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ルネサンスとはスポンサーの交代
 また話は元へ戻りますが、飛鳥・奈良時代の仏像、絵は西暦紀元七〇〇年ごろです。ヨーロッパのルネサンスは一四世紀末から始まってピークが一四〇〇年代ですから、日本に比べると七〇〇年遅れてルネサンス。
 そのルネサンスのころの絵や彫刻を見て、それから奈良の仏像や絵を見ると、はるかに奈良のほうがすぐれている。もっと高い境地に行っている。私はそう思っていますが、何でこういうことを言う人がいないのかと本当に不思議です。多くの人がそう感じているはずなんです。しかしイタリアへ行くと仰ぎ見て褒めるが、飛鳥・奈良・京都へ行くと、心は打たれているが口に出さない。そういうところ、ありますよね? いったいなぜでしょう。
 内心薄々はそう思っているが、せっかく高い旅費を使って来たのだから、やっぱり「いいものじゃないか」と思い込みたい(笑)。それから、子供のころから教科書や何かで見せられていますから、いまさらミケランジェロはくだらないなどとは言えない。すばらしいと言わないと仲間外れにされる心配がある。要するに、日本全体がそこまで洗脳されてしまったわけですね。
 そういうのが、これから抜けていくと思うのです。ルネサンスが素晴らしいといっても、何回も行けば飽きてくる。それで京都・奈良へ行ってみるとびっくり仰天するという人が、これから出てくるだろうと思います。
 これを多少理屈っぽく解説いたしますと、そもそも何のために絵を描いているのか。ヨーロッパの絵はずっと教会がスポンサーで、その宣伝のために描かれました。だから教会にごますって、また次も描かせてもらおうという絵ですよね。それ以外には存在しない。それが西暦一三〇〇年代末ごろから急にルネサンスで、人間復興、文芸復興となり、宗教を離れて人間が人間のことを描こうとなった。
 それをやったのはユダヤ人です。キリスト教徒ではない人が、商売人としてミラノとかへなだれ込んできまして、その中であまり商売に向いていない人が芸術家になり、金持ちのために描いたのです。教会のために描いたわけではない、と、そのことがルネサンスと言われるわけです。
 しかし、平たく言えばスポンサーが違うという話ですね(笑)。
 自然とは神様がつくったものなのだから、それを人間が勝手に自分の印象どおり描くなどは神への冒涜だったのです。だから、描くものは常にキリストであり、弟子であり、雲の上の天使であった。自然だけをメインに描くなどとは神を否定しているわけで、教会に見つかったら叱られる(笑)。その時代に続いて、新しいスポンサーとして王様とか金持ち商人が登場したが、その奥さんやお嬢さんをきれいに描くなどということは、教会に見つかったら火あぶりにされかねないから絶対に外に出さない。大金持ちの家に呼ばれて、そこで描いてそこに置いてくるものなんですね。「一般に広める芸術」などというものではなかったのです。家庭用、自家用のプリクラです。いわば肖像画は「なるべく男前に描いてあげます」というインチキ記念写真なんです。写実主義といいながら、ちょっと割り増しつき(笑)。
 それに続いて絵の具が進歩して安く簡便になったので、スポンサーなしでも描けるようになった。また弟子不要になったので、一人で野外へ写生に行けるようになった。それが印象派の始まりで、貧乏絵描きが自分の思ったとおりに描くようになった。それが向こうでは芸術大革命なのです。
 日本人は非常に印象派が好きですね。モネとかルノアールとか。その印象派というのは、キャバレーのダンサーを描いたり、その辺の風景を描いたりと、要するに宗教とはまったく関係のない絵です。
 印象派の絵は日本の真似ですから、日本人によくわかるのは当たり前です。だから日本人には人気が高い。印象派の絵が何でヨーロッパで画期的かというと、神様へのごますりの絵ではないということです。自然を描き、人間を描くというのが向こうでは大革命だった。
 
飛鳥、奈良以来の高い芸術性
 日本は違います。飛鳥・奈良の芸術は、仏教を描いていたんですね。仏教はキリスト教と違うのです。キリスト教の場合は、神様がキリストを下し賜って我々を救ってくださった、その神への感謝を描こうというのがキリスト画になる(のちになるとご利益を願う意味も入りますが)。
 仏教はそんなことは言っていないのです。宇宙の根本精神は何なのかが出発点で、それを分野に分けて、何々のためには何とか菩薩がいるとか、それには弟子が一二人いるとか。そういう抽象的・神秘的な宇宙の根本原理を、仏像とか仏画にするわけですね。したがって、そこへ出てくる弥勒菩薩は、五〇億年考え尽くしたような顔をしていなければいけない。宇宙の根本原理を具象化するとこんな顔だろうと思いながら描いているのです。
 中にこもっている精神性が全く違う。そういう仏教精神が日本の伝統芸術にあるわけです。
 それでは、仏教伝来を元へたどって中国へ行けば同じものがあるかどうかというと、私は中国のお寺はたくさん行きました。それからシルクロードも行きました。敦煌もカシュガルも行きました。インドも行きました。行ったことのある方はご存じだと思いますが、日本のようにきっちり詰めて描いたり、仕上げたものはありませんね? 敦煌の絵などは、みんな殴り書きのペンキ絵です。銭湯の富士山よりもっとひどい(笑)。いや、本当ですよ。私は門外漢ですから、平気でこう言えます。王様は裸だったと言える子供のようなものです。
 どうしてそうなるかといえば、上海とか広東、天津あたりの大金持ちが寄附するわけです。しかし、いくら一生懸命描いたってスポンサーは見に来ないし、写真を撮って報告するわけでもない。描いている人は、仏教の修行として描いている人も少しはいるでしょうが、大体はスポンサーから金をもらって職業として描いている。つまり大量生産しているような絵だからだと思います。何であんなものを芸術だと言って日本人が騒ぐのかわかりません。はるばるあそこまで行った人は、行ったけれどくだらなかったというのでは淋しいから、いい絵を見たと言っているのだと思います(笑)。
 宮脇淳子さんというモンゴルの専門家に教えていただいたのですが、ご承知のように中国は本当に物を残さない。すべて潰して、二〇〇年前のものでもほとんど残っていないのです。敦煌はたまたま最近発見されて、非常に古いものが出てきたということで貴重なのだそうです。砂漠の洞穴に埋もれていたから残ったのです。あの時代のもので残っているものはあんまりないそうです。残っているのは地下に埋もれていたもの。お墓の副葬品。それから瀬戸物と日本人が持って帰った書物だそうです。江沢民は“歴史に学べ”と言いましたが、中国の歴史は日本人の方がよく知っています。







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