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VII 帝劇のレパートリー
 帝劇が開場した年のレパートリーを眺めてみると、四月は「椿姫」(デュマ作)、五月は「最愛の妻」(シェイクスピア作―「オセロウ」だろうか)、「透写筆命毛」(河竹黙阿弥作)、「水兵の歌とダンス」、「ふた面」(益田太郎冠者作)、「クラウドバレー」(「グランドバレー」なら意味はわかるのだが、他の本にもこう書かれている)、「藤公余影雪の段」(右田寅彦作)、「ハムレット」(シェイクスピア作)となっている。七月には「水滸伝雪挑」(黙阿弥作)、「安宅の松」(富士田吉治作曲)などに加えて、益田太郎冠者の「心の声」と「三太郎」がある。さらに「ケークウォーク」なる演し物もある。この上演プログラムを見ると、日本の古典あり、西洋の古典あり、さらに西欧風とおぼしきダンスありで、方向性が明確ではない。わずかに「椿姫」とシェイクスピアものから、やがてオペラやバレエをも上演する欧米風劇場を目指そうとしていることがうかがえる。しかしこの時点では、まだ可能ではなく、数年後には実現すべき計画であった。結局「舞台のモダニズム」は計画倒れに終わるのであるが、それは、当時の政治家や劇場経営者の理念とは別の形で帝劇のレパートリーにもぐり込んでいた。それが益田太郎冠者の作品だった。
 
帝劇開場の年、上演された『椿姫』
(中央、河合武雄の女優小千代春子、伊井蓉峰の露原有麿)
 
帝劇開場の年、上演された
『ハムレット』文芸協会第一回公演
右より 林和のレヤーチス、森英治郎のホレショオ、
土肥庸元のハムレット
[いずれも『帝劇の五十年』より]
 
 さいわい益田については『喜劇の殿様』という伝記(高野正雄著)が書かれているので、帝劇史の初期に彼が果たした役割をよく知ることができる。(彼および作品に関する記述はすべて同書に負う)。益田は三井物産社長孝の御曹司で、中学を卒業するとすぐ、父の意向でイギリスの名門パブリック・スクールに留学した。そこを卒業すると、ベルギーに移り、アントワープの大学に入った。合計八年ほどヨーロッパに滞在したが、その間フランスやドイツなども訪れている。英語にも仏語にも堪能で、ヨーロッパ文化にも造詣が深かった。当然劇場にはたびたび足をはこんでおり、大衆喜劇やショーを含めた当時の演劇事情に通じていた。そうした経験が帰国後実業家でありながらも、劇作家として活動するという道を選ばせている。帝劇設立の発起人には、父孝が渋沢栄一ほかの財界首脳とともに名を連ねているが、運営にあたっては太郎が役員の一人に任命されている。彼のアイディアは「洋風劇場」のソフトの面で大きな実績をあげている。特に「女優の養成」と「管弦楽部の設置」は彼の方針によるものだった。この時代ヨーロッパでは、エレン・テリー、サラ・ベルナール、エレオノラ・ドゥーゼといった大女優が燦然と劇界に輝いていた。どうして日本にこうした女優が現れないのか。「演劇の文明開化」はまず女優からだ、と彼は考えたにちがいない。女優の時代の到来を予見して、帝劇で女優の養成活動が始まった。その養成所が「帝劇付属技芸学校」だった。太郎冠者はもっぱら女優たちしか出演しない芝居を書いた。それが「ふた面」、「心の声」、「三太郎」であった。
 「ふた面」は二人の女優学校の生徒が主人公。二人が悪婆と毒婦の役に扮し、近く開かれる試演会の稽古にはげむうち、せっかくだから人前でやってみようということになり、仲間の家へ出向いて本番どおりやってみせる。そこへ同家の姉が帰宅し、“ユスリ場面”を現実と勘違いして逆に軍刀で二人を脅かしてしまう―。女優にユスリのタンカを切らせるのが趣向で、他愛のない喜劇だが、登場人物は女ばかり六人」(高野著前掲書)。
 
『カフェーの夜』佐々紅華作の脚本集と戯画
 
[清島利典蔵]
 
 あとの二本も「他愛のない喜劇」だが、大郎冠者はつかれたようにこの種のファルスを発表した。彼はこの劇場に「帝劇女優劇」というジャンルさえ生み出した。これは男性が支配する明治の演劇に対する否定であったが、同時に女優の存在なしに、演劇の近代化はありえないという主張でもあった。さらに彼は硬直した、重々しい演劇に対して軽い、喜劇を並べることによって、「文明開化」をはかった。おそらく当時の歌手の歌唱能力や音楽の演奏技術では、西欧のオペラやオペレッタを上演することは不可能であることを知っていたにちがいない。サヴォイ劇場のコミック・オペラやウィーンやパリのオペレッタなどを帝劇の舞台にかけることを夢見たはずであるが、しょせん日本ではむりだった。だから「ポピュラー・エンターテインメント」から始めることを選んだ。たしかに大衆は日本の芸能を楽しむような形で、「西欧の近代」を受容し始めた。また帝劇の開場以前にすでに横浜のゲーテ座にはイギリスの「バンドマン喜歌劇団」が公演を行っていた。開場の年にも「バルカンの女王様」といった、今ではもう知らされてはいないオペレッタを何本か上演していた。おそらくは大衆的なスタイルで歌ったり、演奏したりしていたのだろう。「バンドマン・スタイル」は東京でも大衆の間で知られていた。こうしてヨーロッパの軽文化は日本にも浸透してきた。太郎冠者の歌入り喜劇もやがてオペラ、バレエ、近代劇といった形で流入してくる正統的な「西欧の文化」に対する先兵の役割を果たした。彼の作品を介して、「ベルエポックのヨーロッパ」が大衆的なレベルで帝劇に実現した。
 太郎冠者は以後年二、三本のペースで、ほぼ二十年間帝劇に作品を提供してゆく。そのうち彼の名を広く知らしめたのは、「ドッチャダンネン」(大正六年)だった。特に劇中で歌われる「コロッケの唄」は作品と独立して流行し、浅草の舞台にまで広がってゆく。「浅草オペラ」として大当たりをとった「カフェーの夜」で歌われ、さらに流行は広がっていった。結局彼は帝劇と「浅草オペラ」を結ぶことになったばかりか、「舞台のモダニズム」を定着させることにも貢献した。







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