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4 MARS
 航海学会は、海難事故報告機構(Marine Accident Reporting Scheme、MARS)というシステムによってAccidentやNon-Accident(Hazardous Incident、Potential Hazard、Near Miss)に関する情報を入手し、時には、これにコメントをつけて学会の月刊機関誌「SEAWAYS」に掲載し、会員に不安全事象の存在とその理由等についての情報を提供し、その認識を共有化させることにしている。
 このシステムは、報告者の匿名性を担保することによって、AccidentやNon-Accidentの報告者が、訴訟の恐れなくこれらをMARSに報告できることに特徴があるが、それは、報告者の身元を明かさないことによって、船員は、危険や危険のおそれに関する情報を自由に交換でき、価値のある教訓を互いに享受できるようになって、海難事故の再発防止に結び付くとの認識からきている。
 ただし、MARSの編集者が、報告を受けた不安全事象をヒューマンファクターに基いて分析することはせず、それは読者に委託されている。
 その理由は、MARSには人的に或いは財政的に分析等の余裕がないということのほかに、MARSは、事故やインシデントに関する情報を広報することによって、船上における会議や学校での授業、或いはセミナーにおける講演等の活性化を図り、海運社会に対して安全に関する意識(Safety Awareness)を高めるとともに、個々の船員に対して他人の経験(the Experience of Others)から安全を習得させることを目的としている。
 更に、付言すれば、VDR(Voyage Data Recorder)の普及が十分でないこともあって事実の認定が未だ不十分なところがあるうえ、各種事案を分析するに当たっては各種各様の手法があり、かつ、海上交通法規の曖昧さもあって多種多様な意見が出され、これを纏めるのが容易ではないうえ、このような状況のもとで分析しても必ずしも良い結果(Wonderful Conclusion)が得られるとは限らない。
 加えて、分析結果をRecommendationするに至っては、作今の船舶における船舶所有者、船舶管理人、船舶運航者及び船舶乗組員等の多国籍性を考えると、勧告の対象を絞りにくいのが実態である。
 これらの理由から、事案の分析、勧告には躊躇せざるを得ないというのが、MARSすなわちNIの見解である。
 ただし、NIは、勧告とは全く無縁ということではなく、機関誌「SEAWAYS」で発表することもあるが、「教訓は世界の業界全体で学ぶべきである」との考えから、勧告対象を国際的な業界全体とし、その内容は包括的に行うことにしていて、個人や特定の団体に対して行うことはない。
 これは、NIが掲げる中立性とも関係があると思われる。
 したがって、特定の団体による実施率は、これを求めることはできず、また、英国以外の国に対す勧告の効果も、諸外国が勧告を政策に反映させることを想定して行っていることから、実施率は計りがたいという。
 MARSはこのようなポリシーを採っていることから、AccidentやNon-Accidentの情報入手から、各種分析を経て、その結果をRecommendationとして社会に提供するという、各国の海難調査機関において検討されている還元システム(サーキュレイション システム)とはいささか趣を異にしている。
 以下、MARSに関する参考事項を記す。
 海難事故が発生した際、事故発生状況の報告を受け、そこから得られた教訓(Lessons)を社会に提供(Recommendation)し、海難事故の防止に寄与するという還元システムの試みは、航海学会においても永年にわたって討議されてきた。
 最初の試みは、Harwich沖でのEuropean Gateway/Speedlink Vanguard事故を、1984年に航海学会の機関誌「SEAWAYS」に紹介することによって行われた。
 航海学会は、その当時数多くのAccident及びNon-Accidentの事故報告を受けていたが、一方では、Accidentの調査結果は、調査当局を通じて船主に連絡されるのみで、船員仲間、取り分け英国籍船以外の船員によって読まれることも、研究されることもなかった。
 そこで、当時の航海学会の副秘書官Mr. Julian Parkerは、航海学会は報告された事故或いはその調査結果を世に広報すべき任務を負うべきであると考えた。
 彼は、海軍の出身であるが、海軍では船舶のHazardous Incidentが「間一髪」(Close Shave)という匿名の報告書として回覧されており、また、艦上航空機或いはヘリコプターの空軍パイロットやナビゲイターからは、Anymouse(Anonymouse(匿名)を捩ったもの)として同様な趣旨の報告書が回覧されていて、同氏は、これらに精通していた。
 そのため、1991年3月、学会の会議でConfidential(Near Miss)Reporting Schemeの導入が審議され、スポンサーが得られ、かつ、準備に3年の猶予が得られるならば、という条件付きでこれが認められた。
 一方、1992年には、Captain Robin Beedelが、会員に対してMARS〈Marine Accident Reporting Scheme〉を紹介し、事故の詳細を公表することの国際的な重要性、有益性を強調した。
 その際、Cptain Beedelは、かってはいかなるチャンネルによっても公表されなかった事故の詳細を世界の船員仲間に明らかにすれば、それが大きな事故であれ小さな事故であれ、勧告とは隔離状態にある海運業界に対して優れた教訓、利便を与えることになるであろうと力説した。
 取り分け、潜在的な危険性を意識させること(To provide Awareness of Potential Hazards)、或いは危険な行為、特に、海上衝突予防規則(The Regulations for Preventing Collision at Sea、Collision Regulation(Colreg)ともいう。)はこれを履行する上においてその基準が曖昧である点に関して、危険な行為を注解すること(To comment upon Dangerous Practices、particularly with respect to poor standards in the way the Colreg are implemented)が重要であると考えた。
 こうして、1992年10月に海難事故報告機構(Maritime Accident Reporting Scheme、MARS)が発足した。
 MARSは、創設以来、Captain Robin Beedel(NIのFellowである。)が編集者として携わっているが、同人は、元商船船長で、現在はNIのパートタイマーとなっており、随時NIの文書・技術委員会(Papers and Technical Committee)の助言や支援を受けるとともに監督を受けながら、自宅で一人で自営業的にMARSを切り盛りしている。
 なお、機関損傷事故などで、その報告を理解するために別途助言が必要な場合は、Captain Beedelは、適切なエキスパートと連絡をとって秘匿性を厳守しつつ同人から話を聴取することがある。
 MARSは、「多数の船舶は、船内における安全会議(Tool Box Meeting)で興味深く討議されるようなEventに遭遇していないのが通例であることを考えると、MARSが各種の事案を広報することによって、その代役機能を十分に果たしている」と自賛している。
 それとともに、「航海学会のような専門機関が、国際的に認知されたMARSを結実させることなど、かっては考えられなかったことであるが、機密事項(Confidential Material)を取り扱うことに法律上或いは行政上の制約(Legal and Governmental Constraint)があるが故に、政府機関とは無関係な(Nothing to do with the Government)、独立した専門機関(Independent Professional Body)を活用したことに意義が認められたのであろう。人々は、政府に報告するよりも、仲間に報告するのを好むからである。」と分析している。
 「他人の経験から学ぶ」ということは、多くの場合、事故を防止するための最も効率的、効果的な手法の一つであるが、航海学会が、MARSというユニークな事業を始めるに当たっての最大条件の一つは、このシステムが機密でなければならないということであった。
 すなわち、報告者の氏名も船名も明かすことなく事故のみを明らかにするということは、法廷に持ち込まれない事故を明らかにし、そこから種々の教訓を得て、それを世間に示すということになり、このシステムは、事故の再発防止という観点から理想的な手法と考えられたのである。
 そのため、事故の報告、分析等は、全く極秘(Confidential)のうちに行われ、かつ、Captain Beedelに送られた原報告書は、MARSレポートとして公表される前に廃棄されるか又は報告者に返却され、MARSの手元には一切書類を残さないというシステムが採られることになった。ただし、それ以上に秘匿性を担保する措置はとられていないという。
 このように、関係者からの報告書は、報告ゼロに備えてCaptain Beedelのところで一時的にStockされるものも数件あるが、通常は同氏や学会に留め置かれることはない。
 ただし、報告者は、Captain Beedelには身元を明かすように求められている。それは、報告の真実性を保証するためと、Captain Beedelが更なる調査を必要としたときに備えるためである。
 なお、「Confidential Accident」、「Hazardous Incident」、「Potential Hazard」あるいは「Near Miss」と称される報告制度は、航空分野では永年にわたって運用されており、下記の二つの理由によって成功してきたという。
(1)「Confidential Accident」等の報告は、非難を受けるというおそれなしに、危険な状況があり得ることを同僚に警告する機会を与える。
 それは、無知で死ぬことより自覚することのほうが良い「It was better to know than to die in ignorance.」という理論に基いている。
(2)「Confidential Accident」等の報告は、しばしばNear Missを示し、個々にはAccidentを引き起こす可能性はないとしても、Eventが繋がると確実にAccidentを引き起こしうる危険なOccurrenceやTrendを気付かせる。
 MARS発足時、Captain Beedelは、機関誌「SEAWAYS」による広報のほか、あらゆるルートを通じて水先人乗船問題(Pilot Boarding Problem)、船員の異常事態克服法(Seaman Overcome with Fumes in Unusual Circumstances)、無線交信問題(Radio Communication Problem)、人的事故(Personal Accident)、貨物損害(Cargo Damage)、装備不調(Equipment Malfunction)、火災危機(Fire Hazard)、保安危険(Security Risk)、海賊行為(Piracy)等についての報告を海事関係者や海事機関に要請した。
 その結果、当初は、衝突予防規則(Colreg: Collision Regulation)違反に関する事項に集中し、1回目のMARSレポート(1992年10月)は、衝突問題とPilotの意思疎通問題に係わる2件のNear Missを含む4件が報告され、2回目のMARSレポートでは、1件の汚染問題と2件の曳航Incident及び2件のNear Missが、更に3回目のMARSレポート(1993年1月)では、4件のColreg Incident、1件の火災、1件の舵不具合が、それぞれ報告された。
 こうして、初年度は、40件を超える報告があり、その多くは、Colregそのもの又はColregの誤用に関するものであった。
 現在、MARSは、報告の対象範囲を貨物(Cargo)、機関(Engineering)、救命艇(Life Boat)、操舵(Steering Rudder)、一般問題(General Problem)にまで拡大しつつあり、特にユニークな問題としては、営業上のプレッシャーによって生じたトラブルも率直に情報交換されるようになっている。
 また、最近は、ISM(International Safety Management)コードによる影響もあって、船社の安全管理部からも報告が入っており、これらを含めると年間約70ないし80件の報告を受けているが、その70%は衝突に係わるAccidentまたはNear Missである。
 なお、月間で見れば、10件のときもあれば、0件のときもあり、長いものもあれば、短いものもある。
 一方、報告者としては、NI会員の大部分が商船関係者であることから、必然的に商船からの報告が多数を占めているが、報告の約1%は、NIとRoyal Yacht Association(RYA)との親密な繋がりもあって、ヨット関係者からのもので、漁船からの報告は極めて稀である。
 なお、事故報告の収集に当たっては、インターネットが大いに貢献しているといい、また、各国の各部署に会員がいることも力強い味方になっているという。例えば、キプロスには、船を持たずに船舶の運航、乗組員の配乗、船体・機関の保守、船舶保険の付保を請け負っているShip Managerが多数存在するが、多種多様な情報をもっているので、支部を通じて入手している。
 MARSの報告書式は、MARS Report Formと称され、What、Where、Who、Why、等を記入するようになっている(資料1)。
 船員は、他の乗組員が関心を抱くような事態(Any Incident)に遭遇したときは、MARSの報告書式(標準書式Standard Formともいう。)に詳細を記入し、Captain Beedelに手紙又はFax、E-mail等によって連絡するよう勧奨されている。
 もちろん、Free Formで連絡することも可能である。
 MARSは、報告を受けた事故について、その原因や対策を提示することもあるが、その場合でもほとんどは船長や航海士等の事故の当事者に関する事項をコメントするのみに留めることが多く、事故をヒューマンファクターに基いて広く深く分析することは行わず、単に事故の事象を掲示することが多い。(資料2)。
 それは、前述のとおり、人的にも財政的にもその余裕がないことからきているが、基本的には、「航海学会は、船員が所有している情報や知識を開示する場を提供する組織」というスタンスを採っているからであり、これを崩すとMARSの性格が変化すると危惧している。また、現在のスタンスを維持することによって、結果的には、MAIBが主導しているCHIRP(別題「英国海難調査局(Marine Accident Investigation Branch)における海難調査」参照)と競合することを回避できているのではないかと思われる。
 ただし、「MARSは、事故の事象(発生状況)に関する情報を開示するだけでも、例えば海運界に対して基本的な当直手法を守る上での欠陥を公表するという価値のあるものであり、その効果は、現に船員仲間で貴重な情報や知識を船社内に留めることはせず、これを多方面に配信して広く共有しようという動きが顕著になってきていることからも認められる」と自賛している。
 これに対して、一方では、「MARS報告は当直の不規則性を摘示するよりも、もっと幅広い問題を包含すべきである」と指摘されたこともあるといい、そのため、MARSは現行のまま進めるとともに、MAIBが主催するCHIRPには、二人(Mr. Julian Parker他)の理事と一人(Captain Robin Beedel)の技術指導者(Technical Advisor)を参加させ、Human Element Projectで事故の分析も勧告も行わせるようにし、更に、本年(2003年)10月1日からは、NIとLloyd's Registerとの共同プロジェクト(Project to improve the Awareness of the Human Element in the Marine Industry、後述)を発足させることにしたという。
 そして、振り返って改めていうには、「SHEL Modelは概念(Concept)であり、NIも同様な考え方を持っているが、船舶所有者も機器製造業者も、或いは、造船所もデザイナーも同じ概念を共有しなければならない。
 そして、英国の海運界は、船の一生についてSHEL Modelに基いた検討(Discussion)や分析(Analyze)、改善(Improvement)を取り入れる必要がある。
 誰しもが、各種議論を船のライフサイクルに取り込みたいと考えているので、このプロジェクトが試金石になるだろう。
 これまでの英国の海運界は、そこまで行っていなかったということである」と自己批判的にいう。
 MARSは、国際海運界にとって価値のあるサービスを提供していると自認しているが、情報の収集と分析の結果を記載した資料を会員等に配布するだけでも、その運営に毎年25、000ポンド(約450万円)の経費が必要であるという。
 そのため、NI評議会は、スポンサー(sponsor)探しに努めることになり、その結果、現在、MARSは、NIの人的支援等はもちろんのこと、The North of England P & I Club、The Marine Society、The Swedish Club、The Britannia P & I Club、The U.K P & I Club、The Journal of Safety at Sea International、Det Norske Veritas等から資金援助を受けている。
 開設から2年後、MARSは、当初の計画が落ち着いて基盤も強固となり、毎月、月刊誌「SEAWAYS」の中央部に色違いで4ページにわたるMARSレポートを規則的に掲載するようになって、MARSの重要性と必要性が世界的に認識されることになった。
 現在、MARSレポートは、カナダ、アメリカのほか、ポーランド、オランダ、ギリシャ、トルコ、ロシア、フランス及びドイツにおいて、それぞれの国語に翻訳されたうえ、多数の会員や企業、組織に広く公表されている。
 因みに、「SEAWAYS」は、毎月7,000部が配布されているが、職場での回覧などを考慮すると、毎月20,000人が目を通しているものと思われる。
 また、これまでに刊行されたMARSレポートは、300件を越えるという。
 なお、一定の海域における事故であるとか、特定の傾向がある事故等は、「SEAWAYS」誌で特集を組み、詳しい情報を流すようにしている(資料3)。
 MARSは、開設5周年を迎えたところで、「MARSは、当初疑いの目をもって扱われ、設立するのに時間が掛かったが、いまや5年が過ぎ、その公平さ(Impartiality)と目的意識(Sense of Purpose)に対して世界的な賞賛を勝ち得るに至った。」と述懐するとともに、「船員たちもMARSに通暁し、これを公開討論の場と心得て、船長と航海士が、MARSレポートで提起された状況について議論し、また、自船が同様な危険に晒されることがあり得るかを検討するのに活用されている。」と、現状を述べている。
 更に、「近々、WordやGroup of Words、TitlesもしくはNumbersによって探索できるPowerful Search Indexを備えたInternetが用意できるはずである。」
 「今日まで、MARSは、重大関心事項、すなわちColreg適用の訓練不足、適正な貨物輸送の手続き過誤、安全な作業環境に対する関心不足などに取り組んできた。将来は、危険性(Hazards)や機能停止(Failure)、あるいは、Near Accidentを伴った工業技術(Engineering)や設計技術(Design)に係わる報告提供を促進することによって対象範囲の拡大を期していきたい。」と抱負を述べている。
 そして、総括として、「人は、情報をもっていると、それを同僚に知らせたい、分かち合いたい、そして安全に寄与したいという本能をもっているので、容易にアクセスができ、費用も掛からなくて、匿名が保証(Not be Identified)され、咎め(Blame)もされない機関があれば、そこに情報を流すものである。MARSは、その条件に合致して成功したのである。」としている。
 MARSは、10周年を前にして、「MARSは、Murray Fenton and Associates(Captain John Noble), Det Norske Veritas, DMG Business Media Ltd.(Safety at Sea International), the Swedish Club等の支援を得てInternetを導入したことから、MARSレポートを世界的に配信することができるようになり、現在Near Miss SituationやHazardous Occurrence等に関心のある人は、無料でこれを利用できることになっている。」
 「ここ数年、IMOに加入している数カ国でMARSのようなシステムが検討されているが、MARSは、今なお、世界で唯一のMarine Accident Reporting Schemeである。」
 「MARSは、航空界をお手本とし、万難を排して生き残ってきたが、それは絶対的に機密であり、それ故に、海事法関連事件(Maritime Legal Cases)が法廷に持ち込まれると、数年、時には7、8年かかり、上告されると更に長期間を要するというのが異常ではない時勢に、法的な干渉に対して不浸透性を護持できたからである。」と述懐するとともに、「航海学会にとって最も重要な見地(Most Important Aspect)は、Dangerous Incidentsから得られた教訓を、できる限り早期に海運界へ還元することである。」と自戒している。
 MARSは、開設10年弱にしてSeatrade Safety Awardの候補に上がるとともに、Captain Beedelは、2002年にその著書「MARSの10年」に対してPresident's Certificate of Appreciationを受けた。
 これは、North East Branchの「Master's Role in Collecting Evidence」及びCaptain Jack Isbesterの「Bulk Carrier Practice」以来の、学会のPublishing Success Storyであることに疑いはないという。







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