母子像のキリストはなぜ大人の顔か
ヨーロッパの美術館めぐりをすると、マリア様がキリストを抱いている母子像というのがいたるところにありますね。
時代によりますが、そのキリストの顔は大人か、または大人っぽい顔をしています。
かわいい赤ん坊の顔ではないんです。すっかりませた顔をしている(笑)。向こうの牧師に、「赤ん坊がどうしてこんな顔をしているのですか?」と聞いたら、「キリスト様は初めから偉いのだ。赤ん坊のときから偉かった」と言ったので、ああ、偉い人間の姿とは中年の男性なのかと思ったことがあります。
なるほど聖書にそう書いてあるんです。旧約聖書の一番最初のところに「神はおのれの姿に似せて人間をつくりたもうた」とある。この場合、人間というのはアダムですね。アダムが第一号です。アダムの赤ん坊時代というのはないわけで、アダムは生まれたときから成年男性ですね。だから、三十前後の男の顔が神様に一番近い顔をしているのだと、それが無意識のすり込みになっているから、マリア様に抱かれているキリストもそういう顔をしているんでしょうね。イブはその次につくられるわけです、肋骨から一本とって。
年をとってよぼよぼしていくのは、神様から遠ざかること。ヨーロッパ人は無意識にそう考えていると思います。少年少女時代は未発達、幼稚、未完成、人間以前、動物。そういう考えがすべてにあらわれてくるわけで、例えば、子供というのはビシビシしつけるものである。知的でないのは動物ですから、うちの子供には論理力、文章力、分析力を早く身につけさせて動物から脱却させなければいけない。こういう気持ちで教育をしている。子供にはさぞやストレスがたまっているだろうと思います(笑)。
だから、日本のマンガが入っていったとき、向こうの子供はホッとするんですね。子供が未完成な存在ではなく、子供ではあるけれども一人の人間として扱われている。それは成長の途中かもしれないが、未完成ということとは違う。仏教の教えでは、人生には完成もない、未完成もない。だいたい生々流転していくもので、現世では「無常」が根本原理だとなっていますが、それが作者にも読者にも浸透している。それが日本マンガの特徴です。だから子供マンガがある。向こうにはない。
日本だけストーリーマンガが生まれる理由
では、成長マンガ、ストーリーマンガとは何か。
向こうの人が考える人生ストーリーの終点は何ですか。キリスト教信者であれば、「最後の審判」と言わなければいけないんですね。ある日、雲の上で高らかにラッパが鳴って、天使が降りてきて、神様が降りてきて、死んだ人も生きている人も人間を全部集めて、神様が「おまえは天国へ行け、おまえは地獄へ行け」と、全部振り分けてくださるということになっています。このごろは信じない人が多いでしょうが、そういう前提から始まった社会の習慣や思考様式は根強くヨーロッパ中にある。
だから、歴史には終わりがある。神様がけりをつけてくれる。そのときはすべてが明らかになる。
だから、成長マンガというのはあっても、最後の審判までいかない。つまりどこかで止まってしまいます。
ところが、日本はそうではありません。
仏教が入っている、儒教が入っている、道教が入っている、日本神道というのもある。それを全部まぜて、各自勝手に自分の人生観、あるいは自分の社会観、自分の男女観、何でも勝手につくって暮らしている。それでもいいことになっている。つまり思想統制がないのです、この国は。
その結果、日本人は勝手に成長マンガを描いてしまう。人生ストーリーを描いてしまう。その最後は、神様が出てきてけりをつけるのではありません。ご本人が決めます。または周囲の人が決めます。
アメリカ人は移民ですから、成功、サクセスストーリー、勝利でハッピーエンドにする。ハッピーエンドのハッピーとは何かというと、金持ちになることですが、それではあまりにも潤いがないから男女が結婚するというのがハリウッド映画の常套であって、そこが乱れて二〇年前から映画がまるで変わってしまいました。家族主義に変わったんですね。離婚だらけになって、これではアメリカはおかしいと思い始めてから、映画の主人公は中年男性になった。二〇年くらい前から、活躍するヒーローはみんな中年の男性。一生懸命戦っている理由は、奥さんの危険を救う。奥さんと抱き合って終わりというハッピーエンド。ファミリー至上主義というのがこの二〇年、アメリカで流行した。
それはともかく、彼らが予定している「終わり」は一定のイメージがあるわけですけど、日本では何も予定しないでストーリーマンガをつくります。
最後はどうなってもいいんです。何やら哲学的なオチをちょっとつければいい(笑)。途中ずっと面白ければ、最後は何でもいい。
そういうつくり方を日本人はいたします。お客もそれでいいと思って読んでいるので、日本のストーリーマンガは実に自由です。話がどこへ飛んでもいいのですから。最後は、「人生とははかないものだ」とか適当に言えばいいんです(笑)。それでもいいんです。本当ですよ。はっきり終わらなくていいんです。エンディングは仏教が出てきてもいいし、儒教が出てきてもいいし、何が出てきたってお客は素養があるから適当に受け取ってくれるわけです。だから、日本はストーリーづくりが自由です。終わりは何であれ、途中が良ければいいじゃないか、と。
これは仏教の考え方なんですね。結論ではない、途中が大事。仏教でそういう教えがあるわけです。
日本精神の五つの特徴
お配りした資料に、日本精神の特徴を五つ書きました。
(1)日本語一つで世界がわかる。
(2)一四〇〇年の歴史でセンスになっている。
(3)被侵略がないので全員共有。
(4)共同体の論理もグローバル・スタンダードも両方わかる。
(5)以上を芸術・産業に応用して磨きがかかっている。
外国人とつき合ってみて、日本はこういうふうに違うなあと思ったことを書いてみました。これを見て、皆さんもそれぞれ考えてください。つけ足すものがあれば、どうぞつけ足してください。
簡単に説明しますと、英語では世界はわかりません。完全にはわかりません。まず、英国の悪口は書いてない。それから、インドや中国については、苦心惨憺、努力して理解しようとしたことは認めますが、しかし日本人が書いているほうがもっと奥が深いわけです。日本語一つで世界がわかります。世界で最高に翻訳が行き届いているのは日本語です。ギリシャ哲学から、ローマの思想家から、キリスト教から、インドのこと中国のことも、ありとあらゆるものが日本語に翻訳されております。イギリスの悪口もたっぷり書いてある。それから素晴らしいと思うのは、日本の悪口もたっぷり書いてある。こんな公平な言語は世界中ありません。
日本語で足らないのは最新情報でしょうね。それが翻訳されるまではしばしわからない。しかし、最新情報を身につければ儲かると思えば誰でもすぐやりますよ。ですから、実際は困る事などないのです。
逆に言いますと、英語を使っていると知が劣化しますね。本当にそう思っています。英語を使っていると頭が悪くなるような気がします。もっとも、それほど英語はできないんですけど(笑)。「英語だとここまでしか言えない、自分の気持ちはもっと別のところにある」と、しばしばそう思うんですね。これは私の英語力の問題だけでなく、日本語にはあるけれども英語にはないという単語やニュアンスがたくさんあるからです。
同じことを日本国内で例を挙げればわかっていただけると思います。関西から東京へ来たとき、標準語より大阪弁のほうがよっぽど深いと思いました。東京語というのはまだ未発達だなあと思った記憶があります。同じことが英語でもあるのですね。
中国語では情が劣化します。中国には情の世界というのはないらしい。ないと言うと驚かれるかもしれませんが、日本と同じようにあると思うのは間違いです。中国人がつくり上げた情の世界というのはまるで違うらしい。それを詳しく知りたい方は、岡田英弘さんの本をお読みください。今、本屋さんですぐ手に入るのは『やはり奇妙な中国の常識』(ワック刊)ですね。
人情、風俗は世界中一緒だなどと思ってはいけないのです。ですから、中国語を話していると情が劣化します。
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