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IV 西洋の題材の日本化、日本の題材の西洋化
 それゆえ、この問題は歌詞の日本語化だけの話にとどまるものではなかった。このような形で日本固有の歌劇をうちたてることが目的だということであってみれば、西洋で作られた作品を輸入して上演するということ自体、決して本来求めているものではないのであり、自前の作品を作ることに最終目標が置かれているはずだからである。
 『帝劇十年史』では、《カヴァレリア・ルスティカーナ》に続いて《熊野》(明治四十五年二月)、《釈迦》(同六月)といった創作オペラの上演が積み重ねられてゆく経緯が、「外国の歌劇を直訳的に演ぜしものにして、未だもって真の日本歌劇」とは呼べなかった《カヴァレリア・ルスティカーナ》を超えようとする試みとして位置づけられている。《熊野》は言うまでもなく謡曲に題材をとったものであり、その意味では宝塚の歌舞伎改良路線に限りなく近いものであったと言っても良い(宝塚歌劇の創始者である小林一三が帝劇で《熊野》の公演をみたことが宝塚創設のきっかけになったということはよく知られている)。この《熊野》の公演は、観客が途中で笑い出す始末で、失敗に終わったのであるが、決して内容が未熟で幼稚だったというわけではない。この作品にはすでに東儀鐵笛が曲をつけたものがあったのだが、帝劇ではお雇い外国人のユンケルに作曲を依頼し、この音楽が日本人にとってはいささか内容と不調和に思え、笑いを誘ったということのようである。東儀鐵笛の曲を捨て、ユンケルに新たに作曲させるあたり、帝劇の路線はたしかに西洋志向が前面に出ているのであるが、そこで目指されていたのは決してわれわれが考えるような「直輸入」ではなかった。たしかにローシーが指導するようになってからは、「直輸入」的な作品の上演の頻度が高くなるのであるが、それでも決して西洋の作品一辺倒になったわけではないし、小林の訳詞に象徴されるように、「直輸入」の作品であっても積極的な「日本化」が試みられた。言いかえれば、西洋の題材の日本化と日本の題材の西洋化という両極の間を試行錯誤しながら「日本歌劇」の確立の道を探ったというのが帝劇歌劇部の仕事であった。それは、今日われわれの考える「直輸入」イメージよりはよほど、宝塚の歌舞伎改良路線に近いものであるようにみえる。
 宝塚と帝劇の両者で共通に前提されており、今日の「直輸入」オペラでは失われてしまっているものがあるとすれば、それは「日本歌劇」を創出しようとする強い意志ではないだろうか。すでに触れた坪内逍遥らの「国民劇」の思想は、具体的な形こそ違え、帝劇歌劇部にもやはり共有されていた。帝国劇場という劇場それ自体、「一国の体面上、外賓を待つに適する一劇場」(『帝国劇場案内』大正七年)と言われているように、西洋の一流国ならどこでも持っている劇場に伍する存在として構想されたのであり、そういう意味では、西洋のオペラに匹敵する、いわば「帝国」の威信をかけた「国民劇」が求められたことは、ある意味では当然のことと言って良いだろう。そしてそのようなことであってみれば、たとえばブダペストやプラハの歌劇場で「国民オペラ」の新作とともに既成の作品の自国語による上演が求められたように、帝劇でも新作とならんで、西洋の作品の日本語上演が求められたということはすこぶる納得のゆくことなのである。その意味で帝劇は、まさに国際的に広がっていったナショナリズムの渦の中に位置していたとみることもできるだろう。敗戦とともに訪れた日本の国家主義の壊滅、そしてナショナリズムのあり方をめぐって世界的に生じた変化、そういう中で、初期の帝劇が求めたような「日本歌劇」の表象はアクチュアリティを失ってしまった。しかしそれは幼稚で未熟な「前史」などでは断じてない。良きにつけ悪しきにつけ、そこにはまぎれもなく、一つの世界があった。それを語り出すことが「文化」を語るということなのではないだろうか。
・・・〈東京大学教授〉
 
帝国劇場二年目で、謡曲「熊野」をアレンジした歌劇が上演された。
宗盛役を清水金太郎(右)と熊野役を柴田環
(後の三浦環)
 
ローシーが来日したその月に上演されたローシー作・振付の無言劇「犠牲」。
右より 松本幸四郎のラダメス・ローシーのユーラム、ジュリアリーベのナスラ(明治四五年[一九一二年])
 
大正八年[一九二〇]九月に来演したロシア・グランド・オペラの「カルメン」
(いずれも『帝劇の五十年』より)







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