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7.5 インシデント等の危険情報の収集
(1)インシデント情報の報告を阻む要因
 
 我が国海事関係者では、海運会社にしても、船長や水先人にしても、インシデントに関する危険情報を社外秘、門外不出とし、同一社内や仲間同志ですら部門外の組織や個人に対しては大部分を秘密にしているケースが多いと言われている。
 このようなインシデント情報の報告を阻む要因としては、以下のことが考えられる。
 
(1)我が国の刑法及びその運用においては、英米法や欧州大陸法体系の国とは異なり、「認識なき過失」も処罰の対象とされてきているため、例え処罰のおそれの低いエラーでもその開示に対しては極めて強い警戒感・心理的抵抗がある。
(2)民事訴訟の分野でも我が国では、やむを得ない事故・災害であっても「賠償による被害者救済」の観点から犯人探しをするべきであると提起している判例もあり、当事者への責任追及に対する恐怖感情は先進国の中でも特に強い。
(3)我が国では、一般社会も事故発生時に生じる被害者・遺族の加害者に対する処罰要求感情を是認し、とりわけマスメディアが「犯人探し」中心のエキセントリックな報道姿勢に終始し、助長する傾向が強いため、些細なエラーに対しても社会的な責任追及に対する恐怖感情が強い。
(4)我が国では欧米以上に「ミスを犯すことは恥であり、それを外部にさらすことなど思いもよらない。」という「恥の文化」意識が強い。
(5)このため、我が国では他の分野(例えば航空)でインシデント情報を自発的に報告してもらい参加会員会社間で情報を共有するシステムは存在しても、これを完全に一般公開するところまでは至っていない。
(6)海運界では歴史的に「船長の責任」が強調され、「海難発生時には船と運命を共にする」ことすら是認されてきたが、特に我が国船舶職員の間にはプロフェショナルとしての自負と共に、「船長の無謬性」を期待する伝統がある。
(7)前述のとおり、我が国海上交通においては、大手内航・外航船社の大型船から、外国籍船、一杯船主、漁船、プレジャーボートに至るまで、極めて多種多様な運航主体が同一海面上を航行しており、これらのグループ間では運航面で利害を異にすることが多い。
(8)ISMコードの制定により、我が国法曹界においては今後船主責任が拡大されていく可能性があるとの指摘がある。
(9)近年、我が国では、刑事事件の取扱いにおいて、「被害者の人権」問題がクローズアップされ、被害者及びその遺族のためにも加害者に対する刑事責任の追及を徹底すべきであるとの風潮が強まり、従来以上に厳しい追及が行われるようになっている。(例えば、H9.6.8三重県志摩半島上空で発生した日本航空ダグラスMD-11型機乱降下事故における機長の起訴)
 
 
 情報報告を得るためには、船員等に対して如何に協力をしてもらえるかが重要なことであり、そのためには、次の要点があげられる。
 
海事関係者全体の安全レベルの底上げを図るための啓蒙が必要
 
(1)責任指向型から対策指向型への思考の流れなど、組織や運航にかかわる安全文化の醸成について理解を得る必要がある。
(2)インシデント情報の必要性を報告者に理解してもらう。そのためには、インシデント情報の報告が予防安全のための「安全対策」に有効に機能することと、それが報告者に利益として還元されることを説明、理解させる必要とがある。
 
情報提供者に安心感を持たせるため、独立した第三者機関で運用することが協力につながる
 
(1)運用組織は、本船を管理する立場にある会社や、原因究明の海難調査、行政処分、刑事関連調査、免許発給等の関係行政機関による運営は適当でない。したがって、情報の報告者が不利益を被らないという安心感を持たせるなどの信頼関係が保てる独立した第三者機関であれば、協力が得られるものと考えられる。
 
インシデント報告は、免責性と匿名性が担保されたうえ、簡便であること、例えば選択式の項目をあげておくなどが望ましい
ヒューマンファクター概念による分析には、どの程度の情報量を必要とするのか、若しくは報告者の協力が可能であるかの検討が必要
 
(1)一般的には、インシデント情報によって処罰を受けたり、名誉に傷つくことがないように免責性と匿名性が必要である。なお、情報の追跡調査が必要な場合を想定した連絡先等の情報提供者の特定につながる事項については、慎重に検討する必要がある。
(2)簡便な報告様式が必要で、できる限り報告分量が少なく、専ら選択式の報告項目を多くし、報告者の労力を最小限にすることが肝要である。
(3)しかしながら、ヒューマンファクター概念を導入した分析手法を考慮すると、報告事項が多量化、高質化につながることが予想され、自主的な報告からどの程度の協力を受けてもらえるのか、更に内航船、漁船、プレジャーボート等の運航・船種別による事故対策へのアプローチの違いが予想されることから、報告事項をどのように選択又は船種別に追加するのか十分に検討する必要がある。
 
 
 内航貨物船を例にすると、業務多忙のなかで自主的に船員等からのインシデント情報を得るためには、量、質ともに制限されたものにならざるを得ないと考えられる。
 多数の報告項目を設定すると、船員等から「単なるインシデントでなぜこのようなことまで書かなければならないのか」という感情を持つ者が少なくない。
 したがって、必須の報告項目としては、5W1H(いつ、誰が(職名)、どこで、何をしていたときに、どうして、どうなったのか)、何が問題であったと思うか(考えられる原因)、どうすれば良かったと思うか(考えられる対策)があげられる。
 他方、更に協力できるという者に対しては、任意の報告として記入してもらい、報告を受けることにより深度化したヒューマンファクター概念による分析が可能と考えられる。
 任意報告としては、次の項目が考えられる。
(個人情報)
・年齢
・現在の海技免許
・海上経験年数
・安全に関する講習等の経験
(インシデントの状況)
・環境条件:視界、風波、潮流、第三船の有無及び状況
・当直者間の意思疎通の関係項目
・報告者の心身状態についての項目
・航海機器等の使用状況、設計、配置、取扱いの関係項目
・作業手順、方法に関する項目
(間接的な情報)
・今航海の当直体制及び当直時間帯
・1回の航海時間及び1ヶ月の航海数
・通航経験の有無
 
(1)インシデント情報を運用する第三者機関では、共有するデータとして相応しいものでなければならず、そのためには、分析等に精通している専門家、研究者等の自由かつ公平な立場からの協力を得ることが必要である。
(2)データの共有化に当たり、情報提供者や所属船社、漁協等の団体を特定する等の一事業体の不利益につながることのないよう、慎重な配慮が必要である。
(3)情報提供者からのインシデント情報は、周辺の第三船の状況、気象・海象の影響、対象となる船舶の不当運航等、インシデント要因を外部の環境上の問題としていることが多いことから、平等の立場で運航グループ別の実態を慎重に分析するなど、特定の運航グループが「不当」と受け止めるようなデータの分析は慎むべきである。
 
(1)安全レベルの底上げ
 
各運航グループが安全に対する共通認識をもち、安全情報を水平展開し、安全レベルを底上げをすることが必要
 
 我が国海上交通の現状は、陸上に例えると、道路として利用する輸送貨物に合わせた外航、内航船社の船舶、作物を生産する畑として利用する漁船、公園やレジャー施設として利用するプレジャーボートなどがあり、同一海面をそれぞれが利用している。
 これらの各運航グループ間においては、その利害を異にすることが多く、海上交通の安全に対する考え方・取り組み方も違っている。
 お互いにインシデント等の危険情報を開示し合い、安全情報を水平展開し、各運航グループが安全について共通認識をもち、海事関係機関共通の安全情報として有効活用するシステムを構築することが、安全に対する意識のレベルを底上げするために必要なことである。
 
 
各運航グループが安全対策の策定等に活用できるものとする
 
 安全対策を策定して実施するに当たっては、各運航グループの立場の違いから、外航・内航船社グループでは組織、集団的な観点からの有効な安全対策が必要とされ、他方、漁船・プレジャーボート関係では、個人特性や個人の安全意識に観点をおいた有効な安全対策が必要とされる。
 これら安全対策の策定または安全講習会等の資料として、インシデント報告によって、明らかになった原因等の情報をわかりやすく、かつ利用しやすいように提供することが必要である。
 
 
インシデント情報を活用した事故予防策の研究等に期待
 
 インシデント情報の活用は、各運航グループ間の活用だけではなく研究機関等における調査研究から、運航グループ間の範囲を越えた、より広範囲な海上交通の安全対策の策定等が期待される。
 また、教育機関等においても、インシデント情報を活用し、予防安全に向けた安全文化に関する意識の醸成を船舶運航に携わる人材教育の一つとして行うことが期待される。
 なお、インシデント情報の共有化については、不特定多数の者に対して無条件に共有することは、情報の悪用にもつながることを考慮し、情報提供者等の共通者以外には、一定の開示条件を付す必要があるものと考えられる。
 
 
第三者機関は、関係行政機関に対して分析結果を提言することが必要
 
 インシデント情報を運用する第三者機関は、収集した情報の分析結果に基づいて、各運航グループ別、又は各運航グループにまたがって対策案を提言することが必要とされるほか、各運航グループに代わり、海上交通安全施策を立案している関係行政機関に対して提言できるような体制の構築が望まれる。
 
インシデント等の危険情報の活用







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