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日本よ、意を取り戻せ
 ただし公平に批判しておけば、知、情、意と三つ並べるのが普通ですが、今の日本語では「意」が劣化します。戦前の教育は、知、情、意、三拍子そろった人間をつくることだと言っていた。ところが、いつの間にか戦後は知だけになった。偏差値とか、暗記とか、理性とか、そういうのだけになってしまった。このごろようやく、感性を磨けと言うようになり、情も必要だと言うようになった。
 しかし、まだ意が出てこないのです。
 今の日本人に一番欠けているのは意です。意というのは、意欲とか意志ですね。よーしやるぞ、今日も頑張るぞ。あんなやつに負けてたまるか。こういう気持ちがお腹から湧いてくる、ということです。
 『内臓が生みだす心』(NHKブックス)という面白い本があります。西原克成さんという著者ですが、意欲というのは内臓から湧いてくるのであって、頭なんか空っぽだという。頭なんかいくら磨いたって意欲は湧いてこない。頭はむしろブレーキで、ただの配電盤。処理するだけのコンピュータに過ぎない。人間として一番大事な「やる気」は、胃袋とか腸とか、肺、心臓から湧いてくるのだという本です。
 日本人には、意がないんですね。外務省が今、何で悪口を言われるかというと、意がない。やる気がなくて、理屈ばかり言っている。自分の仕事を減らすほうへ理屈をつけている。しかしこれは外務省だけが悪いのではない。日本中そうなんですね。
 意が足りないという話は次回たっぷりやりたいのですが、最近の日本語を使っていると意が消えてしまいます。「やるぞ」などと言うのは野蛮だとされている。自ら行動するのはヤバイのであって、賢い人は逃げるのが上手い人のことだとなっている。保険をかけて渋々ちょっぴりやるのが知的な人だと思われている(笑)。そういう日本語だらけに今はなっています。この点は克服が必要ですね。
 
日本人が共有するセンスの底力
 さて(2)として、聖徳太子以来一四〇〇年の歴史があるものですから、日本精神は言葉ではなく日本人のセンスになっている。知識ではなく、もう常識になっている。それをマンガにし、アニメにすると世界の人が見てびっくりする。あるいは日本の子供が学校教育にないものを感じて興味をもつ。
 皆さん、自分は毎日楽しく暮らしてきただけだと思っているでしょうが、しかし生い立ちからして知らない間に仏教も、道教も、密教も、神道も、キリスト教も、みんな聞いているはずなんですよ。だからソクラテスを読んでも、カントを読んでも、ゲーテを読んでも、ヘーゲルを読んでも、昔そんなことは聞いたなという気がするのです。しかとは覚えてはないけれど、そんな話はあったなと思うのです。こういうのを全部総合して「センスになっている」と表現しました。
 日本人が共有するセンスになっています。
 外国の異民族が日本を占領して何かを強制したということがない。だからいま日本人が持っているものは全部、自分が好きで選んだものばかりです。好きで身につけたものばかりです。しいて言えばキリシタン、バテレンは御法度という時期がありました。それくらいで、ほかのものは皆、輸入自由です。明治以後はキリスト教も輸入自由です。
 面白いことに、輸入は自由にしたが、さっぱり広がらない。いつまでたってもクリスチャンは一〇〇万人のまま。あとはただクリスマスのような社会風俗になっているだけで、信者にはならない。こんなことなら徳川秀忠はあんなに一生懸命禁止しなくてもよかったんですね(笑)。自由化しておいたって、ある程度以上は広がらなかった。
 おそらく日本人はありとあらゆる思想に対して既に免疫を持っている。抵抗力を持っている。恐るべきセンスがある。常識がある。それは全員が共有している。こんな国は世界中、こんな大国ではありませんね。小さい国にはあるかもしれませんが、大国では思いつきません。日本の特徴であり、底力ですね。
 そして、日本の中で、共同体の論理もわかるし、グローバル・スタンダードもわかります。両方わかるのが凄いところです。例えば戦国時代がありましたから、あのときのことを思い出せば、みんなで争うとはどういうことかわかっていますね。そのとき発達した武士道があるので、戦いはするが、途方もなく野蛮にならないように、残酷にならないようにルール化する知性も伝統もある。文明化した戦争のやり方は、日本は数百年前に体験しているんです。何でもわかっているんですね。
 
日本語の機微、英語の不自由
 そういった日本人のセンスを芸術にも、産業にも応用している。というか、自然にあらわれている。その豊かさが日本の底力です。
 ポケモンにでてくるモンスターは最初は五〇匹しかいなかった。いつの間にか二五〇匹。今はもっといるかもしれません。幾らでもお化けが大量生産できる。天才なんか探さなくても、日本の若者が集まれば、いろいろなお化けを幾らでもつくってしまうというのは、日本人のセンスですね。あるいは自由さです。
 こういうところは、欧米人にはどうもないのではないかとかねてより思っています。欧米の大人は日本人がつくったお化けを、こんなもの見せたら教育に悪いと言う。しかし子供は、かわいいとか、面白いとか、素直にわかる。
 こういうとき、きちんと説明しなければいけません。向こうで言うモンスターと、日本語のお化けは意味が全然違うのです。フランケンシュタインがわかりやすい例ですが、向こうで言うモンスターは人間を襲う存在です。日本で言うお化けは、人間と対立する存在ではありません。むしろ悪人を懲らしめてくれたりする。多分、スピリットと訳すのが近いでしょう。泉の精、大木の精、狐の精などです。
 だから日本語をそのまま使えばいいのであって、いいかげんな通訳を使うのはかえってよくない。と思っていましたら、アメリカ人のほうから「日本語にはキビ(機微)がある」と言い始めたという新聞記事を読みました。つまり、微妙なニュアンスがあるということです。「ビミョー(微妙)とか、キビ(機微)とか、そういう言葉がわからなければ我々は二十一世紀に踏み出せない」と主張するアメリカ人があらわれたという新聞記事を見つけて、我が意を得た気持ちがしました。
 英語というのは不自由なものなんですよ(笑)。未発達なものなのです。特に微妙とか機微ということについてはそうなのです。
 そこで彼らは、「かわいい」というのをそのまま日本語で使うわけですね。英語にすればプリティとか、ビューティフル、キュートと言いますが、それでは微妙に感覚が違うわけで、イギリスでも中国でも「かわいい」をそのまま使うという動きは、先に紹介したとおりです。
 では、「かわいい」というコンセプトは何でしょうか? 日本人の方から「かわいい」と言ったときの意味を説明してあげたいものですね。私の感じではまず「かわいい」が成立する条件の第一は無力である、力が弱いということです。無力は欧米では「駄目」という意味です。生存競争が厳しいですから、無力であることは社会的には価値がない、本人も自慢にならない。しかし、日本は違うのです。無力はむしろ事物の本質だと考えて肯定します。無力だというと、みんなで何とかしてあげましょうとなる。無力でも暮らせるような社会をつくろうという、温かい気持ちが日本人にはある。そう思いますが、いかがですか?







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