VI 帝劇と浅草の劇場
われわれは「浅草オペラ」と呼びならわしているが、これは特定のジャンルのオペラを指す呼称ではないという(増井敬二『浅草オペラ物語』)。同書に依拠しながら、「浅草オペラ」のことを書くと、大正期にはこうは呼ばれてなく、ただ「オペラ」が「浅草のオペラ」と呼ばれていた。またなにもオペラ、オペレッタでなくても、ということは普通の芝居でも「浅草オペラ」と呼ばれたようだ。帝劇を離れた高木徳子が大正五年伊庭孝と組んで始めた「浅草オペラ」も、舞踊と創作劇であって、オペラではなかったのであるが、こう呼ばれた。ただ音楽劇や歌入りの喜劇が多かったというから、やがて正統的な新劇へと流れ込んでゆくシーリアスな問題劇とは無縁だったようである。帝劇でもそうだったが、創作劇に導入される歌の多くは、歌詞は創作で、曲は欧米のものだった。大衆化にはこうした操作が必要だった。
「アルカンタラの医者」の脚本集
佐々紅華作の『地獄祭』。震災後の函館の大黒座で公演模様 |
「コルヌビルの鐘」大正六年七月ローヤル館での公演写真 |
ミナミ歌舞劇が上演したカルメン。 笹本甲午と木村時子 |
浅草オペラを上演した駒形劇場の正面
大日本歌劇俳優大番附 大正九年九月
私などがまだそらで歌えるものに、「ベアトリ姐ちゃん・まだねんねかい/鼻からチョーチンを だして/ねぼすけ姐ちゃん 何をいってるんだい/ムニャムニャ 寝言なんかいって/歌はトチチリチン トチチリチンツン/歌はペロペロペン 歌はペロペロペン/さあはやく起きろよ」というのがある。これは「ボッカチヨ」の一節であるが、有名な「恋はやさしい、野辺の花よ」も同じオペレッタで歌われたものだった(清島利典『恋はやさし、野辺の花よ田谷力三と浅草オペラ』)。「ボッカチョ」はスッペのオペレッタで、一八七九年にウィーンで上演された。原曲は聞いていないので、断言はできないが、「ベアトリ姐ちゃん」の歌詞も創作かもしれない。ビゼーの「カルメン」もはやくに上演されているが、やはり「浅草オペラ」風に修正されていた。オッフェンバックの作品などもそうだった。たとえば「ジェロルスティン大公妃殿下」も「ブン大将」のタイトルで親しまれた。高貴な世界は大衆のレベルに引き下げられた。帝劇が用意したロイヤル・ボックスは、浅草では小さな劇場の、硬い椅子へと変貌してしまった。たしかにヨーロッパで一世を風靡していたオペレッタは、大正年間日本になだれこんできたが、浅草ではミニマイズされてしまった。帝劇では「天覧」や外国の貴紳の観劇にふさわしい新しい文化のモデルに格上げされていたのとは対照的だった。帝劇は欧米に拮抗するハード・パワーは誇示することができたが、ソフトに関しては理念としての「欧化」を達成することができなかった。一方「浅草」はソフト・パワーを拡大して、「帝劇」を凌ぐようになり、反措定としての位置を固めていった。「浅草」にあっては、演劇的地理と地理的演劇が同じ意味をもつようになった。
|