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3)親魚の大きさの変動
 図4-3-1は過去41年間における十和田湖の産卵親魚(雌)の平均体重を示したものである。親魚の大きさも年によって大きく変動していることがわかる。最大は昭和47年(1972年)の602gであるが、最小は昭和61年(1986年)の86g、次いで昭和62年(1987年)と昭和63年(1988年)の87gである。
 親魚が大きい年にはそれが問題にされることは少ないが、親魚の平均体重の小型化が起こると、ヒメマスの資源量が多いためではないか6)とか、放流尾数が多過ぎるためではないか7)とか話題になることが多い。普通、餌料生物の量に比較してそこに生息する魚が多い場合は個体の成長が鈍って小型になることが知られている。しかし、十和田湖のヒメマス親魚に見られる大きさの変動については、その説明は当たらないようである。図4-3-2はヒメマスの漁獲量と親魚(雌)の平均体重の関係を示したものである。ヒメマスの資源量が判らないのでその年の漁獲量と親魚の大きさの関係を見た図である。これを見ると豊漁の年に親魚が小型になるということはなく、むしろ逆に豊漁の年の方が親魚が大型になるという傾向さえ見られている。
 親魚の大きさの変動については、その年のヒメマスの成長がそのまま親魚の大きさなって現れているのではなく、親魚の年齢組成が年によって変動することが原因であることが明らかになっている8)
 最初に高齢の親魚が大型であることが判り、次ぎに、産卵親魚に高齢魚が多いと高齢魚が大型であるためにその年の親魚の平均体重を押し上げることが判ったのである。つまり親魚の年齢組成で高齢魚が多い年は、平均体重が大きいため見かけ上は親魚が大型化したようになり、若齢魚が多い年は逆に平均体重が小さいので親魚が小型化したように見えるのである。
 「高齢魚が大型」という簡単なことが判らなかったのは成熟魚の年齢査定が難しいという理由による。魚の年齢は普通鱗の年輪(正しくは休止帯)を数えて推定するが、産卵親魚の鱗は周囲が融けて小さくなるので正確な年輪が判らないのである。しかし昭和43年(1968年)から始まった標識放流によって産卵期の親魚でも年齢査定が可能になった。特に昭和52年(1977年)以降は毎年標識部位が違うので、標識魚については年齢だけでなく個体の成長過程も判るようになった。
 
 
 
 放流したヒメマスが何年で産卵に帰ってくるかは多くの人にとっての関心事であるが、成熟に達する年齢は個々の成長速度によって決まるので何年で戻るという言い方は出来ない。具体的には成長の速いものは3年で産卵するが、それより成長が遅いと4年で産卵し、さらに遅いものは5年で産卵することが判っている8)。つまり最も成長の早い個体は若い年齢で小型のまま成熟するが、成長が緩やかな個体は成熟出来ずに翌年まで成長し続ける。この結果、成長の緩やかな個体の方が成長の速い早熟個体より大型の親魚になるという奇妙な現象が起こることになる。大型親魚は成長のいい魚と思われがちであるが、元を正せば成長の良くなかったために成熟できなかった魚なのである。
 ところで先に産卵親魚は鱗による年齢査定が難しいことを説明したが、十和田湖にはこのような面倒な手段を用いなくても、全ての産卵親魚が生後3年の魚だった年がある。それは「われ幻の魚を見たり」の主役でもある明治38年(1905年)に戻ってきた魚である。これらの魚は明治35年12月に採卵されて、翌明治36年(1903年)の春に十和田湖に放流されたものであるから全て生後3年である。100年も前の十和田湖で満3年になるヒメマスが群をなすほど産卵に帰っていたのである。
 
 図4-5-1は過去51年間の放流稚魚数の推移を示したものである。本来放流数は人為的に決まるものであるが、その卵を回帰親魚に頼っているために、採卵数同様年によってかなり変動している。
 最も多かったのが昭和39年(1964年)の430万尾で、最も少ないのが人工ふ化放流を再開したばかりの昭和28年(1953年)の3万7千尾である。その次に少なかったのが平成13年(2001年)の20万1千尾で、平成6年(1994年)の20万8千尾、平成14年(2002年)の21万5千尾、昭和30年(1955年)23万8千尾、昭和31年(1956年)25万尾の順になる。このうち昭和30年と昭和31年については人工ふ化放流の再開後間もない時期であるが、最近の2年はその当時と同じ水準近くまで下がっている。因みに過去51年の平均放流数は130万尾であるが、平成2年(1990年)に153万4千尾を放流したのを最後に今日まで12年間も平均放流数以下の年が続いている。このように最近の放流数は以前と比べると間違いなく減少しているが、放流数を比較する場合に注意の必要なことが一つある。それは平成4年(1992年)以降現在も実施している方法と平成3年(1991年)までとは放流数の算出法が異なることである。
 現在の方法は放流時に放流魚の総体重を測定して、その重量を平均体重で割って放流数を算出する方法で、重量法と呼ばれる。これに対して平成3年(1991年)まで用いられた方法は、総採卵数を元数として、まず発眼卵までの死卵数を引き、次にふ化までの死卵数を引いて、最後に放流までに死亡した稚魚数を引いた残りを放流数とする方法で、差引法と呼ばれる。この方法の場合、死卵は計数が簡単なので実際の死卵数で差し引きするが、死亡稚魚は実際の計数が難しいので全て目測による推定尾数が用いられる。
 従って死亡稚魚数を多く見積もると放流数が実際の尾数より少なくなり、少なく見積もると実際の放流数より多い尾数が記録として残ることになる。この方法に比べると重量法は実際の放流稚魚を直接計量するだけに確実な方法なのである。
 ところで十和田湖のヒメマス資源を維持するためには稚魚をどの位放流したら良いのだろうか。
 十和田湖におけるヒメマスの適正放流尾数は長年の課題であるが、これを解明するためにはヒメマスの生物学的情報がまだ不十分のようである。その様な中で、160万尾以上の放流は資源量の急落をもたらす可能性が高いという報告9)は、放流尾数に関する初めての具体的な指摘でもあり注目された。
 
 

(文献)
1)明治39年度秋田県水産試験場報告.
2)徳井利信. ヒメマスの研究(V)日本におけるヒメマスの移殖. 北海道さけ・ますふ化場研報, 1964; 18: 73-90.
3)水産庁十和田湖ふ化場. 十和田湖の漁業権について, 1950.
4)徳井利信. 中禅寺湖のヒメマスについて訂正すべき既往事項. 養殖研ニュース, 1992; 24.
5)長崎勝康, 沢目司. 十和田湖資源対策調査結果(1998年). 国立環境研究所研究報告, 1999; 146: 126-136.
6)頼茂. 昭和42年度十和田湖資源対策事業調査報告書, 1967.
7)十和田湖資源対策事業調査報告書(昭和56年〜60年度調査結果の総括). 十和田湖ふ化場協議会, 1986.
8)加藤禎一. 十和田湖のヒメマスの成熟年齢と成長の関係. 養殖研報, 1980; 1: 7-19.
9)帰山雅秀. 十和田湖の資源管理. 国立環境研究所研究報告, 1999; 146: 36-40.







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