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二十一世紀は世界中が日本化する
 そちらに座っているロナルド・モースUCLA大学教授が、私に「日本の経済は芸術作品である。工業製品と呼ぶには、非常に芸術的である。何をやらせても芸術的なものをつくる。トヨタの自動車、レクサスがその例である」と教えてくれました。
 振り返ってみれば昔、日米貿易摩擦のときは日本の自動車はオーバー・クオリティだと言われました。「日本製品は過剰品質だ。もっと程度の低いものを安くつくれ」と言う人がワシントンにたくさんいましたが、アメリカのマーケットは日本のオーバー・クオリティを、値段が高くてもどんどん買ったのです。そして、いつしかそれがスタンダード・クオリティになった。
 経済発展の歴史を振り返ってみると、昔からそういうものなのです。誰か金持ちが贅沢をする。大衆がそれをほしいと思ったとき、勤勉の精神が生まれる。頑張って働いて手に入れる。するとそこで経済はいったんストップする。欲望が充足すれば、もう発展しないわけです。しかし、そこでまた金持ちが発生して贅沢をすると、それがほしいと思って大衆が頑張って働く。やがて普及していく。すなわち、再び経済発展時代が始まる。ですから、経済発展時代が終わりかけの頃に「文化爛熟期」があって、しばらくお休みで、もしいい文化ができたら、再び経済発展が始まる。それは「文化の普及過程」である。
 平たくいえば、まず文化創造、そして文化普及、という順番です。文化普及のところを「産業の時代」と言うのです。日本は欧米に追いつきましたから、追い越すことは「日本文化の創造」から始まる。日本文化の精神が日本マーケットでまず産業になり、それを外国の人が良いと思ったら取り入れる。そうやって普及していく。良いと思わないものは普及しない。
 そして注意していただきたい事は、それは日本には関係ないことなのです。日本人は自ら満足するために、自らの富と技術とセンスを使ってレクサスをつくる。あるいはマンガやアニメをつくっている。世界がそれを真似するかしないかは勝手です。
 が、たぶんするでしょう。現に普及しつつある。だから二十一世紀は世界中が日本化するのです。
 これをわかりやすく箇条書きに書いていくと、日本の一人当たりの国民所得は最高です。学歴も最高です。とんでもない大都市が三つも四つもある。そこは公共事業が完備しすぎるぐらい完備しています。
 しかも一四〇〇年以上前からの芸術の伝統がある。日本芸術の特徴は宗教のしばりがないということです。自由に自分の印象のままに何を描いてもいい。そのような自由が一四〇〇年前からあるというのはウルトラ先進国なのです。それを一九〇〇年ちょうどの頃、パリに集まった若い画家たちが「日本の真似をしよう、思った印象のとおり描けばいいのだ」と発見して、それで「印象派」が登場しました。
 それまでの絵は、キリストを褒めたたえる絵しか許されなかった。オランダの画家レンブラント(一六〇六〜一六六九)は肖像画で有名ですが、金持ちの商人を描きましたね。本人や奥様、お嬢さんを美しく、若干脚色して描きました(笑)。ただし、これは門外不出です。その人の家の中でしか掲げてはいけない。これを公に出すことは教会に対する反逆です。神を褒めたたえること以外は許されない。自分のポートレートを描いたときは自分の家の壁に飾っておけという時代でした。
 一九〇〇年頃に印象派の画家たちが、自由に描きたい、日本の真似をしよう、それが芸術だと活動し始める。彼らに王侯、貴族からの注文はこないし、貧乏でモデルなどは雇えませんから、売春婦を描いたり、自然や街の景色を描いた。飾るところがないから公園に飾った。言ってみればヒッピーの自由芸術ですから、大目に見てもらえた。しかし、そのインスピレーションは日本の真似。浮世絵に影響を受けていたことは有名な話です。
 日本には精神や表現の自由が昔からありました。かえって我々はそれを自覚していない。灯台もと暗しで、自分のことはわからないものです。そこでモースさんから「日本のクルマは芸術作品であって工業製品とは言えない」という言葉を聞いたとき、こんな連想を広げました。日本の自動車会社の社長は、もちろん芸術品をつくれとは命令していない。口に出すのは多分「売れる車をつくれ、良い車をつくれ」。
 しかし日本国内で売れる車は、すなわち芸術品です。我々は何とも思っていませんが、外国へ出すとピカピカの芸術。自動車会社の人が心をあわせて一生懸命つくっていると、自然に芸術になる。技術屋さんにせよ、アイデア、コンセプトをつくる人にせよ、すべてが日本文化の中で育った人だから、一生懸命やっていると足並みそろって「芸術」や「風流」や「みやび」に行くわけです。もうじき命名もそうなるでしょう。
 マンガもそうです。みんなで集まってやっていると、自然にそちらに行く。
 その一例として取り上げたいのはポケモンのピカチュウです。ピカチュウは「ピカチュゥ」という一言しか言わない。そのイントネーションだけが表現手段で、ロジックもなければ述語も何もない。それでも、怒っているとか嘆いているとか、ちゃんとわかる。日本のみならずアメリカの子供もわかって喜んでいる。大人の目から見れば知的には劣化した、子供の教育上悪い存在(笑)。しかし、子供たちはわかっている。
 この子供たちが大きくなったとき、アメリカの裁判社会は終わるのではないでしょうか。なぜなら、以心伝心の素晴らしさを知っている(笑)。日本の裁判は和解だらけです。理屈を立てても手間がかかるばかり。そもそも理屈なんてどちらでもつくのです。それを知っているから、さっさと和解してしまう。
 日本は和解をする国だから非合理的であるとか、非論理的であるとか、アメリカはいろいろ言っていました。ところが何のことはない、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏は自分が訴えられたら急に「和解しよう」となった。一例ですが、和解が一番早くて効率がいいのです。だからいずれ、アメリカも裁判社会が終わって、和解する時代になるでしょう。
 その時代をつくるのは「ピカチュウ」で育った子供たちである、と私は思っております。
 若干大げさにそういうことを書いたところ、モースさんから英訳を勧められました。「いや、これはアメリカに教えない方がいい。アメリカはいつまでもぎくしゃくしていろ。その方が日本の国益だ」と思っておりましたが、大切な友人からの勧めですから、英訳して冊子をつくりました(写真)。よろしければお持ち帰りください。
 ピカチュウは喋らないが、その意味するところはわかる。Heart to Heartのコミュニケーションは存在する。それに比べてアメリカはすべてを言語化することがインテレクチュアルだと思っていたが、そうでもないらしい。かえって深みがなくなるのです。そういうセンスを我々日本人は、一四〇〇年以上の知的・文化的ストックから、自然と身につけている。
 アメリカの中にもわかる人がだんだん現れて、この頃「ビミョー(微妙)」と言うアメリカ人がいるそうですね。「微妙」という日本語でないと、自分の言いたいことが英語では言えないというわけです。あるいはアメリカ人はイノベーションが大好きですが、「イノベーションではない、カイゼン(改善)だ」と日本語のまま使う人が増えてきた。成功したある社長は、「その理由はケイレツ(系列)をつくったからだ」と言ったそうです。
 このように、日本人がやっていることには日本語がありますが、英語にはないものがある。そんな簡単なことを、文部科学省の英語ができると思っている人は、わかっていないらしい。英語がうまくなると偉くなったと思っている。
 普通の日本人のほうがずっと常識があります。「英語がうまくても、それだけでは仕方ないだろう」と知っています。そういう常識が、少し盛り返した時期に入ってきました。この一年間ぐらいで日本はものすごく変わったと思います。







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