全体会『ボランティア一揆!公益の地から発信!!』
第1部 公益とボランティア
コーディネーター 加藤 哲夫(せんだい・みやぎNPOセンター)
パネリスト 小松 隆二(東北公益文科大学学長)
東山 昭子(鶴岡市ウイメンズ・フォーラム代表)
加藤 コーディネーターの加藤と申します。仙台で「せんだい・みやぎNPOセンター」という団体で支援の仕事をしております。
今日は、お二人のゲストをお迎えしています。
「ボランティアと私」ということで、ご自分の取り組み、それから、この庄内でのいきさつなど、ご紹介いただきたいと思います。
公益のふるさと「庄内」
小松 私どもは、この地を「公益のふるさと」と呼んでおります。公益のふるさとへ、全国からおいで下さって、本当にありがとうございます。
一番長くやっているのは、難民救援活動、それから里親活動です。難民救援は40年前に少しかかわったことがあります。それ以来、難民救援と合わせて、アジア人の支援や交流を続けています。
それから、里親を30数年やっております。しかし、もうこの年ですから、里子さんを取るということはできなくなっております。
最初にひとつだけ紹介させていただきますが、これは「鶴の恩返し」という紙芝居であります。各地で伝承されてきており、それぞれ「うちが本家だ」と言いますが、一番確認され、認められているのは、山形県であります。
なぜこれを取り上げたかと言いますと、このように農夫が鶴を助けることは、動物愛護にもつながります。鶴が恩返しをするということはまったく無償で、営利を考えての行為ではありません。まさにボランティアですね。こういうものが実は公益の原点、出発点です。
山形県には、幸いこういう公益のふるさとにあたる原点がたくさんあります。この庄内にもあります。いかにも公益文科大学をおいていただくのは、山形県にふさわしい話ではないか、ということで、最初に紹介させていただきました。
加藤 ありがとうございます。「公益」と言われますと、なにかわかりにくいとか、たいそうなことではないか、という感じもあるかと思うのですが、人と人の助け合いや支えあいのようなものが、人間社会のすべての原点だというお話ではないかと思います。
それでは東山昭子さん、鶴岡市ウイメンズ・フォーラムの代表です。
東山 皆様、よくおいでくださいました。
ウイメンズ・フォーラムは平成5年に「女の視点での町づくり」というところから出発しました。女性の視点ということですが、やはり男性と一緒にでないと本当の姿は見えてこないので、設立当初から、男性と女性が一緒になりながら、町づくりの団体として活動してきました。
住み続けたい町づくり、そして、安心と誇りと優しさに満ちた町づくりを目指し、「つなぐ・むすぶ・ひらく」をキーワードに、各団体をつなぐネットワーキングの活動を行っています。メンバーはそれぞれの団体を持ったうえで、月例会を重ねております。メンバーは20代からおり、私が最年長で、50代を中心にして動いている団体です。
加藤 男性の方は、何人ぐらいいらっしゃるのですか?
東山 最初は3人。今は一人で10倍の働きをして下さっております。
加藤 東山さんは、長年、学校の先生をされていたということですよね。
東山 私は高等学校の教員として37年やっておりましたが、後の20数年間は、社会教育と一緒にやらせていただきました。というのは、それまでは、学校と家庭の往復だけだったのですが、水産高校の教諭をやっておりましたころ、生徒が最後まで物を言わなかったり、どこかで語尾が消えてしまう。どうしてなのか体験してみようと、同僚と二人で、市民講座に行ったのです。
そうしたら「学校の先生は・・・」という批判を何かにつけていろいろ受けるのです。学校の先生だからと言われても困る。学校の先生には、もっと立派な方々も、それぞれできる方々もたくさんいる。「女性だから」と言われても、私が女性を代表するわけでもない。やはり一人ずつの生き方を考えていかなければ、ということで社会教育と一緒にやらせていただいたということです。
加藤 ありがとうございます。お人柄が伝わったのではないかと思います。
庄内の公益の源流
加藤 公益文科大学あるいは小松さんのお仕事の中には、この庄内というものの風土や人を、どう見ておられるかという視点がおありではないかと思います。少しそのあたりをお話しいただけますか。
小松 先ほど、この庄内あるいは山形が「公益のふるさと」だと言いました。しかし、「もう山形や庄内がそう名乗っているのなら、秋田県や、山口県に帰っていっても、もう先を取られて意味ないな」ということはないです。
たとえば、山形の母なる川、最上川の源流は二か所が源流を名乗っています。そして、集まって最上川になる。公益というものも、山形が本家で、これ以外はあり得ないということはないのです。山形には山形の源流があるということです。
そう考えて、ぜひ皆さんも「自分は福岡だ、福岡に帰ったら調べてみよう」と思ってください。山形に負けない、すばらしい個性的な公益の源流があるのです。そういう考えで見ていただくと、大変おもしろいと思います。
去年、公益大学の先生が、大学の近くに公益の碑を発見しました。山形新聞の一面にも「公益の碑、蘇る」と出ました。ところが、今度はその教え子が、隣の藤島町で公益の碑を発見しました。
加藤 碑というのは石碑ですか。
小松 石碑です。「公益」の文句がある碑を発見しました。作られた時代は戦前なのですが、どちらも中身は似ているのです。大学の近くのものは、船を漕ぐ船頭さんが最上川の渡しをやったことに対する公益の鑑というのを碑にしてあります。藤島町の碑は農業地帯に必要不可欠な水に関するものです。藤島は江戸時代によく水が枯れがちでした。そこで、自分のお金を出しながら、用水路を造った人がいて、その人を讃える碑です。はっきりとそこに「村全体の幸福」という文字があります。このように、山形の例を見ても、恵まれない人に対するチャリティー的なものから、公益の芽が広がったことがわかります。
これまでは、皆さんがやっておられるような貢献型のボランティアが中心でした。ところが、欧米であるような連帯型のボランティアがこれから出てきます。
山形で大変盛んなのは町づくりです。町づくりというのは、市民が参画していなかったら、行政だけががんばったって、市民だけがやったって限度があります。行政がいくら道路を立派に作ったり、街路樹を植えても、そこに住んでいるのは市民・住民です。市民・住民がそっぽを向いたら、良い町はできません。
この山形県で、長井市や立川町は全国的に知られている市民運動が広がったところです。長井市のレインボープランは、そのやり方自体は庄内(立川町)のほうが早かったんです。ただ、長井市が全国から注目されたのは、市民参加型の地域循環システムをつくったからです。市民の参画を長井市が始めた、ということで評価されました。
このまちづくりというのは、まさに、自分のうちをつくるだけではだめで、自分のうちを良くしたかったら、自分から参加して地域づくり、町づくりをやらなくてはだめなのです。「お前のうちはきれいだけれども周りは汚いじゃないか」というのでは幸せな家庭ができるわけがない。自分のうちに閉じこもっていてはだめで、参加して町づくりをする。これがまさに連帯型です。
加藤 貢献型というのは、ボランティアの一般的なわかりやすい議論だと思います。連帯型の中には、当事者型あるいは当事者参加型があります。例えば高齢者とか障害があるとか、さまざまな形で、今まで活動されてきたものは、かなりのものが当事者性あるいは参加型で行われています。それが市民活動の特徴ではないかと思います。その両方が、この地域でも目立つという話ではないかと思います。
東山さん、ここの歴史に学ぶということをおっしゃっていたので、特に女性の視点からもう少しそのお話を教えてください。
400年の歴史的事例に学ぶ
東山 先日、歌会始の召人として我が方のお殿様(庄内藩酒井家第17代当主酒井忠明氏)がご参加なさいました。「今もなほ 殿と呼ばるる ことありて この城下町に われ老いにけり」と町の人と一体化して生きてきたその歴史を伝えています。その豊かさの部分が、庄内の大きな特色だったのではないかと私は思います。
たとえば、天保の一揆は、農民が一生懸命がんばって、幕命を覆させた運動にあるわけですけれども、やはり、この地域に生きている農民の方々の、それぞれの経済的な豊かさを保障してあった部分があるわけです。その中で、元和8年(1622年)以来ずっとお殿様がここの地にいたというのは、日本でひとつくらいです。その長い時間というのは、政権が安定していて非常に民力が高まりました。民力が高いということは、勉強ができる状態にあったということです。
加藤 この会場の隣の学問所も?
東山 そうです。致道館です。それは男性が行きました。女性も子守唄がわりに、男性が母親の背中で論語を聞いたり、詩経の「風」のような人情的なものを聞いて育ったと今でも言われているところですから、女性自身の活力や知的な水準も、非常に高かったと思われます。
それから、もうひとつ、風土的な特色としては、鳥海山と月山が倫理的なものを裏打ちしています。どこかでだれかが見ているから自制心や欲を抑えるというのではなく、山という絶対的なものに見られている安心感と自制力とが重なって、みんなのために、自分の喜びをつなげてきた部分があるのではないかと思います。
それを、一番端的な形で、私が学びとろうと思っているのは、江戸から明治に移った時の、女性の立ち上がり方です。非常に知的な力も蓄え、経済的にも豊かだった女性たちのところに、新しい時代の風が「キリスト教文化」という形で注ぎ込まれるわけです。
この庄内の豊かさにも関連しますが、近世では女性の文学も相当に数多く残っている地域力というのが、女性の改革に非常に有効に働いたと思います。経済的に自立していく手段として、女性が一番早くお金を稼げるのはお裁縫でした。お裁縫の技術を習得しながら、礼法・算数・国語など、いろいろなものをともに学びながらやっていきます。そのお金は全部自分たちで集めました。その会費が残ればちゃんと積み立てて、きちんとそれが記録に残っています。
加藤 最近のNPOが学びたいですね(笑い)。
東山 それを支援する男性もいました。昭和11年に幼稚園をつくるのですが、そこで一番困ったのは、やはり、職員の給料をどう払うかということです。その時に、土地の資産家だった風間さんが10万円出してくださって、その基金を中心にして職員の給与を確保しながら活動を広げていきました。それがいろいろな形で展開されていきます。そうすると、百何十人で出発した人が、どんどん広がっていくと、それぞれの人が、それぞれの願いを持って、ある人は国際協力、ある人は学校をつくって、そこで教えるとか、いろいろな塾を開いていくわけです。それをそれぞれに支援し合います。
世の中を変えていくには、同じ願いを持って集まっている人たちが、それぞれのところでやっているものを、「ああ、やっているな」という応援を送る。そして資金は、最初は他人の懐を当てにするのではなく、自分たちでお金を出し合うということを明治時代にすでにやっていました。
私は、庄内の女性史の中から学ぶこのありかたを、ボランティア活動の中にも活かせないのかなと思います。東京や仙台から新しい、いろいろな情報をどんどん入れながら、時代の新しい方向をみんなで学習しながら進めているという女たちの動きに学んでいきたいと思っているところです。
加藤 貢献型の活動というよりは、その婦人会が、自らのためであり、学びであり、組織とネットワークを使って、個々人がまた地域に貢献していくという構造が、非常にうまい循環をしたのでしょうね。マネジメントが非常に上手だったのではないかという感じがしますね。
東山 マネジメントの中核をなす方たちが十何人かいらっしゃるわけですが、その方々も含めて、しっかりとした個人があって、それを組織的に支える部分がすごくうまくできていたと思います。それを庄内は、特に女性たちの組織が受け継いできたのだと思っているところです。
小松 東山さんが、庄内の豊かさという話をされましたが、それには、経済的な豊かさだけでなく心の豊かさもあります。庄内には公益のふるさとの「三種の神器」があります。三つの公益の大もとが、この地域にあり、もう400年間それが続いてきています。
一つは、黒松の砂防林。もう一つが、堰・用水路。みんな400年前に造られ、それが今まで、こんこんと流れ続けています。そして最後の一つが農業倉庫です。そのほとんどが江戸時代の初期にできました。
これらは、すべての農民、地主だけでなく小作人にも公平にサービスされました。黒松林がそうです。確かに当初は、お金持ちは、自分の家の周りだけ防砂林をつくりました。それを、本間家や秋田の栗田氏などが自分だけでなく、全庄内を林で保護しようという活動を展開しました。
堰もそうです。日本の場合は農業用水を城主が造り、それをすべての農民に公平に割り当てます。この庄内平野全部に行き渡らせるのです。アジア型はそうではなく、地主やお金持ちでないと水を取れないのです。
倉庫についても、戦前の研究者は、庄内の倉庫は公益の倉庫だとはっきり言っています。金儲けのためではなく、米を守り、必要なときに出せる、みんなのためのものであり、最近のことばで言えば「セーフティーネット」のようなものでした。
水がある。倉庫がある。荒々しい風からは防砂林が守っている。これが400年に渡りずっと続いてきました。
山形は特に地域のリーダーが、自分の私益を公益に還元することをきちんとやってきました。それが公益の源流のひとつの根拠です。
東山 お殿様がいたという一面と、それに拮抗する形で、反権力・反骨の精神があって、お互いに刺激的な関係もあったのではないでしょうか。その関係が、町を非常に元気にしてきた部分もあると思います。
加藤 批判勢力・反対勢力ですね。それも大事ですよね。
市民活動やボランティアの原点のひとつとして、そういう意味での健全な批判勢力があるということは大事だと私も思っています。今の公益の源流に、大きな財閥やお金を持っている人は、その伝統が明治もずっと引き継がれていて、川や堰を治めるということには、皆さんがお金を出して、それをやることが当然の責務のようなことになっていたのではないでしょうか。全国的にそういうことはごく普通に行われていたりします。
フィランソロピーの精神が当たり前にあると、それに人が育まれていく。そういうことは非常に大事だと思うのです。今、大学や地域で人々が学ぶと同時に実践していますが、そういうことを私たちは地域でつくっていく時代です。
問題なのは、明治以来「公益法人」という公益を民間で行う組織を役所が一元的に管理・監督して「こういうものは公益である。こういうものは公益でない」と官が認定・指定したり、排除する歴史がずっと続いてきたわけです。公益というと役所が決めてくれそうな気がしてしまいます。小松先生はそうではなくて、もう少し、人々の中から育まれるものという視点だと思うですが、その辺に注意をしなくてはいけないのかなと思います。
その上で、若い方たちを育てる立場、あるいは一緒に育つ立場として、この全V研は人を育て、育ち合う場ではなかったかという気がするのです。
では、これからの人の問題ということに焦点を当てて、お話しいただけませんでしょうか。
人を育て、社会と育つ
小松 教育というのは、まさに人を育てることです。教育というのは永遠に必要であるわけです。この庄内地方に、全県的な支援を受けて、日本で最初の公益の大学をつくりました。学問的に新しいものをつくったと同時に、人のあり方や社会のあり方でも、新しいものをつくろうという、人づくりの理想がありました。
大学というのは、日本で最高の高等教育機関のひとつです。しかし、日本の大学には研究はあるけれど教育はありません。収入はほとんど学費に依存しながら、教育は適当にやり、学生もそれを喜んでいます。その結果、国際的には戦えない大学になってしまいました。
それに対して公益大学は、研究においてはもちろん、新しい公益学をつくるのだけれども、もう一度教育自体も見直そうということで取り組んでいます。教育というものは、大学が閉じこもって象牙の塔みたいにできるものではありません。地域を挙げてつくるものです。
多くの大学が、門・塀を作って、週末は閉じて入れず、時間外も関係者以外は入れません。公益大学は門・塀は一切なく、正門もありません。土曜日も日曜日も、食堂も図書館もコンピューターも市民に公開しています。行事も原則的に市民に公開しています。それは町づくり、新しい公益・ボランティアの概念に共通するわけです。自分たちで閉じ込めて、内輪で適当にやっているのではなく、出て行く、参加していく。そして、こちらが貢献するだけでなく、町、市民の人たちも一緒に、連帯しながらつくっていこう。そういうところから、新しい人材も生まれるだろうという発想がありました。
レベルの高い研究もするけれども、同時に新しい人材づくりを公益の視点からやる。この大学では、日本で最初の、公益をテーマにした学問を通して、人づくりを地域とともにやっていきます。若い先生はどんどん地域に出ていって、地域と一緒に活動しています。自分のことももちろん大事にするが、同時に自分を越えて、地域・社会も大事にできるような人材を育てたい。これは理想です。これがうまくいくかどうかは、これからの我々の課題であり、あとニ年しないと完成しません。
加藤 あとニ年かからないと生徒さんが、社会に出ていかないわけですね。今日も生徒さんもたくさん来ていらっしゃるのではないかと思いますが、パイオニアとしてがんばっていただけたらと思います。
東山 私はインターアクトクラブの指導から関わり始めました。高校生を長く指導担当したのですが、最初に出会った時には、ボランティアが「奉仕」という形で訳されていました。「慈善」と「奉仕」と訳されていたところでは、生徒のやることは「善行」という形での評価を絶えずされ続けるなかで、やるほうがくたびれてしまうのです。ごみ拾いも花壇整備も施設のガラス磨きも、善行として書き記されながら、やっている本人はくたびれている。「やらせられる」のではなく「やりたいから、やってみたい」こうしたい」。そう変わった時に、初めて自分たちの動きができたのです。やってみたいということに集中してきたら、今度は、だれかにやってあげたいまで進めました。本人の「やった!」という形になっていかないとうまくないという感じがしています。子どもたちには「インターアクトクラブだから」というやりかたではなく、一人ずつ、顔と声がはっきりと見えてくるような動きをしなさいと言っています。そうしたら大きな力になります。
庄内には「衆力を結びなして事をなす」ということばがあります。衆力というのはみんなの力です。いろいろな形の市民パワーがその力をそれぞれ結集して大きな事業を成し遂げる。このことばは致道博物館の展示室の下にも刻んでありますが、そういう思いがずっと根付いて底を流れていると思うのです。みんなの「ひとり」というのを、外から「マス」として捉えるのではなく、「みんなの中のひとり」というかけがえのないひとりになれるという喜びを、それぞれに育て上げていきたいと。私もそんな「ひとり」でありたいと思っているところです。
加藤 大事なことだと思うのですが、「赤信号、みんなでわたれば怖くない」というほうの「みんな」は、おそらく自分という個人が溶けていて、集団の中で消えている状態です。それに対して今のお話は、逆に個々の顔がはっきりし、力を合わせて何事かを成し遂げようというものです。このふたつは、外見上区別がつかないこともあれば、やっている人も区別をつけていないこともあります。私はその両方が、常にボランティアや市民活動の世界、社会そのものの中でせめぎ合っているのではないかと思っています。個人の顔が見える、輝く、それをベースにした活動が、おそらくこれから重要な時代になるのではないかとお話をうかがっていて思いました。
いろりばたで「熱燗など・・・」にいく前にお時間がきてしまいました。お二人のゲストの方に皆さんからも拍手をお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。
(拍手)
|