III 「本格直輸入」に相対立する日本語上演
その際に、「改良派」の旗頭であった西の雄・宝塚のライバルとして登場してもらった東の「直輸入派」の代表が帝劇だった。最初に述べたように、帝劇では開場直後に歌劇部を作るが、その活動は宝塚とは違い、たしかに最初から「西洋志向」だった。管弦楽部を司っていたのは東京音楽学校に来ていたお雇い外国人のユンケルやヴェルクマイスターだったし、翌大正元年になるとイタリアからやってきたローシーを音楽監督に据え、ますます「本格直輸入」路線を強めることになる。フンパーディンクの《夜の森(ヘンゼルとグレーテル)》(大正二年二月)、モーツァルトの《魔笛》(同六月)、オッフェンバックの《天国と地獄》(大正三年十月)、ベッリーニの《夢遊病の女》(同十一月)など、泰西名作オペラが次々上演されている状況をみれば、それが宝塚の歌舞伎改良路線とは逆に、西洋の本格オペラの「直輸入」によって日本のオペラ文化を作り上げてゆこうとする方向での展開を図っていたこと、その意味で、今日のわれわれが抱く「本格的」オペラの表象に近いイメージで日本のオペラ文化の未来を考えていたことは間違いないようにみえる。
しかし本当にそうなのだろうか。初期の帝劇でのオペラ上演の様子をよくよく眺めていると、そこで目指されていたことは、今われわれの考えるような「本格オペラ」のイメージとは相当に違うものであるように思えるのである。もちろんそれは宝塚流の歌舞伎改良路線とははっきりと傾向を異にしているし、その意味で両陣営の間にはっきりした路線対立があったことは間違いないのであるが、今あらためてみてみると、帝劇が今日流の「直輸入」路線をもって宝塚の「歌舞伎改良路線」に対抗したというよりは、両者が今日の「直輸入」のオペラ・イメージとは相対立する性格を共有しているという側面の方がはるかに目につくのである。初期の帝劇にみられるこのような部分については、従来ともすると、日本のオペラが未だ幼稚で未熟であったがゆえのものとして否定的に語られがちだったのだが、これはいささか勝利者史観的な見方に過ぎるのではないだろうか。われわれにはむしろ、当時の帝劇のオペラにある、今日では失われてしまったような要素がこの時代に機能していたことを肯定的に捉えた上で、それを成り立たせていた「磁場」をあぶり出してゆくことが求められているのではないだろうか。
ローシーが指導した歌劇『古城の鐘』(小林愛雄作)、清水金太郎のヘンリー公 |
カービ伊太利歌劇公演のプログラム
カービ伊太利歌劇公演のちらし
ここではそのことを、上演に用いられる言語の問題を例として具体的に考えてみることにしよう。帝劇でのほとんどの上演は日本語で行われている。先に挙げた四つの演目でみると、《夜の森》は松居松葉、あとの三つについては小林愛雄が訳詞を担当している。小林は帝劇歌劇部が解散になった後も、ローシーが赤坂に開設したローヤル館、さらに浅草オペラ等で多くの演目の訳詞を行っており、この時代のオペラの訳詞を一手に引き受けているといっても過言ではなかった。帝劇で大正四年九月に初上演され、その後、浅草オペラの定番となった、スッペのオペレッタ《ボッカチオ》中のアリア「ベアトリ姐ちゃん」の訳詞などは実に秀逸であり(そもそもベアトリーチェという登場人物を「ベアトリ姐ちゃん」などと呼んでしまうところからしてすごいが)、「ベアトリ姐ちゃん、まだねんねかい、鼻からちょうちん出して」などという、みごとにこなれた日本語になっているのは驚きである。こういうあり方をどのように理解すべきなのだろうか。
少なくとも、今日のオペラ上演においては原語上演こそが「本格的」な上演であり、日本語による上演は、むしろ歌手や客が日本人であることに配慮した妥協的なやり方であるかのようにみなされることが多い。ある時期までは、とりわけ藤原歌劇団などは日本語の訳詞によって上演するという路線をとっていたが、そのうち原語路線におされはじめ、今日では学生の上演のような場合を除くと、日本語上演を目にする機会は少なくなってしまった。それどころか、藤原歌劇団が日本語路線をとり続けてきたことが日本で本格的なオペラ文化を作ってゆく上で阻害要因になったかのようなことまで言われるようになってしまった。そんなわけで今日では、日本人の歌手が日本人の客を前にして演じる場合でも、原語で歌い、客は字幕スーパーを見ながら鑑賞するという、よく考えてみるときわめて不可思議な慣習が当たり前のように行われているのである。そういうことからするならば、帝劇での日本語上演は、日本のオペラ文化が、未だこういう「本格的」な上演を可能にするだけの条件が整っていない未熟なものであったがゆえのことであるようにもみえかねない。
一言付け加えておくと、この「原語上演」への傾きは、べつに日本だけの話ではない。第二次大戦前の歌劇場ではどこの国でも自国語での上演がかなり普通に行われていたから、モーツァルトのオペラの歴史的録音を集めたCDなどをきいていると、フランス語の《フィガロの結婚》とかロシア語の《魔笛》などというものが山ほど出てくる。マーラーがブダペストの歌劇場の指揮者として赴任したとたんに、ワーグナーの《ニーベルンクの指環》のハンガリー語上演に関わる羽目になったなどという話もある。戦後になって原語上演が主流になっていったのは、音楽全般に関して原典版を志向するような歴史主義的傾向が出てきたことにもよるが、より重要なのは、歌劇場がもともともっていた国家の文化的象徴としての性格を弱めてきたことであろう。すでに述べたように、ヨーロッパの各都市で歌劇場があれほど重要な位置を占めるようになったのは、それが国家の文化的アイデンティティの中核をなすものと考えられたからであり、それゆえに、歌劇場では、基本的に現地の言葉を使うという前提で地元調達で専属スタッフを揃えていた。戦後、歌手たちが世界をまたにかけて仕事をするようになり、地元スタッフで固めるという習慣も薄れてくると、いろいろの国籍の歌手が入り交じり、ドイツの歌劇場などでは歌手の大半がアメリカ人や日本人であるなどという状況も生じてきたりして、現地語で歌うことの意味が薄れてくることになり、原作の語で上演するのが一番当たり障りがないというような状況になってきたのである。その意味では、この問題はナショナリズムのあり方の変化と密接に関わっているのである。
大正六年(一九一七)十月にローヤル館で上演された「カヴァレリア・ルスティカーナ」。 |
左が原信子、右が田谷力三 (台東区立下町風俗資料館所蔵) |
そのことを踏まえて帝劇オペラの日本語上演の問題を考えてみると、原語上演の方が「本格的」だなどという単純な話におさめるわけにはいかなくなってくる。これはつまり、本来は原語上演すべきであるのにいまだオペラ文化が未熟だったので日本語上演というような折衷的な形態で上演したというような話ではそもそもないのではないだろうか。その点でおもしろいのは帝劇での《カヴァレリア・ルスティカーナ》の上演である。柴田(三浦)環とイタリア人歌手のアドルフォ・サルコリによってこの作品が演じられたのはローシーの来日前の明治四十四年十二月のことであり、たとえ一部であったにせよ、初の本格的オペラの上演と言って差し支えないであろうが、これが何と原語で演じられているのである。しかしその理由は、日本語の訳詞を用意するだけの余裕がなかったからであり、いわばやむをえずそのまま原語で上演したのであって、決してそちらの方が本来のあり方だなどという理由ではない。大正九年刊行の『帝劇十年史』には「斯くの如くにして漸く歌劇の体を備えたりと雖も、其内容たるや外国の歌劇を直訳的に演ぜしものにして、未だもって真の日本歌劇とは謂うべからず」と書かれている。
この時代にオペラについて書かれたものを読んでいると、そのあたりの感覚が今日とは全く違うことがわかる。たとえば青柳有美は宝塚の機関誌『歌劇』に掲載した「宝塚ペラゴア読本」という連載記事の中で大正十三年から十四年にかけて七回にわたって「日本歌劇史」を語っているのであるが、そこには次のように書かれているのである。
「西洋のオペラが、日本に移入されて、日本の国土に於いて発達を遂げようとすれば、日本固有のオペラとも観るべき能と歌舞伎との影響を当然受けねばならぬ筈のものだ。然り、西洋のオペラは現に是等の影響を著しく受けて、日本に於ける特殊の発達進歩を遂ぐべく其道程を辿りつつある。然し、オペラが伊太利からはじめて独仏へ移入された当時、毫も其固有の舞楽に影響せられず、伊太利より移入されたままで演出せわれて居った如くに、日本へも西洋のオペラが初めて移入された時には、矢張之を西洋の儘に演出するのみで、之に日本固有の能や歌舞伎の色彩は些かも加わらなかったのである。」
ここにあるのは、原語上演こそが本来のものだという価値観とは正反対のものである。こういう価値観にたってみるならば、その後、訳詞路線が定著し、それがどんどんこなれたものになってきて、件の小林愛雄の名訳なども出てくるようになるという動きは、真の「日本歌劇」が確立してくる動きそのものなのであり、日本人に馴染みやすいように妥協的になっていたなどということとは根本的に違うのである。日本のオペラ史を書いたものにはしばしば、本格オペラは日本の観客には無理なので妥協を重ね、結局浅草オペラのような低俗な形態になってしまったというような記述がみられるのであるが、そういう事態が生じている磁場のまっただ中に身を置いてみるならば、事態は全く違ってみえてくるのである。
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