1990/10/21 毎日新聞朝刊
[社説]明確になった「平和法」の欠陥
十九日の衆院予算委員会審議を通じて、国連平和協力法案の疑問は一段と強まった。自衛隊の海外派遣という日本の将来にかかわる重大問題であるにもかかわらず、政府見解はぐらつき閣内不統一をさらけだした。
自衛隊の派遣に賛成している民社党の米沢書記長までが「これでは時の内閣の解釈でいくらでも拡大解釈される可能性がある」と指摘したほど、政府の拙速な対応のほころびが露呈されている。
そうした懸念は国内だけではなく、海外にも波紋を広げている。韓国の崔外相が憂慮を表明したのをはじめ、アジア近隣諸国は自衛隊の海外派兵につながるとして批判を強めている。憲法に対するあいまいな姿勢が、国内外の不安をかきたてているのだ。
政府は国民の合意とはほど遠く、あまりにも欠陥が多い平和協力法案の成立にこだわるべきではない。ポスト冷戦のもとで、国際平和と安定のために積極的な役割を果たすのは当然だが、その貢献策は軍事偏重ではない別の視点から検討されるべきだろう。
国会論議を通じて、自衛隊の「多国籍軍」への協力の根拠があいまいで、歯止めがかからない恐れが多分にあることが明らかになった。
自衛隊を中核とする平和協力隊は、多国籍軍支援の根拠を国連決議に置いている。しかし、米軍がサウジアラビアに派遣された段階では、国連憲章五一条に基づく集団的自衛権の行使によるものとされていた。イラク経済制裁の六六一号国連決議、その実効を確保するための六六五号決議のあとも、国連との関連はかならずしもすっきりしているとはいえない。
政府統一見解は、協力の対象として国連決議に基づく国連の活動だけではなく、「その実効性を確保するために加盟国等が行うその他の活動」を挙げ、多国籍軍はその一例としている。政府の判断で協力の範囲がいくらでも広がる可能性がある。
しかも、対イラク抑止を目的とする米軍が軍事行動を起こせば、国連決議の範囲を超える場合でも協力することになりかねない。中山外相が一度は「国連決議がなければ本法は適用されない」と厳格な解釈をしたことを考えると、政府の姿勢のぐらつきは軽視できない問題だ。
将来の国連軍への自衛隊参加の問題では、工藤内閣法制局長官が「わが国を防衛するものとは言い切れない国連軍への自衛隊の参加は、憲法上問題が残る」として、憲法上の疑義を明確にした。
その根拠として(1)自衛隊は自衛のための必要最小限の組織であり、武力行使の目的をもつ海外派兵はその範囲を超える(2)集団的自衛権の行使は憲法で許されていない――などを挙げ、従来の憲法解釈を守る姿勢を示している。当然のことだと思う。
もともとこの問題は、首相や外務省が「集団的安全保障」という新しい概念による自衛隊の参加を示唆し、実質的な憲法解釈の変更を意図したことから表面化したものである。
法制局長官の見解で、今国会中の新解釈提示は困難になったとみられているが、いま憲法解釈の変更を見送っても、政府の判断次第で再燃する可能性は残されている。外務省は集団的安全保障により、国連憲章第四二条、四三条の国連軍、一定の条件を整えた多国籍軍への自衛隊の参加は可能だとの判断を依然として変えていない。
安保理事会が多国籍軍による対イラク武力制裁を決議すれば参加できるというのが外務省の見方だ。ベーカー米国務長官が同決議に言及しているのをみても、自衛隊の参加問題は遠い将来のことではなく、状況次第では差し迫った問題として対応を迫られる。平和協力法案による協力と「将来の自衛隊参加」が限りなく接近することもありうる。
法制局と外務省の見解が分かれている現状では、政府の憲法解釈は最終的には首相の政治判断が重要になる。首相は「研究中」という逃げの姿勢を改め、態度を明確にすべきである。
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