(2)小坂智規委員及び佐藤安男氏に対する質疑応答、意見
◎ヒューマンファクターの問題、将来的な問題を論ずるには過去の歴史を知る必要がある。現在と過去、すなわち歴史をよく知った上で将来を論じたほうがよさそうだという示唆と受け止める。
◎常日頃、漁船を見ているが、大小合わせて20万隻の問題であるということ、この20万隻が行っている漁業という1つの営業と安全の問題をいかにするかという問題であることを改めて認識した。
◎1名で乗組む船を2名船にしたらどうかということに類する問題は、何も漁業に限ることではない。
◎北海道の漁船が転覆した事故の説明で、船体構造設備の改善が指摘されている。ヒューマンファクターということで片づけられている人間の問題以外に、構造問題や横断的な問題が潜在しているのではないかという指摘と思う。設備の点で補完できる問題が安全の一部に問題視されなくてもいいのか、という問題と考える。
◎最後はいつも経済性と安全性の問題に至っているのではないか。この接点をどう適正な点に落とすのかということは、難しいが大事な問題である。例えば船頭と船長という組織、船頭はどちらかというと経営サイドの感覚でものを判断し、船長は船の運航・安全を主体とする、というならばその接点が適正でないとバランスを欠くことになる。
◎考えていた以上に労働条件が過酷である。やはり最後は経済性の問題から来るのではないかと考える。
◎問題が資格問題や制度問題にまで及んで今日の状態が生まれているということは非常に気の毒な状態であり、もっと何か手を打たなければならない状態ではないかと、漁業の部外者として思う。
◎日本は自分に天然資源がないから、外から1次産品を持ってきて日本の技術で付加価値をつけて、また外国へ出して貿易で成り立っている国である。ところが水産に関しては消費は全部日本で、いっさい他の国には送っていない点が気になる。
○日本の経済が非常に発達をして、今はどこへ行っても、どこの温泉の旅館へ行ってもホテルヘ行っても、刺し身でも何でも出てくる。そういう形の中で、日本へ持っていけば高い値段で売れるとなるが、日本のコストに比べてもっと安いコストで高い値段で売れるということで、今ほとんどの漁業者が苦労しているのは魚価が上がらないことであり、では何をするかということになると、労働コストを下げることである。
○必ずしも日本が輸入ばかりではないが、統計上は輸入金額の数%しか輸出していない。輸入をなるべく止めたいという部分もあり、それは魚価を維持したいということもあるが、それよりも、適正な形の経済でないと漁業そのものが壊滅していくのではないかという危機意識がある。
◎総生産の数字は1.8兆円となっている。他の産業、例えばトヨタ自動車1社で年間4、5兆円の売上げがあり、一自動車企業に比べて、20万人の漁業者がこの規模なのかと思うが。
○1.8兆円の規模であり、給料が上がらない、若い者が来ない。漁業に携わったことのない人達を漁業にということで、キャンペーンをやっている。船を持っている人、漁業をやっている人と直接面談を行っている。上は50歳ぐらいから、若い方は16歳で中学校を出たばかりという人が来る。窓口をつくって、いろいろな漁業者を集め、うちの漁業はこういう漁業、金はこれぐらい、辛抱するとひょっとしたら独立できるかもしれないといったプレゼンテーションをやっている。その中で日帰りではない漁業を紹介したところ、誰もその窓口に来ない。金の問題ではないようである。
○よく電話がかかってくる例では、金がいるけれどもまぐろ船に乗ったら金になるかという話があるが、そういった話ではなく、より健全な後継者の育成、漁業をやってみたいとか、もしくは農業や林業のIターンやUターンのようにならないものかという願いがある。
◎ライフジャケットの問題は、実際のところ、ジャケットを着ていれば死なないということは分かっていてもジャケットを着けないことにある。この問題はどうか。
○その昔は、「ライフジャケットをしているやつは男の風上にもおけない」ということがあった。会社は船長を通じて、「ライフジャケットをつけない者は下船させてもう来てもらわなくてもいい」と言うと、しぶしぶ着用するといった状況であった。
その頃のものは確かに着ると作業性が悪い、ゴボゴボしているということがあった。この5、6年、法制化になる以前から、全国漁業協同組合連合会が中心になって、作業性のいいものに改良してきた。
しかし、かなりよくなっても着けていれば邪魔であり、やはりあるのとないのではどちらが楽かということになると変わらない。
法的な部分で逃れられなくなることは、いいことだと思う。
ライフジャケットの前は、ヘルメットをかぶらせるのに大変だった。「ヘルメットをかぶらない者は下船させる」と言うと、やっとかぶる。確かにヘルメットは防御の部分であり、ちゃんとしたものであればあるほど作業には邪魔になる。野球帽などのほうが楽であり、寒いところは毛糸の帽子をかぶっておけばいいとなりがちであった。
◎漁労長は何ぜ資格をとらないのか、なぜ講習会に来ないかなどについて、とりやすくするためにいろいろ知恵を使っている紹介があった。資格を与える役所が漁業をやっていないことから、分かっていないところがあるように思われる。できるだけ実態を把握しようという努力はしていると思うが、このような話がどこまで分かっているかというと、なかなか分かっていないところがある。
最近はインドネシアなどの外国人が増えており、それぐらいの資格をベテランに与えたほうが、逆に言えば部下を掌握できるし、きちんとアレンジメントもできるのではないか。
○受験講習会を受けて資格を取得するのがいちばんよいと思うが、大型免許の講習は約3か月かかる。
普通の遠洋船では、早ければ1年に1回、長ければ2年後に帰ってくるので、日本にいるのは長くて45日ぐらいである。2年間、家族と離れていて、講習会のために4年間に10日ぐらいしか会えないことになる。
また、講習は、難しくて眠たくなる。独身の若い者なら通るが、落ちるかもしれない。落ちたら浜の笑いもので、それで恐いということもあって講習に行きたがらない。現実問題、受けようと思っても、いつも講習会が開催されているわけではない。その講習会にタイミングの合う人というと非常に少ないことになる。そういう休暇のタイミングの問題は非常に大きいと思う。
◎外国における裁判に関して、日本の補佐人がちゃんと行けるような形をシステムとしてつくれば有効ということか。
○国際的な海難事故に対する専門的な海事補佐人の資格制度は、現在、日本にはないと思うが、経済的な問題は別として、そういう方の存在を現在、必要としている。
◎国際問題が非常に多くなっている現在、国際海難事故に対する補佐人制度という考え方は将来の問題として一考に価するのではないか。
○おそらく外国には海事補佐人という制度はないと思われる。やるとすれば弁護士がやっている。ただ、海事関係に詳しい弁護士はイギリスでも数少ないので、結局、船長や機関長出身者とペアになってやっているのが実際である。
仮に日本の漁船が外地で事故を起こして、外国で海難審判あるいは刑事裁判が行われたときに、日本の弁護士が行っても、一般にはそこの国の法曹資格を持っていないので、やはり現地の弁護士と協力してやるというスタイルになるだろうし、現実には、実際そのようにやっている。
◎1年間に1,000件ぐらい漁船の事故が起きて100人ぐらい死亡しているが、20万隻の漁船の中で1,000件という数は多いのか、少ないのか。
○他の業種に比べて、一目瞭然、多すぎる。ただし、その大半は、1人もしくは非常に少ない人たちが乗っている船であり、知らぬ間に人がいなくなったという事故はかなりある。
現在、ハードの部分はかなり立派で、エンジンオイル、ガソリンを忘れなければたいがい間違いなく走る。それでもたまに忘れていて漂流したり、それから何かをしようと思ったら横波を受けて1人で落ちてしまって、誰もいないのに船だけが走っていたといった例が非常に多い。
第五龍寶丸のような世間に出てくる事故はめったに起こっていない。大型船で起こったときは複数もしくは10人単位で人命が損なわれることになるが、やはりいちばん多い1人、2人の事故の積み重ねがデータとして表れている。
◎海難審判庁の分析の一つで大分県の海難について、漁船の衝突がすごく多い、誰も見張りをしていない、といった分析があったが、それはどこでも同じだと思う。また、水先人のヒヤリハットを見ていると、船橋人影なしという相手船がパーッと走ってくるというのがある。こういうものについて何か方法はないのであろうか。要するに、見ていなければならないのは建前の話であって、現状は見ていないのだと思う。いろいろな仕事をやったり、夜中じゅう仕事をやれば朝帰ってくるときはいちばんくたびれているし、操業から操船に作業を取り換えている。そうすると、それをカバーする何かの方法はないのかというのが人間の知恵だと思う。
同じようなこととして、列車の運転手を2人乗りから1人乗りにしようとか、飛行機も人数を減らそうとしている。それが自動化という方向でいける世の中になってきている。
漁船は、少なくとも魚を探すためにはすべて金をかけて一生懸命に魚探を積んでいる。同じように何かうまくいける方法で、居眠りをしていても声が大きくなるとか、何かワーニングを出す方法はないのか。
○ある部分では便利になればなるほど、ハードに頼った事故が起こってくる。今、自動車では携帯電話をかけながらという交通事故がものすごく多い。だんだん便利になってくると、それが事故の原因になることがある。かといって、速度制限がちゃんとできる車、例えば60キロ以上で走れない車を売ろうとしてもだれも買わないであろう。
新幹線や飛行機と漁船といちばん違うのは、時間がはっきりしている点である。新幹線はたとえ東京から福岡まで5時間、6時間で、運転手は途中で交代する。
他でも3時間で運転手は代わる。2時間、3時間でも漁業者なら1人でも辛抱する。それを12時間も18時間も辛抱させているような環境に追い込んでいる部分がある。
現在、自動車もハンドルを何秒間か動かさなかったら音が出るとか振動するということを研究しており、船でもワーニングがパーッと出るようにすることも可能であろうが、過酷な労働をしないと飯が食えないという部分や、逆に1次産業がなくなっていっていいのかという問題がある。
例えば、米、麦、じゃがいも、何やら含めて全部輸入していいのか、魚も全部輸入していいのか、経済だけでこの国が守れるのか、そういったことも片側にあって、水産界も苦悩している。特に食べ物の自給率が半分以下になったら、その国はもう価値がないのではないか。そんなこともあって、漁業の灯は絶対に消さない。6割か、3分の2ぐらいの一定の自給率まで何とかもっていかなくてはいけない。今、自給率は58%なので、何とかもう少し自給率を上げたいものだと考える。
◎非常に端的に言うと、陸の論理で海の上の労働を律しようとしているのは基本的に間違いだと思う。やはり海の論理で、むしろ陸のほうをコンビンスして働きかけて海の論理をきちんと整理するべきであろう。
一種のすれ違いが起こっていると感じる。漁労長が資格をとるためにどれだけ苦労しているかという紹介があり、それに対して経験を尊重したらどうかという話があった。人類働態学的な視点からすると、労働現場で養った労働技能に対して、もっと素直にいろいろな人がまず認めるべきだということである。
認めたものを陸の人にも通じるような言葉で整理して、お互いがコミュニケーションが取れるようにしないといけない。聞いている範囲では、やや海の論理のほうが劣勢で陸の論理が優勢である。つまり陸にいて海のことを知らない人が、陸の理屈で海の現場も律しようとしている。ここにやはりいろいろな不整合が起こっている。やはり現場に精通している方が陸の人にも分かるような言葉で、いい意味で自己主張をもっとすべきである。
インターナショナリズムは、ローカリティをお互いに認め合う形の中ではじめて国際的な協力が成り立つとよく言われる。つまり世界標準的な人間は、かえって国際交流がうまくいかない。むしろその国の地元の文化をよくわきまえた人のほうが国際交流がうまくできるという言い方があるが、それと同じで、海で生きている男たちが自分たちの文化をいい意味でどんどん主張して、陸の人たちといい意味でコミュニケーションが取れるような場があってもいい。だからいろいろな形で応援団を作っていくといいと思う。
◎1次産業の位置づけをどうするかというのは、先進国共通の深刻な問題である。つまり人件費が非常に高くなって、このままでは1次産業に携わる人間が枯渇してしまうのではないかという問題は、漁業以外にもたくさんある。これは非常に重要な問題であり、生存問題だと思う。
◎見張り不十分どころか見張りもしていない例もあった。いろいろな技術力があるのだから、技術を駆使し、人間の足りないところを技術で補っていく、そういう積極的な改善や船体のリーデザイン、再設計について、漁業者はどう考えているか。
○漁船のブリッジに入ると、座るところもないぐらい計器がいっぱいある。それは計器がたくさんあるといいというわけではないのに、そう信じている部分が1つある。それから、隣のあいつが持っているものを俺が持っていないのはおかしい、あいつが2台持っているならわしは3台だ、あいつが50万のやつだったらわしのところは70万のやつでなければ、という部分がある。
○遠洋船でもずいぶん問題になっている。使いもしない機器ばかりつけていく。経営者は陸にいて、漁労長が「これがなかったら魚を捕れない」と言うとそれをつけざるを得ない状況がある。ただし、最近になって、まず何がいちばん要るもので、これがないと動けないというものに対しては当然設備しなければいけないが、デコレーションばかりつけて外が見えなかったり、本来の意味の技術が伸びていかないようではいけないという機運は少しずつできている。
○本当の競争とコスト意識が出てくれば、安全のためにどういうコストをかけなければいけないか、どこまでだったらやれるか、どの程度まではほどほどにしておかなければいけないかということも当然分かってくるはずである。
何がいちばん大切で、金はどこにかけて、どういうことをすることが経済効率でいちばんまともなのか。コストをかけて魚がたくさん捕れるのであればいい。それからコストをかけて安全を保てるなら、ちゃんとそのようにしなければいけない。けれども、わけの分からないものに金をかけるのは、やはりあらためていかなければいけないと思っている。
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