字は9月22日、松本俊一代表がジュネーブから岡崎勝男外相にあてた極秘電で賛成確実とした国)
 
《賛成》
 オーストリア、ベルギー、ブラジル、カナダ、セイロン、チリ、キューバ、デンマーク、ドミニカ、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハイチ、インド、インドネシア、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ニカラグア、ノルウェー、パキスタン、ペルー、スウェーデン、トルコ、アメリカ
《棄権》
 オーストラリア、ビルマ(ビルマは投票翌日、賛成を通告)、チェコスロバキア、ニュージーランド、南ローデシア、南アフリカ連邦、イギリス
◇第10回公開外交文書関係年表(昭和)
27. 4. 28 対日平和条約、日米安保条約発効
6. 16 国連に加盟申請
8. 15 国際通貨基金(IMF)に加盟
9. 18 国連安保理、日本加盟をソ連拒否権で否決
28. 7. 27 朝鮮戦争休戦協定調印
9. 15 日米航空協定発効
10. 23 ガット、日本の仮加入を可決
29. 4. 10 「地獄門」カンヌ映画祭でグランプリ
7. 11 「原爆の子」プラハ国際映画祭で平和賞
21 インドシナ休戦協定(ジュネーブ協定)
9. 7 「七人の侍」「山椒大夫」ベネチア映画祭で銀獅子賞
10. 6 コロンボ計画加盟
12. 7 吉田内閣総辞職、鳩山内閣成立
30. 4. 18 アジア・アフリカ会議(バンドン会議・24日まで)
6. 1 ロンドンで日ソ交渉開始
7 ガット正式加盟調印(発効、9.10)
7. 18 ジュネーブで米英仏ソ4国巨頭会談
10. 13 日本社会党統一
11. 15 民主、自由両党が保守合同、自由民主党結成
12. 13 国連安保理事会、18か国一括加盟案を否決
14 ソ連が16か国一括加盟案提案、採択
31. 10. 7 鳩山首相訪ソ、日ソ正式交渉開始(15日〜)
19 日ソ国交回復に関する共同宣言
12. 12 安保理、日本単独加盟の勧告決議採択
14 自民党総裁に石橋湛山当選
18 国連総会、日本単独加盟を全会一致で承認
 
 
 
 
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