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III 帝劇開場
 明治四十四年(一九一一)三月、東京・丸の内の皇居の濠端に帝国劇場が誕生した。
 これまでの劇場は木造であったが、帝国劇場は白煉瓦の建物、石とコンクリートで出来た日本最初の洋風建築だった。
 諸外国の劇場は十九世紀までに国立または市立になり、国家または市民の格式を誇示するに足る都市の中心建築になっていた。
 提唱者は伊藤博文、西園寺公望、林董(ただす)といった政界の大立者達。林董は中国大使・英国大使を歴任した人物であった。財界の渋沢栄一が中心となり、三菱の元老荘田平五郎、時事新報社長福沢捨次郎らが金集めなど実現に向かって奔走した。その結果明治三十九年十月十八日、財界の有力者三十一人が名を連ねる帝国劇場設立のための第一回発起人会が開かれた。この発起人会には渋沢栄一、荘田平五郎、福沢捨次郎、福沢桃介、日比翁助、田中常徳、手塚猛昌の七人のほかに、益田太郎と西野恵之助が創立委員に選ばれた。帝劇史の中に益田太郎が突如として姿を現す。明治三十九年一月中旬にさかのぼる。新橋の料亭「花月楼」で「大劇場設立の基本方針を相談する会」が開かれた。出席者は渋沢、荘田、福沢、益田孝ら財界首脳で、のちに帝国劇場となる大劇場の設立の方針はこのとき決定した。この席に太郎も父孝と共出席していた。この相談役的な会合の顔ぶれを見ても凡そ、演劇に関係して造詣が深い人物といえば益田太郎のみである。帝国劇場のために集まった人々の中に例えば依田学海、福地桜痴を含んでいないということは、帝国劇場の演劇論的な意味での限界を見せるものであった。
 
「女天下」大正九年七月上演。
右より 尾上松助の岩山、藤間房子の妻かね子、沢村宗之助の春木、森律子の夫人百世子、村田嘉久子の妻お昌、守田勧弥の魚屋八五郎。益田太郎冠者作
 
昭和一二年九月、帝劇関係者の集合写真。
東京会館で写す。
最前例左四人目より、森律子、松本幸四郎、和田英作、平沼亮三、西野恵之助、渋沢秀雄、吉岡重三郎、小林一三、益田太郎、根津嘉一郎、山本久三郎、沢村宗十郎、村田嘉久子、島海照雄。
中後列に、南部たかね、市川高麗蔵(のち団十郎)、東日出子、藤間房子、杵屋寒玉、常盤津松尾太夫、沢村田之助、中村芝鶴、原信子、高田せい子、河竹繁俊、浜村光蔵、石井漠の顔が見える
[上下とも『帝劇の五十年』より]
 
 大劇場の設立は、この相談会で決まり、九ヵ月後に早くも第一回発起人会へとこぎつけた。
 第一回発起人会には孝は出席していない。その理由を高野正雄氏は、太郎の“帝劇入り”を引き換えに自分は下りることにしたと考える。(前掲書三八頁)
 明治四十年(一九〇七)二月二十八日、創立総会が開かれ、役員選挙によって益田太郎は帝国劇場株式会社の取締役の一人になる。台湾製糖取締役の仕事と帝劇重役兼劇作家の併合を並立させるに至る。
 帝劇のうち太郎は文芸面の責任者になる。重役陣の顔ぶれは次の如くである。会長が渋沢栄一、専務が西野恵之助、取締役大倉喜八郎、福沢桃助、日比翁助、田中常徳、手塚猛昌、それに益田太郎、重役の中でただ一人で文芸担当は予定のプログラムだった。
 帝劇は開場に当たって専属歌舞俳優の引き抜きを行った。引き抜きに携わったのが西野専務を中心に元・時事新報社記者伊坂梅雪(のちの帝劇幕内主任)が指導して進められた。
 このようにして、次のようなスタッフが用意された。まず六代目尾上梅幸を座頭に、立役に市川高麗蔵(七代目松本幸四郎)、二枚目に七代目沢村宗十郎、娘形に初代沢村宗之助、老役に四代目尾上松助、三枚目に尾上幸蔵という一座であった。
 こういう足を運ばなければならない仕事に付けて太郎の専念したのは女優養成であった。
 明治四十一年(一九〇八)九月に誕生した養成所は賛否大論争が巻き起こった。女優が一人しかいない時に、川上貞奴を所長とする施設が帝劇にできたという世間の反応は厳しいものであった。森律子の卒業した跡見高等女学校は、彼女の名前を卒業名簿から削ってしまった。そして彼女の弟は一校生であったが、周りの冷遇に耐えかねて自殺を遂げてしまった。
 こうして日本における女性解放の歩みは第一歩を踏み出す。
 
益田太郎冠者作の「おってくさん」の脚本
[清島利典蔵]
 
 二年間の修行年限を終えた第一期生として、帝劇女優が誕生した森律子、村田嘉久子、など十一人で、同校は大正十二年第七期の卒業生を出すことによって解散した。貞奴が主任を務めたのは二月だけであった。太郎はこの“女優の卵”たちの試演会のために五作品を書いている。
 帝劇重役として太郎が試みたもう一つの仕事は、管弦楽部の設置であった。劇場に管弦楽部が設けられる。
 帝劇では現代劇の女優出演を考えていた。このことは貞奴の帝国女優養成所さらに帝劇付属技芸学校の教科に「日劇」「日舞」「長唄」「義太夫」のほかに「新劇」「バイオリン」「声楽」の科目を持っていた。そこで新劇の演劇指導を太郎は二十年間に亘って行っていたということである。
 管弦楽部をはじめて設置したのは帝劇で、養成は帝劇開場の明治四十三年のことで、九月からはじめられ、メンバーの養成に当たったのは東京音楽学校教師だったユンケル(バイオリニスト)とヴェルックマイスター(チェロリスト)という二人のドイツ音楽家であった。大正元年九月、十四名による管弦楽部が発足した。初代楽長は、のちに宝塚歌劇でオーケストラの指揮者をつとめる竹内平吉であった。三人の音楽教師は横浜の「ゲーテ座」で活躍した人物であるということは、日本近代の劇場史を考える場合に知らずに済ますことはできないであろう。
 実際帝劇を考える場合、この劇場が単に建物だけが新しく、その他に日本近代でこの劇場に真に新しく持ち込んできたものは意外に意識されない。益田太郎冠者が持ち込んだもの―女優、コメディが論じられたことはないと高野正雄氏は改めて指摘する。「ゲーテ」座は十九世紀に西欧で流行したコミック・オペラを盛んに上演していたが、その一つに「バンドマン喜劇団」を帝劇に持ち込み舞台に載せた。







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