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II 国民的を歌劇の確立を目指す
 こういう疑問から出発した私がまず目をつけたのは、宝塚歌劇団という存在であった。宝塚といえば、今のわれわれにとっては、女性が男役を演じる、ちょっとばかり倒錯的な魅力にとらわれたディープなリピーターの集まる、いささか特殊な場所というイメージであり、「本格的」な歌劇とは縁のないものにみえてしまうのだが、そういうイメージは実は後世になってからのものであり、当初は歌舞伎を「近代化」し、洋楽や洋舞を導入することによって近代国家としての日本にふさわしい「国民的」な歌劇の創設を目指す団体としてスタートしたのであった。少女ばかりでスタートしたのは、まずはやりやすいところからはじめて、徐々に「本格的」なものを目指そうという、創設者小林一三の方針によるものであり、女性だけで演じることこそが宝塚の宝塚たるゆえんであると考えてしまうのは、今われわれの知っている宝塚のあり方をそのまま宝塚一般の基本的な特徴にすりかえてしまおうとする悪しき本質主義のなせるわざである。宝塚では再三にわたって、「男性加入論」が取りざたされ、実際、戦前には何度か試みられもしたのであるが、うまくいかず、そうこうするうちにオペラの世界全体の風向きが変わってしまい、その中で生き残ってゆくために「女性だけ」という特徴を前面に出す戦略にのりかえたのである。今ではディープなファンの雑誌のような様相を呈している宝塚歌劇団の機関誌に、オペラ界の代表であるかのような『歌劇』という大層なタイトルがついているのは、今のわれわれには驚きであるが、それもまた、大正七年の創刊の段階では、宝塚が「本格的」歌劇の確立を目指していたことを今に伝えているともいえるのである。
 
大正七年五月初上京して帝国劇場の舞台を踏んだ宝塚少女歌劇(今日の宝塚歌劇)。
 
「三人猟師」
 
「ゴザムの市民」
 
「雛祭」
(『帝劇の五十年』より・協力=宝塚歌劇団)
 
大正一一年六月二六日、帝劇で上演する宝塚少女歌劇団
(江戸東京博物館蔵・協力=宝塚歌劇団)
 
歌劇雑誌『オペラ』に掲載紹介された宝塚少女歌劇と表紙
(清島利典蔵・協力=宝塚歌劇団)
 
プロセニアム・アーチ中央に「翁」のレリーフが位置する
(『帝劇の五十年』より)
 
 このあたりの事情については、かつて拙著『宝塚歌劇の変容と日本近代』薪書館 一九九九)に詳しく書いたのでここでは述べないが、ここでポイントになっている、歌舞伎を改良し「近代化」することによって「国民的」歌劇を作ろうとする発想は、オペラを取り巻くコンテクストが当時とは全く変わってしまった今日では、なかなかピンとこないのではないだろうか。明治も末に近づいてくるあたりから、世界に通用する一流の近代国家となるためにはその国固有の歌舞劇をもっていなければならないという主張が出てくる。もちろんそれ自体、先に述べた、オペラが自国の文化的アイデンティティに深く関わっている西洋諸国のイデオロギーのグローバル化そのものなのだが、その強い唱道者であった坪内逍遥などは、日本には歌舞伎という伝統的な歌舞劇があるのだから、それを生かしてこそ世界に誇る日本ならではの「国民劇」を作ることができると強く主張した。ただし、歌舞伎はストーリーが狭斜趣味に過ぎるなど、国際的に通用させるには不適当な要素も多く、「改良」し「近代化」してゆくことが必要だと逍遥は考えたのである。洋楽や洋舞を導入することによって歌舞伎を「普遍的」なものにしてゆこうという宝塚のような考え方も、その延長上に出るべくして出てきたものであるが、当の歌舞伎界自体にもこういう「改革」の空気が漲っていたことを忘れてはならない。市川猿之助(二世)が宝塚の演目にヒントをえて一九二一年に《虫》という、洋舞を取り入れた作品を上演していることなどもその一例だが、近代における歌舞伎復興の基礎を築いたとされる市川団十郎(九世)ですら舞台にピアノを持ち込んだというエピソードが示しているように、このような動きは日本文化の近代化過程にあっては、ある意味では「主流」といえる流れを形成していたのである。
 もちろん、すべての人がそう考えたわけではない。歌舞伎の「洋楽化」などというものはナンセンスであり、やっぱり本場のものを「直輸入」してこない限り本格的なオペラなどできないという、今日の一般的な考え方に近いことを主張する人々もいた。つまり日本の「国民劇」の路線をめぐるヘゲモニー争いが起こっていたのである。その中で「改良派」が力を失い、「直輸入派」が主流になってゆくという変化、そして歌舞伎などの伝統芸能も「近代化」路線を捨てて「保存」路線に移行してゆくという変化がどうして起こったのかというのが前記拙著のテーマであり、そこで私はこの「直輸入派」と「改良派」の対立構図が「東京対大阪」という対立構図に重ね合わされていたこと、そして昭和初期から顕著になった中央集権化の流れの中で、東京の文化が大阪のそれを制圧してゆく動きが加速化したことがその変化の大きな要因となったことを示したのであった。







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