全体会『全国ボランティア研究集会 34年を振り返って』
コーディネーター 斎藤 信夫(日本青年奉仕協会事務局長)
斎藤 こんにちは。斎藤と申します。よろしくお願いします。今日でこの全国ボランティア研究集会は幕を閉じることになりました。最後にこの34年を振り返える企画です。全部で18人の方に登場してもらい、メッセージをいただきたいと思います。
私は、この集会には第3回から関わっています。当時は大学生で、ボランティアスタッフとして関わりました。その後、協会の職員になり、ずっとこの全国集会を担当していて、北海道、高知、佐賀、岐阜集会には参加していなかったのですが、合計28回に関わりました。
岐阜集会の成果
斎藤 去年は岐阜で第33回集会を行いました。岐阜集会でも活躍してくださり、また、その前には全国運営委員をやっていただいた大下大圓さん、どうぞステージにお越しください(拍手)。本職は飛騨千光寺の住職です。大下さんは全V研を「岐阜がボランティア活動が盛んだからではない、遅れているからやりたい」ということを言ったらしいのですが、その後、どうですか?
大下 そうですね。いろいろな温度差があったので大変でしたが、とにかく岐阜県内のネットワークをなんとかつくりたいということで、3年間かけて実行委員会を結成して、プロセスを大事にやりました。
斎藤 今は何かそういう組織ができているのですか?
大下 県内5圏域にボランティア・コーディネーターを配置して、県内のボランティア・ネットワークができました。この全国集会は終わりますけれども、岐阜県では、これから毎年、県内ボランティア研究集会5圏域持ち回りでやることが決まりました。今年は飛騨でやりますので、是非また来て下さい。だれでも参加できます。
ケアする人のケア 〜チャイルドライン〜
斎藤 皆さんをお待ちしているそうです。どうもありがとうございました(拍手)。あちらに「庄内亭」があります。亭主、富樫さんです。ゆっくりお酒を飲んでいただこうということで、席を用意しています。
この集会の第1回目は人数も少なかったのですが、社会教育や青年団の関係者と社会福祉の関係者が初めてこの、今の全国ボランティア研究集会で出会いました。澤畑さんと大脇さん、ステージの方へお越しください。
澤畑さんは第6回東京集会に関わって、世田谷のボランティア連絡協議会やボランティア協会をつくられたり、雑居まつりをやっておられます。最近では、チャイルドライン支援センターに関わっておられます。本職は児童館の職員で、子どもの命と人権ということを追及しておられます。
澤畑 昨日の分科会の報告が、若者たちからもありましたけれども、日本の中で、子どもたちを支えていく人たちが、ぼろ雑巾のようになっている現状があります。今、チャイルドラインという、子どもの心、子どもの気持ちを受け止めるという運動をやっていますが、その中で、電話を受け止める人たち、つまりケアをしていく人たちをケアしていくというシステムを日本全国につくっていきたいと思っています。
斎藤 ありがとうございます。東京で開催するたびに、澤畑さんは黒子になって物を運んでいただき、大脇さんには、知的活動をやっていただきました。第19回(1988年)のテーマは、「多発・多元・多重するネットワーキング」でした。全国集会で、いろいろな人に会ったと思いますが、ネットワーキングの秘訣はありますか。
大脇 ぼくは地域型で、自分の町を大切にしながら生きているんですが、そこでまちづくりにかかわりながら、やはり「感じたら動いてみる」ということ、感動する心を持ち続けるということが大切だと思っています。それが秘訣です。それと、異分野の人と意識して会ってみることです。一緒に協働してみるということをやってきたことがつながりをつくってきたと思います。
自分がその気になり、感動すること
斎藤 異分野の人と出会ってみることが大切なんですね。
続いては昼の部も夜の部も元気な小松光一さん、いらっしゃいますか?小松さんは千葉県農業大学校の教官をなさっていました。社会教育が専門です。第11回(1980年)から時々関わっていただいています。今は、グローバル地域研究所で、人づくり、地域おこし、まちづくりに関わっていて、自称放浪詩人とおっしゃっていますが、全国あちこちで、若者をその気にさせて、はしごを登らせて、はしごをはずす名人です。庄内亭の富樫さんも、はしごをかけられて、はずされたひとりです。人をその気にさせる何か秘訣はあるんですか?
小松 まず、自分がやはりその気にならなきゃだめです。自分がその気になる、感動する。それが第1です。第2点は、やはり、その気になった者を乗せちゃう。ぼくは基本的に「ハッタリ8割、嘘2割」です。
斎藤 ハッタリ8割、嘘2割?
小松 嘘が10割じゃないですよ。ハッタリ8割、嘘2割ですから。少し毒を盛る。そうするとしびれてしまうんですね。
斎藤 その毒の盛り加減が難しいですね。
小松 まあ致死量に至らない程度ですね。
斎藤 至ったら死んでしまいますからね。
小松 そうです。そうなるとその地域はおしまいですから。ぼくは2階に上げて、はしごを取っちゃう。取られちゃうと飛ぶしかないでしょう。ぼくはネパールでうさぎが飛ぶのを見ました。
富樫 こうやっていつも騙されるんです。
エンカウンタリング・ギャザリング
斎藤 ありがとうございます。続いて、第15回(1984年)の東京集会から、18回ぐらいこの集会に関わってくださった吉永宏さんです。吉永さんは、常磐大学コミュニティ振興学部の教授です。YMCAで長らくお仕事をしていらっしゃいました。今回は、分科会「仲間を増やし、リーダーを育むためには」という分科会のファシリテーターをしていただきました。そのプロフィールによると「驚き、楽しみ、考えさせるエンカウンタリング・ギャザリング」ということですが、これは何ですか?
吉永 エンカウンターというのは、普通の出会いではなく、人格変容が起きる出会いのことを心理学でエンカウンターと言っています。全ボラはやはり、そういうことだろうな、とぼくも振り返って思います。やはり、人が変わる。人を変えるのではなく、自分が変わる。そういうところでの理解です。
ギャザリングは、設定があるのではなく、さきほどの若者たちのように、「アベちゃん」というかわいい犬がいましたよね。ああいうように、仕掛けないで、そのまま、素直なまま、というのが、ギャザリングではないかと思っています。
斎藤 特に今回の34回は、初日も地域に入ったら交流会。昨日の湯野浜温泉の亀やにいったら大交流会。あれもそうなんですかね。
吉永 そうですね。毒のあるところでしょうね。ただ、この後はどうなるんですかね。
斎藤 後ほどまたお話ししますけれども。
吉永 やはり毒はなくしてはいけないですね。
「やっど」精神
斎藤 この集会は、いろいろな地方でも開催しました。ちょうど第20回目(1989年)の時に、宮崎県で開催しました。この中で、宮崎集会に行ったという方はいらっしゃいますか?いらっしゃいますね。
永山倫太郎さんは、宮崎県ボランティア協会の設立にずっと関わったのですが、その下に、家族ぐるみでボランティア活動を楽しんでいるというのがあります。今、子どもと一緒にいろいろやってますね。
永山 そうですね。はっきり言って家庭崩壊状態です。妙にボランティア心理というのは、人と張り合うというところがあります。
さっきも若者が、悔しい思いをして、来年は自分もでかいことを言ってやるぞと言ってましたが、その繰り返しです。家庭でそれぞれ、親子が張り合って、いろいろなことをやっていて、修羅場なんですが、いつか、今日の若者が言っていたように、浸透して、やがて家庭が落ち着く日を待っているのですが。
斎藤 全V研を開催して14年経ちますが、宮崎ではその後どういうふうに変わりましたか?
永山 はっきり言って、全V研をやった時には、ぼくらが動いたけれども、何も起こらなかったんです。ぼくらがボランティアだ!と大きい顔をしていました。でも14年経って、最近は、どんどん普通の人が、ボランティアだ、と大きい顔をして、それぞれおもしろい活動をやったり、フィルム・コミッションで映画をつくったりという、ぼくらではとてもできなかった新しいことができています。ぼくらがやってきたことは、しっかり地元の人にも伝わったんだな、ということができて、宮崎でもすごく盛んになっているから、ということで、今日はちょっと大きな顔をして聞きました。
風は西から
斎藤 はい、ありがとうございます。宮崎の風は、その後第22回(1990年)で関西集会となります。太田昌也さんと藤本守さんに登壇していただきたいと思います。太田さんは、今も全国運営委員をお願いしているわけですが、古くから点訳をやっていましたね。今もやっているんですか?
太田 点字はほとんど忘れてしまいました。
斎藤 関西集会で実行委員会をやっていただきました。関西集会のテーマは「風は西から、新しい私の発見」だったのですが、今は、どんな風が吹いていると思いますか?
太田 今は「協働」という怪しげな風が吹いて、NPOというアドバルーンがゆらゆら揺れている感じかと思いますが。
斎藤 藤本さんはどうですか?藤本さんは京都ボランティア協会の立ち上げに関わりましたね。
藤本 そうですね。今日はここで若い人たちのがんばった声を聞き、昔をなつかしく感じました。あの時は、本当に何もなかったところから立ち上げてきました。今は物がありすぎて、ただ、心が寒いな、というのがあります。今日も、若い人たちががんばろうという声を出しましたので、これが温かくなって、西から、もう春がきますから、春に寄せてぜひがんばってほしいと思います。
協会にとって、一番問題なのは、皆さんも団体を経営されてたらそうだと思うのですが、お金です。だんだん厳しくなるというのが、今の時代ですから、これから、いろいろな形で資金を調達するなり、自分たちで掘り起こすお金をつくって、絶対につぶさないようにしたいと思います。このような市民活動が、本当にがんばっていられたら、この社会は本当に盛り上がってくると思います。それを期待するわけです。
太田 もうひとことだけ、ちょっと言いたいのですが。実は今、藤本さんも言ったように、ぼくらあの時は本当にごく僅かな人間から始めてやってきました。あのときは関西の企業がどんどん東京に本社機能を移していて、なにか中央集権的なものに反発を感じ、「東京がなんやねん。関西から風吹かしたろ」ということでやりました。それから後、ぼくたちも全国運営委員として、JYVAと一緒にいろいろなところに風を起こす運動をやってきたわけです。
全V研は、ここでもう終わるということですが、新たに、いろいろな地方から、風を起こしてやろうという人がたくさん出てきてほしいと思います。
全V研がステージとなって
斎藤 岐阜でも地域で風を吹かそうというのがありました。ぜひそうしてほしいと思います。
次は、「私はボランティアで会社を辞めました」の菊池さんです。私と出会った時は、会社員だったのです。某スーパーで催事課長をやっていまして、全V研が終わってしばらく経ったら辞めていました。辞めて何をしたかというと、遊民館という子どものフリースペースや、えひめNPOセンター、企業の社会貢献活動などを地元でいろいろ仕掛けてきたわけです。菊池さんにとって、全国ボランティア研究集会とは何だったのでしょう?
菊池 本当に感謝を込めて言いたいのですが、ぼくはステージをいただいたと思っています。会社を辞めるかどうかというのは、2年か3年、考え続けていました。というのは、会社は転勤があるからです。もしも松山にいられない異動が出た時に、会社を取るだろうか、松山を取るだろうかと考えていて、たぶん松山を離れられないだろうと思っていたころでした。たまたま全V研愛媛集会(1994年)で企業の社会貢献の分科会というのをやってくれ、と言われて、それから深入りをしてしまったという感じです。
別に全V研が辞める決心をさせてくれたということではないんですが、たまたま松山フィランソロピーネットというのをつくって、その次の年に阪神・淡路大震災がありました。それで、会社に行っている暇がなくなり、自信はなかったのですが、地震があったので辞めました。
全V研で出会った人から、いろいろお誘いを受けて、あちこちお招きいただいて飛び歩いたりしているうちに、8年経ってしまいました。未だに無職ですが、なんとなく食えています。これが不思議です。
参加者から
斎藤 どうもありがとうございました。
次は参加者を代表して、沖縄県から金城さん、栃木県から赤羽さん、東京の福澤さん、お三方、お上がりください。
金城さんは高等学校の先生です。子どもたちのボランティア活動を応援して伸ばしていこうという活動をなさっています。今回参加して、教員としての立場でどんな感想を?分科会はスクールインアクションでしたよね。
金城 そうですね。私は、さきほどのプロジェクターで紹介があった、第23回(1992年)の長崎大会で、障害を持ったかた、持たないかた、いろいろな方々がいろいろな立場で参加されているのを見て刺激を受けました。そして「高校生のそういう集会がつくれないだろうか」ということで「肝清祭(ちむじゅらさい)」というのをやっています。「ちむ」というのは心のことです。心の清らかな祭りをしようということで立ち上げて、もう8年目になります。この集会は、各地域で開催されています。いろいろな新しいプログラムがあるので、非常に参考になるんです。
今回も、同じように、子どもたちに対するボランティア学習のプログラムづくりで、非常に勉強になりました。ありがとうございます。
斎藤 今回で終わりますが、これからどうしますか。
金城 自立しないといけないのかな、と思っております。また、岐阜のほうでも、大下さんが企画されているものですから、便乗させていただきたいと思っております。
斎藤 ありがとうございます。赤羽さんは、栃木県庁のNPO担当です。34年前は行政がボランティアを応援するというのはなかったわけですが、近年だと、行政の中に市民活動支援課とか、支援センターができるという形で、世の中は様変わりしているわけです。今回参加して、行政の立場でどうでした?
赤羽 その前にちょっと聞いていいですか?行政の方、いますか?いますね。私は岐阜集会から来ているんですが、去年NPOの担当ができまして、岐阜では初日の全体会と交流会に出ただけで帰ってしまったんです。この交流会はいいな、ということで、今年は交流会に来たんです。昼は寝てても夜は・・・。
斎藤 ちょっと待ってください。赤羽さんは、「どうするボラセン」に出ていることになっているんですが。
赤羽 もちろん出ていますけれども、それは寝ててもいいから、交流会、という・・・(笑い)。それが仕事です。理想のボラセンということで、ここで答を持って帰れば県の問題も一挙解決なのですが、でも、解決してなかったんです。みんなで考えましょう、というのであって、それが理想のボラセンですから、答はないのです。
おもしろかったのは、「人、もの、金、場所」というくくりが、ワークショップの最後に出てきました。そうすると、お金という人と、場所という人がいたのですが、でもやっぱり人かな、という話になりました。この「人」の部分は実際には意外と見ていないんですね。場所とかお金は見るのですが、人は見ていない。人の絆が大切だということなので、やはり交流会だな、と思いました。
それで、聞かれる前に言いますが、34回で終わっちゃうのかな、と思って、事務局の人に「終わっちゃうんですか?」と聞くんですが、みんな「終わるよ!!」って、なんか終わるような言い方じゃないんですよ。
斎藤 明るく元気に言うでしょう。
赤羽 明るく元気に、なんか来年も当然あるような言い方をされるので、どうしたのかなと。やるとは言わないのですが。
斎藤 赤羽さん、やってみてはどうですか?
赤羽 いや、私は役人でがんばります。
斎藤 役人も個人で大丈夫ですよ。
赤羽 もちろん、もちろん。今日は仕事です。
斎藤 今日は仕事。でも市民ですよね。
赤羽 そうです。
斎藤 ありがとうございます。続いては福澤さんです。本職はデザイナーなんです。昔、ヘルプ・バングラディシュ・コミティーというのが1年だけ、うちの事務所の中にありましたね。
福澤 そうです。まだ、電話番号を覚えていますよ。机が2つだけのところから間借りして始めて・・・。
斎藤 そのころ、ボランティアとかNPOを応援する場所がなかったものですから、JYVAのボランティア活動センターの一角に事務所をお貸ししたのですが、夜までずっと作業をしているんです。今はシャプラニール=市民による海外協力の会という団体になりましたが、そこにずっと関わっておられます。久しぶりの全国集会ですが、国際協力の状況は、何か変わりましたか?
福澤 すごく変わりました。私たち会は、今年でちょうど30年目です。最初は、JYVAのほんの小さな四畳半ぐらいの部屋に6グループいて、海外協力をやっているところは、日本でも本当になくて、市民が主体的にやる、というのは我々が最初だったと思います。それからすると、大きく変わりました。今は日本で400団体以上を数えるのではないでしょうか。NPOと同じような形で、海外協力をやる市民活動の社会的気運が、いたるところに出てきました。
斎藤 そうですね。今は、政府と企業とNPOが協働しているジャパン・プラットホームなどの取り組みが出てきています。
福澤 ところで、この全V研、なんでやめるの?みんな納得しているのかな。反対の人?継続して欲しい方?
(拍手)
斎藤 ありがとうございます。
福澤 やっぱり、俺たちの応援が足りない?
斎藤 応援をしてもらうよりは、自分たちでやっていただくのがいいのではなかろうかと。
福澤 冷たいじゃない。責任放棄して。
「ばっけ」は咲いたか?
斎藤 ありがとうございました。それでは続きまして、お隣の秋田県から安部さんと菅原さん、ご登壇願えますか? 秋田では、「彩、才、多彩ボランティア」というテーマで行いました(1996年)。安部さんは、秋田集会の時には運営委員ですが、何回からのご参加ですか?
安部 私は、20回ぐらい参加しています。最初のころの東京の集会が印象に残っています。飛び飛びに行っていて、ずっと続けて出始めたのは、山口集会からです。
斎藤 秋田で言えば「ばっけは咲いたか」、つまり「ふきのとうは花開いたか」というサブテーマがあったわけですが、その後はどうですか?
安部 あの時は、ちょうど2月で、寒い時でしたので、ばっけというのは、雪の下からもう芽が出ております。その芽は、間違いなく秋田県中に花開くことになりました。ばっけのかまりっこ、あの、何とも言えないほのかな匂いは、全国に風となって流れました。私は、秋田集会以来、ボランティアの輪というのは、風だけではなく、人間なツナガリズムが広がっていったような気がして、間違いなく花は咲きました、と言いたいと思います。
斎藤 ありがとうございます。続いて菅原雄一郎さん。実は菅原さんは「移動サービス市民活動全国ネットワーク」という団体の設立に参画されました。移動ネットのメンバーは、ここにいらっしゃいますか?こういう全国組織が、この全国ボランティア研究集会から生まれてきた、という成果があります。その後、何か進歩はありますか?
菅原 こういう全国の大会の中で、移動の問題を取り上げているのは、ここ全V研だけなんです。もう5、6回やらせていただきました。今、実は、一番注目を浴びているのは、構造改革特区の問題です。この中で、1206(NPOによるボランティア輸送において、有償運送を可能化)と1207(交通機関空白の過疎地において、生活交通確保のための有償運送を可能化)というのが、それに該当しています。今度、意外とスムーズにできるようになるという錯覚を起こさせているところです。
それから、支援費制度についても、今回の分科会でいろいろと話が出ました。全国でいろいろな団体がいっぱいできました。これはやはり、全V研などのおかげなのかなと感謝しています。
斎藤 こちらこそ感謝してます。実は、2人とも同じ第2分科会の参加だったんです。菅原さんがプレゼンテーターで、安部さんが参加者。どうでした?何か得るものはありましたか?
安部 介護保険がスタートして、4月1日からは支援費制度、つまり、障害者の介護保険がスタートします。そういうところで、移動する、あるいは、移送とは何か。改めて、いつでもみんなが当たり前の生活ができるように動き回れる、つまり移送・移動のノーマライゼーション化をこれから目指そう、という思いを、みんながいっしょに持つことができました。
菅原 ひとつだけ、みなさんに言っておきたいのですが、社会福祉協議会関係では「移動サービス」ということばは使っていないんです。「移送サービス」ということばを使っています。私どもは「移動サービス」もしくは「送迎サービス」、「移動介助サービス」といったように、「移動」ということばを使います。なぜかと言うと、悪いことをした人を、昔は「護送」とか「押送(おうそう)」ということばを使ったのですが、今では何でも全部「移送」なんです。そんなのといっしょにされてたまるか、ということで「移動」という言葉をつかっています。
斎藤 「移動」の場合には、主体的な意志があるんですよね。
菅原 そうです。個人の意志があるので「移動サービス」という呼び方をしています。「移送」をなくすわけにはいかないので、今は「移動(移送)」という取り扱いをしているところが多くなりました。これも全V研のおかげです。
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