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益田太郎と帝国劇場・・・山口昌男
I 二十七歳、実業家としてデヴュー
 
六四歳頃の益田太郎
[『台湾製糖株式会社史』より]
 
 帝国劇場が発足した時、準備室の中で益田太郎の名前が見えるのは意外だった。他の委員に較べて若すぎたのである。太郎は明治八年(一八七五)九月二十五日益田孝の次男として生まれた。長男は病死しているので次男太郎は嗣子として育てられた。太郎には戸籍上は三男が居るが、この人物は孝の愛妾(あいしょう)たきとの間にもうけた信世である。
 このころ父孝は三井物産の前身である商事会社「先取会社」で活躍していた。この商事会社のちの蔵相井上馨と二人で設立した会社で孝が経営者として実業界のトップに躍り出る直前のことである。(高野正雄『喜劇の殿様―益田太郎冠者伝』角川書店 平成十四年14頁、以下この書による)
 御殿山の益田邸は、現在のJR品川駅近くの高台にあった。益田孝の地位向上とともに整備されていって後に碧雲台と呼ばれた。
 敷地一万二千坪。門が二つあり、二階建ての洋館(ジョサイア・コンドル設計)に隣接して、これも二階建ての日本家屋が立ち並び、庭園に桂離宮の一部を模倣して造られた数奇屋風の新座敷とよばれる建物があり、これら三つのウイングになってつながっていた。
 明治十九年、慶応義塾幼稚舎から東京府尋常(のちの東京府立一中)へ進み同三十四年中学卒業と同時に、父孝の意向で英国へ留学した。益田の一族は孝の意向によって海外留学の道をたどった。次弟の克徳(こくとく)、末弟の英作(えいさく)さらに妹のしげ(繁子)まで留学させている。
 三年後の明治二十七年、リース中学を卒業した太郎はイギリスを離れて、ベルギーのアントワープの商業大学に入学した。
 太郎は当時「太郎がロシアン・ダンスに熱中している」というお目付け役を果たしていた叔父英作の報告を聞いて心配した孝の憂慮のなせるわざである。ロシアン・ダンスとは当時イギリスを屡々上演のため訪れていたディアギレフの率いるロシア舞踏団を指すに違いない。
 太郎がロンドンを去る直前に日清戦争が勃発した。八年に亘る留学から帰国した彼は世紀末ヨーロッパの軽演劇の息抜きをたっぷり吸っていた。
 明治三十五年(一九〇二)横浜正金銀行における“修行”を終えた太郎は、孝の指示に従って日本精製糖株式会社(のちの大日本製糖株式会社)の常務取締役に就任する。親の七光りではあるが、こうして太郎は実業家としてデヴューした。ときに二十七歳であった。
 孝が太郎を糖業界入りさせたのは、当時三井物産の手で台湾に製糖会社が設立されているからである。
 わが国の台湾における糖業開発は成功裡に展開し、明治三十七、三十八年の日露戦争終結による好況と相まって大成長を遂げた。
 明治三十六年、太郎一家は横浜から東京の日本橋浜町に移転した。日本精製糖の本社が江東区小名木川畔の砂町にあったためである。
 
II 太郎冠者のペンネームで創作活動
 太郎が太郎冠者のペンネームで戯曲を書きはじめたのは、日本精製糖の常務取締役を務めていた時期の明治三十七年のことであった。
 劇作のはじまりは伊井蓉峰(ようほう)のために一人芝居「馬鹿だね」などを書いた時であり、川上貞奴に依頼されて創作している。「馬鹿だね」が上演されたのは明治四十五年、本郷座においてであった。
 
「瓜一つ」大正三年七月上演。
右より村田嘉久子の芸子、森律子の若旦那、尾上梅幸の紳士、河村菊江の令嬢
 
「ドッチヤダンネ」大正六年五月上演。
前例右より 守田勘弥の依田孝一、森律子の芸奴栄子、沢村宗十郎の幇間花丸。
いずれも益田太郎冠者作[『帝劇の五十年』より]
 
 最初の戯曲は「鴛鴦亭(おしどりてい)」という喜劇で雑誌『文芸倶楽部』の明治三十七年十一月号に掲載された。益田太郎冠者・作という作者名のとなりに“思案外史・補”とある。思案外史というのは当時の『文芸倶楽部』編集長で思案の添削を受けていたことになる。
 上演された最初の作品は高野正雄氏によると明治三十七年十二月本郷座の高田実(みのる)一座「高襟(ハイカラー)」という喜劇であった。
 「鴛鴦亭」は欲をめぐる三幕物のすれ違いの喜劇である。「鴛鴦亭」という名前の安宿が舞台。宿泊客の強欲な金貸しが泥棒騒ぎに巻き込まれ、女連れであることを隠そうとして警官の取調べに大慌てで、つじつまを合わせようとして、挙げ句の果てに所持していた大金が女の手に渡ってしまう―恐らくモリエールの『守銭奴』をヒントにした作品であると高野氏は言う。
 帝国劇場開場以前の益田太郎の活動については十八作になるが高野正雄によると、作品で整理されるのは帝劇開場以後のもので、それ以前のものははっきりしないという。
 明治三十一年、太郎が帰国したころの日本の演劇は、歌舞伎が低調を極め、新劇は実験的なものにすぎず、前衛性とエンターテイメント性を抜け出しているとは言い難く、却って田中智恵が日蓮宗の行動を広めるために行った演劇活動が観客を得ているに過ぎなかった。貞奴の芝居に太郎冠者は関係したが、大した成果は得られなかったらしい。
 太郎冠者の劇作活動は「高襟」のあと、翌三十八年六月本郷座で上演された高田実一座による「正気の狂人」、翌三十九年二月に明治座で上演された伊井・河合武雄「思案の外」、翌十月に明治座で上演された川上一座による「新オセロ」と続いたがいずれも喜劇だった。
 太郎冠者の「正気の狂人」は当時の劇評では「俄の品の好いものという」(『歌舞伎』誌)ものであった。「玉手箱」は金持ちの令嬢に婚約者がいるとは知らず求婚しようとする二人の青年が主人公。イタズラ好きの婚約者の計略にひっかかって二人は散々な目にあう。この作品は大正四年十一月、新富座で再演される。「思案の外」は細君の浮気がバレて困り果てていた主人公が“金五万円”の会社顧問の電話で危うく救われるという話。
 明治三十九年二月二十四日、歌舞伎座で開かれたイギリス国賓アーリー・コンノート殿下歓迎観劇会で太郎冠者作品が上演された。この催しでは旧派の俳優によって三作品が上演されたが、その一つが彼の「昔話(むかしがたり) 日英同盟」という作品だった。三浦按針の事績を題材にしたもので、今日でいえば「将軍」(映画)のようなもの。外国人にアダムス(按針)とお通が家康の前で祝言するという祝典劇であったらしい。(高野、上揚書)
 岡野氏は「歌舞伎」誌(明治三十九年三月)に太郎冠者の取材に基づく対談が載せられている。
 「外国には喜劇役者というものが別にあってこれを演じるので、その老練な事は、日本などでは見る事の出来ないほどの腕前を持っているものがあるが、日本にも古くから間(あい)の狂言というものがあって、これはつまり昔の喜劇で、背景もなく衣装も不完全な上に、一種の狂言詞(ことば)を以って演じて、好く風刺の意味を現し、またよく人を笑わせる気合を写し出すのは敬服ものだ。」
 太郎は日本の笑いの本質が、間の狂言にあった事を知っていたのである。
 明治三十九年七月、太郎は日本精製糖株式会社を辞任して、翌八月、台湾製糖株式会社に移って約二十年にわたって二足のわらじをはくことになる。
 太郎の創作活動は「新オセロ」のあと、明治四十年(一九〇七)六月「女天下」(新富座、伊井蓉峰ら)、四十一年五月「保険ぎらい」(歌葬伎座、伊井ら)、同年八月「渡辺」(新富座・伊井ら)同年九月「唖旅行」(本郷座、川上一座)、翌四十二年九月「空中飛行機」(有楽座、高田・井上正夫ら)、同年十一月「座敷びらき」(本郷座、川上一座)―と続く。
 この頃の演劇の外題のつけ方がふつうは歌舞伎のそれを模倣する四角四面のものが多かった中で大郎の外題のつけ方が如何にスマートであったということを示すものである。この中でも「女天下」「渡辺」「唖旅行」はのちに帝国劇場でも再演された。帝劇において太郎冠者の位置が、益田孝の長子である以外に劇作家としても用意されていったことがわかる。
 女優としては川上貞奴しかいなかった当時、喜劇いえば大阪仁輪加の流れをくむ曽我廼家五郎・十郎くらいしか存在しなかった。そこへロンドンやベルギーで洗練された茶番劇を売り込もうという太郎が現れた。







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