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5.5 日本学術会議における事故調査の取り組み
(1)事故調査体制についての日本学術会議の取り組み
 本委員会の松岡委員は、平成15年7月10、11日日本学術会議で開催された第33回安全工学シンポジウムのオーガナイズセッション「事故調査体制」で、「事故調査体制についての日本学術会議の取り組み」と題して、「人間と工学研究連絡委員会安全工学専門委員会」が平成12年3月に公表された「交通事故調査体制のあり方に関する提言」及び平成15年5月に公表された「安全工学の新たな展開」の概要、安全工学シンポジュームにおける議論等について、次の報告をしている。
 なお、松岡委員は、日本学術会議の「人間と工学研究連絡委員会安全工学専門委員会」委員及び「安全工学シンポジウム」オーガナイズセッションの座長を務めている。
 
「事故調査体制についての日本学術会議の取り組み」の概要
1. はじめに
 現代社会は科学技術の発展により人間の利便性の向上、社会の繁栄・発展がもたらされてきたが、各種システムの高度化、複雑化、巨大化によりひとたび事故が発生すると、多数の人命が失われ、社会経済活動を混乱させるなど、甚大な影響を及ぼす場合があることもまた事実となっている。
 安全対策の基本としては、万一不幸にして起こってしまった事故を教訓として再び同様の事故を発生させないための調査・分析が重要である。関係者の努力にもかかわらず各種事故が相変わらず発生しており、再発防止のための事故調査の重要性が社会的にも認識されている。効果的な事故調査のためには、実効ある調査組織、調査権の問題、過失の扱い、免責のあり方、遺族ケア、被害補償、救急体制等検討すべき事項が多くある(1)
 日本学術会議「人間と工学研究連絡委員会安全工学専門委員会」ではこのような観点から広く事故調査体制についてのあるべき姿について検討を重ねてきた。本報ではその経緯および得られた考え方について紹介する。
 
2. 安全工学シンポジウムにおける議論
 平成11年7月の第29回安全工学シンポジウムでは「安全工学の観点からの交通事故調査」というオーガナイズドセッション(OS)が企画され、現状報告およびそれらを踏まえた活発な討論が持たれた(1)。その後、平成12年の第30回安全工学シンポジウムでのOS「災害事故調査のあり方」(2)、平成13年の第31回安全工学シンポジウムでのOS「事故調査体制のあり方について」、平成14年の第32回安全工学シンポジウムでのOS「事故調査体制のあり方について」を企画、実施し議論を深めてきた。
 特に、昨年の安全工学シンポジウムでは初めて事故に遭われた被害者の遺族からの報告がなされ注目を集めた。
 また、市民との対話を通じて現場での安全問題についての理解を深めるため、昨年12月に、−日本の安全を根本から考え直す「新しい安全のあり方、安全の責任の取り方を探る」−と題する緊急ワークショップを開催し、その中で「事故調査に見る安全の責任−事故調査における責任問題の理想と現実、事故調査と免責問題」という題名で松岡より報告があった。
 
3. 日本学術会議からの提言
 第17期日本学術会議「人間と工学研究連絡委員会安全工学専門委員会」では対外報告「交通事故調査のあり方に関する提言−安全工学の視点から−」を平成12年3月に公表している(2)(3)。そこでは事故調査結果が有効に安全対策に活かせる様になり交通機関の安全性がより一層向上するための方策としての9項目の提言を行っている。
(1)調査機関の設置
 交通事故の原因調査と再発防止への勧告を行う調査機関は全て常設とする。
(2)事故調査の性質
 交通事故調査は犯罪捜査のためのものではないことを明確にする。
(3)責任追求のあり方
 通常運転時の事故発生に関与した当事者の責任を追求しないという立場を確立する。
(4)刑事免責制度
 国民のコンセンサスを得られれば、刑事免責のシステムを導入する。
(5)初動調査体制
 事故現場・証拠の保全のため、専門家により構成された初動調査機関を一層充実させる。この初動調査機関には、他の機関に優先する調査権限を与えることとする。
(6)事故情報の公開
 国民の生命にかかわる情報はプライバシーを除いて、利害に関係なくすべて公表されるべきである。さらにインシデントの報告・公開制度も充実させる。
(7)交通事故対策研究費
 交通事故対策研究費の様な枠組みを作り、事故分析・対策に関する継続的な研究を広く国内の研究所・機関で実施することを可能とする。
(8)道路交通事故への対応
 道路交通事故は毎日多数の事故が、全国至る所で発生しているという特異な状況下にある。交通事故の発生を最も速やかに察知できる警察が、行政警察の立場から、事故調査の専門家を育成し各警察署等の現場に多数配置する等の体制を確立する。
(9)非職業運転者対策
 非職業人が関与する事故低減のため早急に、以下の方策を進める。
a. 一般人の運転において緊張状態の長時間持続を強制しない交通システムの確立
b. 非常時における人間行動バックアップ・システムの整備
c. 一般市民に人間特性を十分理解させる安全教育の徹底
 さらに、第18期「人間と工学研究連絡委員会安全工学専門委員会」では本年5月に報告「安全工学の新たな展開--安心社会への安全工学のあり方--」を審議結果の取りまとめとして発表している。その中で、「各分野に免責規定を導入した独立的事故調査体制を構築すべきである。事故は実に様々な原因・理由で起こる。したがって、航空機・列車事故等以外でも当該事故に関わる調査・研究体制を独立的に整備しておくことは、事故の再発を防止するために不可欠であり、安全工学専門委員会では、安全工学シンポジウム等の開催に際し、事故発生の社会的背景や調査・研究を遂行した関係者の免責問題等にも出来るだけ言及し意見交換するよう努めてきた。」と提言2として述べている。
 
4. これまでの議論のまとめ
 これらの提言は交通事故に限らず、すべての種類の事故調査にとり貴重な提言であろう。事故調査組織の面のみならず、事故の真の原因を探るために必要な事故当事者の証言をいかに得るかが重要であるとの共通の認識が得られつつある。しかし、証言者自らに責任がおよぶ恐れがあるときには、有効な証言は得にくい。そこで免責制度の導入が考えられる。
 前回の第32回安全工学シンポジウムでは事故時の責任として民事責任、刑事責任、行政責任がどのように問われ、課せられるかを述べた。
 その上で、人間が関与した事故の調査においては、事故に至るまでの人間行動の解明を行うことが不可欠であり、事故原因の解明・事実究明を目的とし個人の処罰を目的としないという立場を確立すれば、真相究明が容易となり、類似事故の再発防止、安全向上にとって貴重な事実が明らかとなるという立場から免責制度の導入の方向で検討を進めてきた。
 うっかり・ぼんやり、勘違い、操作ミス、対応の遅れ等の意図しない人間行動が関与した事故では当事者の責任追及をしないとする立場(過失責任を問わない)を確立したい。さらに、もう一歩踏み込んで、特異な事故や未解明の事故が当事者の証言により解明され、将来起こるかも知れない大事故を未然に防ぐ効果がある場合には、当然責任が問われるケースでも免責を適用することは有用であろう、と議論してきた。
 しかし、今回のシンポジウムでの講演「事故責任と補償」の中で佐藤弁護士が述べているように、諸外国でも、刑事責任を法的に完全に免責するという国はまれであり、実務的に事故調査を優先させていることが実情である。つまり、社会的な理解と支持により事故原因調査を最優先させるべきであると述べられている。さらに、事故調査のために民事責任を免責にする事はまずあり得ない事である。
 そのことから、事故原因の解明のためには事故によって生じた被害の補償・賠償を抜きにしては考えにくいと前回の安全工学シンポジウムでの報告でも指摘した。もちろん、被害の補償、賠償は事故に対する事後的な面も強く持っている。
 現在各種の保険制度が整備あるいは提案されている。
損害保険・傷害保険:これは潜在的被害者の自衛手段であり、万一の事故被害発生の場合被害額が補償され、加害者の存在は不要である。被害者が賠償を受けた後は、損害賠償請求権は保険会社に移る。
責任保険:これは、潜在的加害者が保険料を払う保険で、不法行為責任の立証を要する。この種の保険の一例は自動車損害賠償責任保険である。
公的救済制度1:潜在的加害者の集団が負担する公的な保険制度。労働災害(労働者災害保険法)、公害健康被害の補償等に関する法律、医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構法(サリドマイド、スモン)がこれにあたる。
公的救済制度2:潜在的被害者の集団が負担する公的な保険制度(4)も考えられるが、現実にはこの種の保険は実現していない。
社会保障:特定の個人が保険金を支払うことなく国の一般財源から支払われる救済制度。三菱重工ビル爆破事件が契機となり制定された犯罪被害者等給付金支給法がこれにあたるが、十分の額は期待できない現状である。
 
 ニュージランドでは25年以上前から統一的な事故補償制度を作り運用している。我が国の今後の事故補償について考えていく際の参考になると思われるのでここに紹介する。
ニュージランドの事故補償制度:ニュージランドでは統一的な事故補償制度が公的な制度として整備されている。1974年にAccident Compensation Corporation(行政サービス機関)が設立されInjury Prevention, Rehabilitation, and Compensation Actに基づいて事故補償制度が発足した。これは、責任が誰にあろうとも迅速に傷害を補償する制度であり、訴訟手順によらず対処するかわりに傷害についての訴訟権利は与えられていない。休業補償もあり、全ての収入のある国民は保険料を支払わなければならない制度となっている。収入の無い国民の補償のために国は資金供給も行っている。
 保険のカバーする範囲は医療費、リハビリ費用、交通費、休業補償、収入減、慰謝料、遺族補償、葬儀費用であり、事故原因を減少させることを目的としている。
 1974年の発足以来、1982年の大幅な改正、1992年、2000年の改正を経て現在でも重要な役割を果たしている。1987年には病気、医療事故も保険の体系に組み入れるべしとの勧告が出されている。
 
 また、「人間と工学専門委員会 安全工学専門委員会」では加害者の失地回復という面についても議論がなされた。
 たとえ、免責制度、被害補償制度が整備されていても、ひとたび事故発生の原因者としての事実が明らかとなった場合は過失・故意にかかわらず組織、社会の中でいわゆるレッテルが貼られ以前と同等の地位・立場を維持するのが難しくなるのが日本の社会と言える。
 このような状況が万一の事故発生時において当事者の証言を得にくくしている。延いては、不具合あるいは事故そのものを隠蔽する体質が日本の組織には散見される。
 加害者の失地回復を可能とする社会的風土を醸成することが、当事者の証言を得やすくするために必要であるという議論である。
 
5. まとめ
 事故調査体制のあり方について「日本学術会議人間と工学研究連絡委員会 安全工学専門委員会」では長年議論を重ねてきたが、災害事故を減らし安全を向上させるためには、種々の要因を考慮しなければならない事が明らかになってきた。特に純技術的な問題だけに限定するわけにいかず事故責任、免責制度、被害補償も視野に入れた検討が必要であることを実感した。それとともに、事故の前兆といえるインシデント報告制度、都市災害調査のための組織等今後更なる検討を必要とする事柄も残されている。これらをもとに今後、さらに総合的に事故調査体制のあり方を検討していきたい。
 
【参考文献】
(1)松岡猛:交通事故調査における問題点−日本学術会議第28回安全工学シンポジウムでの議論−,安全工学,37-5,pp.364・366(1998)
(2)松岡猛:交通事故調査のあり方に関する日本学術会議からの提言,安全工学,40-1, pp.38-42(2001)
(3)日本学術会議・人間と工学研究連絡委員会・安全工学専門委員会編:交通事故調査のあり方に関する提言−安全工学の視点から−,日本学術会議(2000)
(4)長尚:事故・災害調査のあり方に関連して,日本学術会議第31回安全工学シンポジウム講演予稿集,pp.51-54,日本土木学会(2001)
 
図 事故調査体制関連事項
 
第32回安全工学シンポジウム(2002年7月)
OS1-1 事故責任・被害補償について
松岡猛(海上技術安全研究所)







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