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少女マンガに反映する社会水準
 外国の人が言う日本マンガの特徴は、大きく言って三つほどあります。まず第一に、少女マンガがある。第二に、ストーリーマンガがある。そして第三に、主人公が成長するということです。それからアジアの若者の意見を第四に付け加えますと、「成功とは何か、勝利とは何か、人生とは何か」の考え方が深すぎてついていけないというのもあります。そこまでわかるようになったとは、欧米より進んでいます。
 その理由を考えてみたいと思いますが、日本には子供マンガというのがある。特に少女マンガがある。その少女が中学生になり高校生になって、だんだん大人になっていくところを描いたものがある。「こんなものは世界中になかった」と言われてみても、別にそれがどうしたと私たちは思いますね。こういうのが不思議なところですね。しかし世界はそう思っている。
 その原因ですが、まず子供のこづかいの金額が違う。二〇年前あるアメリカ人は私に「ヨーロッパでは子供一人一年に一九ドル。しかしアメリカは七〇ドル。だから子供産業はアメリカが一番」と言ったのですが、そんな数字を言うのなら、日本は二〇〇ドルくらいあるだろうと反論しました。「お年玉」があるからです。お年玉→マンガ→ファミコン→ケータイ→? と考えると、“日本型IT革命”の根源はお年玉だとわかります。そういう経済的自由が少女にもある国はそう他にありません。
 それから、アジアでは大体、女の子は学校に行きません。昔からそうです。女の子が中学生、高校生になるなどというのは、よほど大金持ちのお嬢さんであって、そんな学校は幾つもない。だから、女子中学校が対抗試合をする、それで盛り上がるなどという風景は最近ようやくのことです。
 ヨーロッパでも女性が高校に行くのは、最近まで多くなかったのです。二〇年ぐらい前、ヨーロッパで雑談をしたときですが、「日本では九五パーセント高校に行く。女の子はほとんど高卒ですよ」と言うと、「へえー。女の子を高校に行かせて何にするのか。医者にするのか、弁護士にするのか」と聞くのです。「そんな気は誰一人ない。ただ行っている」と答えると「そんなもったいない。女の子はウエイトレスにして働かせれば、ちゃんと稼いでくれるのに」と当たり前のように言われました。
 当時調べてみると、ヨーロッパの女性の高校進学率は五〇%でした。五〇%を超えて、だんだん上がっていこうというときですから、女の子は働くものであって、学校へ行ってスポーツの試合なんかするものではなかった(笑)。
 そこへ『アタックNo.1』が日本から入ってきて、女の子がファイト、ファイトと試合をするのを見ると、これは一体どういう国だと思ったことでしょう。もっとも、フランス語とかイタリア語に吹きかえてありますから、名前もマリアーヌとか何とかになっている。テレビを背中で聞いているとわからないのですが、振り返って見たら、なんだ『アタックNo.1』じゃないか。後ろに天王寺学園なんて漢字で書いてある(笑)。「あれは日本のマンガだよ」と言っても、「そうか、知らなかった」というようなものです。そんな昔の思い出があります。
 日本のほうが男女平等であり、女子教育が普及していて、女性が男と変わらない活動をしているというところを外国はびっくりしながら、面白がって見ていました。それは、まずアジアの人がそうですが、ヨーロッパの人もまたびっくりしているわけで、日本マンガ・アニメが面白いということの根本を探ると、日本社会が到達した水準が全然違うということがある。既に到達している。我々は何とも思わない。外国人には珍しい。だから、日本は二、三〇年進んでいる。大げさに考えるとそうなるわけで、「日本には女性の学校生活を描いたマンガがある。なんとも珍しい」ということを社会的、経済的条件の違いから、きちんと言葉に置き換えていけばこのように分析できるわけです。
 
「主人公が年をとる」という発明
 石原慎太郎さんに、世界のアニメの七割は日本製で、そのほとんどは練馬区と新宿区でつくっている。東京にとってみればこれが地場産業で、これが底力ですと言ったら、たいへん乗り気になってくれまして、東京都と東京財団で新世紀国際アニメフェアをお台場で開催することになりました、その中で東京財団はマンガ・アニメに関するシンポジウムを開催しました。
 そこであるアメリカ人が言ったのですね。自分は二〇年も前から日本のアニメをアメリカに売り込んでいる。最近は飛ぶように売れるが、最初のうちはたいへん苦労した。というのは、主人公がどんどん年をとって成長するマンガなんてアメリカ人にはよくわからない。「そう言われて苦労したものですよ」と笑っていました。
 そう言われて気がつくと、アメリカの例えばスーパーマンは年をとりません。戦う相手は毎回違いますけれども、スーパーマンは同じ人です。あるいはスヌーピーも、一緒に出てくる子供も、全然年をとらない。日本では両方あるわけですね。例えば、『サザエさん』はいつまでたっても同じです。『ちびまる子ちゃん』も『じゃりん子チエ』も全く同じです。
 というのもあるけれども、その一方で年をとるマンガもある。『のらくろ』は野良犬から二等兵になって、一等兵になって、最後は少尉、中尉になって、軍隊をやめてリタイアしてまた野良犬になるところまで全部ある。つまり人生物語ですね。あるいは弘兼憲史さんの『課長 島耕作』『部長 島耕作』『取締役 島耕作』。ご本人の話では「私はこの主人公は自分と同い年に設定しています。だから、私と同じように年をとる。取材のもととなる友達も、サラリーマンになった友達もどんどん年をとりますから、彼らから聞いたとおりマンガに描いていると年をとるのです」ということでした。「取締役の後は『社長 島耕作』を描くんですか」と聞いたら、「社長になる友達はあまりいないから困る」と言っていましたが(笑)。
 そういう人間成長ストーリーマンガというのは日本の発明らしいのですね。
 
「聖徳太子から一四〇〇年」という話
 整理すれば、日本には子供マンガがあります。それから、ストーリーマンガというのは日本が発明したものです。というようなことは、別に私だけが言っているわけではなく、みんなが言っていることです。では、この二つがなぜ外人には珍しいのか。日本人にはなぜ当たり前なのか。
 これは精神構造の根本から議論をしないといけないと思うので、そこに話を進めましょう。
 すると、聖徳太子からという話になるんですね。
 聖徳太子の頃からでき上がった日本精神があって、これは一四〇〇年の歴史がありますから、我々はもう意識していません。しかし、それは外国人にはびっくりする話です。反対に外国人は私たち日本人から見ると、ここにもキリスト教の影響、あそこにもキリスト教の影響、なんとご不自由な、かわいそうにと思いますが、向こうはそれはわからないわけです。「人間はすべてこう考えるべきものだ」と思っています。そう考えてない日本は間違っている、東洋的停滞の中にまだ沈んでいる、教えてあげなくてはいけないと、無意識のうちに思っていてそれが言葉の端々にあらわれる。態度にあらわれる。
 ところが、それをマに受ける日本人がいる。あまり日本的教養が身につかないうちにアメリカへ留学して、先生に点数で厳しくしごかれ、すっかり先生に対して迎合的になってしまった秀才がたくさんいる。他のことを知らない。先生の言うことを身につけると良い点をもらえて、ドクターになって日本に帰ってきて、自分はアメリカのドクターだと威張るが、あまり誰も尊敬してくれない。そこで、尊敬しない日本人は間違っていると言い出すわけで、こういう人が増えたので本当に困るのです。
 ですから、私は聖徳太子とキリストにまでさかのぼって精神の根本を言い、それが日本のマンガ・アニメにどうあらわれているかを言うことになるわけです(笑)。







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