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漁獲されたヒメマスの殆どが放流魚と思われた昭和52年(1977年)と昭和53年(1978年)の話
加藤 禎一
 
 十和田湖へのヒメマスの放流は、明治36年(1903年)に初めて行われて以来、戦中戦後の一時期に一時中断された時期を除いて、連綿と行われてきた1)
 本邦でのヒメマスの移殖は明治27年(1894年)に原産地の阿寒湖から支笏湖に移殖されたのが最初であるが、その後70年ほどの間に主として支笏湖と十和田湖を供給源として全国各地に亘って約60箇所の湖沼に移殖されている2)。しかし、移殖後にヒメマスの生息が確認されているのは1960年代半ばでさえわずか20余りであった2)
 現在ヒメマスの湖として有名なのは十和田湖、中禅寺湖、支笏湖の3湖であるが、何れも100年近くに亘り精力的に人工ふ化放流が行われてきた湖である。つまり、日本でヒメマスのいる湖と言えば、放流が継続的に行われる湖に限られているのである。放流は当然のことながら全て人工ふ化の稚魚に依るものである。したがって、日本の湖沼でのこれまでの経過を見る限り、仮に天然産卵があったとしてもそれはヒメマス資源には直接的には結びつかないようにも見受けられる。その中で、十和田湖では戦中戦後の数年間全く放流が行われなかったと言われているが、この間もヒメマス漁は行われていた。一時期とはいえ天然産卵だけでヒメマスの資源が支えられていたことになり極めて興味深い。
 十和田湖ではヒメマスが湖の中で産卵することはよく知られていて、昭和35年(1960年)には生出地先に多数の天然産卵一床があることが漁業者によって確認されている。昭和42年(1967年)からは青森県水産試験場によって覗き眼鏡と潜水で組織的な調査が行われるようになり、その後昭和49年(1974年)まで毎年実施された。この結果天然産卵床が湖の周辺のいろいろな場所で確認され、それも多数あることも確認された。しかし、天然産卵床の数は年によって大きく変動していて、昭和43年(1968年)から昭和46年(1971年)まで及び昭和49年(1974年)のように僅かしか見られない年があることも判明した。
 また、天然産卵の場所も必ずしも一定でないようで、年によって変わることがあることも判った。例えば、昭和35年(1960年)には生出地先では多数の産卵床が確認されているが、昭和44年(1969年)と昭和48年(1973年)の調査では床も見つけることが出来なかった。いずれにしても、十和田湖で天然産卵が行われていることを長期に亘って確認したのは画期的なことであった。天然産卵の多い年には天然産卵由来のふ化稚魚が多数生まれるだけに、それらの稚魚が多数生き残って資源量の添加につながれば理想的である。しかし、湖には遊泳能力の十分でないふ化稚魚を補食する魚が多数生息している。それだけに、天然産卵のヒメマスがどの程度生き残るかということは極めて興味深い問題である。それを明らかにするには、漁獲したヒメマスの中に天然産卵の魚が何%存在するかを調査すれば判るが、実際はそうは簡単に行かないのである。それは、例えその魚が天然産卵のヒメマスだったとしても、現在の技術ではその魚が天然産卵魚であることを証明することが出来ないからである。
 天然産卵に関しては、「天然産の占める割合は放流ものの約3倍から6倍に及ぶ。十和田湖のヒメマス量は主として天然産卵によって支えられていると考えられる。」3)とか、「十和田湖の天然産卵によるヒメマスの補充量は80万尾から500万尾前後と見られる。」4)のように具体的に数値で示された報告もある。しかし、前述のように天然魚と放流魚を見分けることが出来ないので、これらの数値は、あくまでも前後の状況から判断された推定値なのである。
 証拠が掴めない天然産卵魚の存在を証明するのに役立つのが、標識魚を使う方法である。証拠が掴めない天然産卵の魚ではなく、証拠(標識)がはっきりしている放流魚を調査することで、天然産卵の魚の存在を間接的に証明するという方法である。全ての放流魚に標識を付けて放せば、標識のある魚が放流魚で標識のない魚が天然産卵の魚というように簡単に区別できる。しかし放流魚の数は時には100万尾を越えることもあるので放流魚全てに標識を付けることは容易でない。このため、普通は放流魚の一部だけに標識を付ける方法が用いられる。例えば標識魚の割合を2%に設定したとすると、放流魚が100万尾の場合は2万尾に標識を付けることになる。もし湖に生息しているのが放流魚だけなら、漁獲魚中の標識魚の出現率は常に2%前後になる。もし、天然産卵による魚が放流魚と同数いたとすると、標識魚の出現率は半分の1%になるので、この出現率の変化から天然魚の存在とおよその尾数が推定できるという考え方である。
 昭和52年(1977年)の漁獲調査によると、生後2年数ヶ月になるヒメマス中の標識魚の出現率は24%であった。この年級群の魚が放流されたのは昭和50年(1975年)春だが、この時は137万5千尾が放流され、このうち3万尾が標識魚であった5)。この時の標識魚の割合は2.2%になるが、この値と2年数ヶ月後のヒメマスの漁獲魚中の標識魚の出現率2.4%とよく似ている。このことはこの年級群のヒメマスに限っていえば、昭和52年(1977年)の場合、漁獲されたヒメマスが殆ど放流魚で占められていることを示している。昭和53年(1978年)の場合は、調査した漁獲魚1,278尾中標識魚は35尾で、標識魚の出現率は2.7%であった。この年は標識魚の年齢査定をしていないので正確な比較はできないが、生後2年数ヶ月の魚と生後3年数ヶ月の魚が主体になっていると考えられた。これらの魚は昭和50年(1975年)春に放流した137万5千尾と昭和51年(1976年)春に放流した83万2千尾であり、標識魚はそれぞれ3万尾であった5)。昭和50年(1975年)と昭和51年(1976年)の放流魚220万7千尾に対する両年級群の標識魚合わせて6万尾の割合は2.7%になるので、昭和53年(1978年)の漁獲魚中の標識魚の割合2.7%と同じという結果になった。
 つまり、昭和53年(1978年)の場合も、漁獲魚の殆どが放流魚の可能性が高いという結果が得られたのである。私が十和田湖ふ化場と共同で調査したのは昭和52年(1977年)と昭和53年(1978年)の2年だけであるが、漁獲されたヒメマスの殆どが放流魚と思われるという結果は、放流魚より自然産卵によるヒメマスの方がはるかに多いという従来の報告3)、4)とは全く逆の結果になった。
 ところで、漁獲魚の殆どが放流魚らしいというショッキングな調査結果が得られた昭和52(1977年)、昭和53年(1978年)と同じようなことが実は平成13年(2001年)の産卵親魚でも認められているのである。
 この年の産卵親魚は雌786尾、雄2,346尾であったが、このうち雌758尾、雄1,324尾について標識の有無について調査が行われて、雌49尾、雄81尾の標識魚を確認している5)。この時は調査個体2,081尾中標識魚が130尾確認出来たので標識魚出現率は6.2%である。これに対して、この魚の放流時の標識魚率は6.4%で殆ど変わらない。この標識魚率については、親魚が生後3年と4年と5年の3年級群で構成されていると考えて、それぞれの放流時の放流尾数と標識尾数を合計したもの、つまり放流尾数2,210,400尾と標識尾数140,960尾から求めたものである。放流魚の標識魚率と産卵親魚の標識魚出現率が同じということは、この年の産卵親魚の殆どが放流魚であることを明確に示すものである。
 これらの結果は、十和田湖のヒメマス資源にとって放流魚が極めて重要な役割を果たしていることを示したものであり、ふ化放流事業の重要性とその効果を具体的に示唆したものとして注目される。
 ここで注意しなければならないのは、昭和52(1977年)、昭和53年(1978年)、平成13年(2001年)については確かに漁獲魚あるいは産卵魚の殆どが放流魚と思われる結果が得られたが、逆に放流が行われなかった終戦前後のように全ての魚が天然産卵魚としか考えられない年もあるということである。つまり十和田湖では放流魚が重要な役割を果たしていることは間違いないとしても、過去の例から考えるとその依存度は一定ではなく、年によってかなり変動している可能性がある。
 つまり綿密な調査によって放流魚と天然産卵の魚の比率を明らかにしても、それはあくまでもその年の状態を示すに過ぎないのである。
 

(文献)
1)水産庁十和田湖ふ化場 1950: 十和田湖の漁業権について
2)徳井利信 1964: ヒメマスの研究(V)日本におけるヒメマスの移殖 北海道さけますふ化場研報18: 73-90
3)十和田湖ふ化場協議会 1973: 昭和47年度十和田湖資源対策事業調査報告書
4)十和田湖ふ化場協議会 1979: 昭和53年度十和田湖資源対策事業調査報告書
5)青森県内水面水産試験場 2001: 平成13年度青森県内水面水産試験場事業報告書







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